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  # エッセイ(文芸・編集)
  
  - [高校生・短大生のための古典入門(99〜1)はこちら](/kestrel/ブランチ・エッセイ/文芸・編集(その1))
  
  ## 高校生・短大生のための古典入門(〜100)]
  
  

  
+ ### (161)女性による大蛇退治 2017/01/01

+ 東晋の干宝が著した『捜神記』(4世紀)に、娘が大蛇を退治する話が載っています。

+ 東越の国、閩中郡(福建省)に庸嶺という山がり、その山の西北にある洞穴に、長さ七、八丈、胴の周囲が十抱(かか)え以上もある大蛇が住みついていて、人に害を及ぼしていたそうです。

+  大蛇は十二、三歳の少女を食べたいと要求します。そこで、土地の役人は、毎年八月一日の祭りの日になると、奴隷の生んだ娘や罪人の娘を人身御供としてさし出していました。

+  十年目になったとき、李誕という男の家の末娘、寄が大蛇の餌食となることを買って出ます。李誕の家は娘ばかり六人いて、跡継ぎとなる男の子がいないことから、寄が心苦しく思い、両親の反対を押し切って大蛇の棲む洞穴へと出かけたのです。

+  寄は役人に、よく切れる剣と大蛇を噛む犬とを用意してもらい、八月一日に大蛇を待ちます。あらかじめ数石の蒸し米で団子をこしらえ、それに蜜と炒り麦の粉を混ぜたものをかけて、蛇の穴の前に置きました。果たして大蛇が大きな頭を出しました。大蛇の頭の大きさは米倉ほどもあり、目は直径二尺もある鏡のようだったそうです。

+  大蛇がこの米団子を食べている間に、犬に噛みつかせて、寄はうしろから切りつけて退治しました。洞穴からは九人の娘の髑髏が見つかったそうですが、寄はそれをぜんぶ持ち出すと、ため息をついて「あんた方は弱虫だから蛇に食べられてしまったのよ。ほんとうにお気の毒なこと」と言ったとあります。

+  越王がこのことを聞き、寄を召し出して后にしたそうです。

+ 奇は、何とも勇ましい女性ですね。

+ ご存じのように、日本神話に出てくるヤマタノヲロチは、男神スサノヲノミコトによって退治されます。

+  出雲国鳥髪の老夫婦、アシナヅチとテナヅチには娘が八人いましたが、ヤマタノヲロチがやってきて毎年一人ずつ食べてしまい、残るはクシナダヒメだけになってしまいました。それを聞いたスサノヲは、クシナダヒメとの結婚を条件に、ヲロチ退治を老夫婦に約束します。

+  ヲロチは八つの頭と尾を持ち、その長さは谷八つ、山八つにわたっていたとありますので、『捜神記』の大蛇よりも巨大です。スサノヲは、度数の強い酒をヤマタノヲロチに飲ませて酔わせたところを十拳の剣で切りつけ退治しました。

+  それにしても、大蛇は食べ物やお酒に弱いようです。飲食を供し、大蛇がそれらを飲み食いしている間でないと太刀打ちできないといった話の設定に、怪物への畏怖の念が感じられますね。

+  大蛇退治の話はユーラシア大陸に沢山ありますが、『捜神記』のように女性が大蛇を退治する話は珍しいです。越王が、美人であるかどうかよりも強く逞しい女性を后としたというオチも、醜くとも岩のように磐石なイハナガヒメを拒否したニニギノミコトとは真逆です。

+ さあ、『捜神記』の奇のように、今年も力強い一歩を踏み出しましょう。


+ (し)



  ### (160)江戸の珍談・奇談(23)-1 2016/11/22
  

  『耳嚢』の著者根岸鎮衛と昵懇であった志賀理斎の次子に宮川政運(まさやす)という人物がいる。父理斎に似て文学好きであり、山水を愛し、江戸近辺の名所旧蹟は尋ねて至らぬ所なく、行けば必ずその見聞を筆録したという(『日本随筆大成』第一期第16巻解説)。この趣味人に『宮川舎漫筆』という随筆がある。実際に見聞した奇談などが気ままに書き留められ、学者のような考証を伴わないから、肩肘張らず気楽に読むことができる。以下、目に付いた話を紹介しよう。
  
  >昔、四ッ谷辺に某という歴々の旗本があった。平将門の嫡統で、将門の着した兜(かぶと)を家に持ち伝えているという。いつの頃の話か、ある裕福な者に金子を借り受け、その質として例の兜を預けたところ、翌日、貸主が現われ、その兜を返納したいと言う。用立てた金子は都合のつく時でよろしいから、早速にもお返しする。その理由は、この兜を預かったところ、昨夜、甚だしく家が鳴動して、家内の者が一人も寝られなかった。恐ろしいことだ、と述べたという。〈『宮川舎漫筆』巻之二―『日本随筆大成』第一期第16巻、269ページ〉
  
  >宮川の次男は、従弟である加藤家を継いでいる。この家の系図は、小身にしては珍しく詳しいもので、神代は天児屋根命(あまつこやねのみこと)から始まり、大織冠(藤原鎌足)の末裔として、非常に詳細を極めていた。宮川の叔父がひどく貧しかった時分、出入りの町医師高木貞庵という者があったが、文政の初め頃、この医師が系図を見て格別に懇望したのである。そこで金2両で預けたところ、翌年この医師がやって来て、系図を返上したいと言って来た。叔父は「我が家の大切な品であるから、いずれ金子の調達がついたところで受け取りましょう」と答えたのだが、医師は「金子はいつでも構わない。ともかく系図は返したい」の一点張りである。子細を尋ねると、昨年来医師の家内の者が次々と病気になり、あらゆる手を尽くしている。家相または方位でも悪いのかと占者に占わせたところ、何かあってはならない品が障りとなっていると言われた。差し当たり他所から来た品は系図以外にない。それでお返ししたいのだと言うので、叔父が受け取ると、不思議なことに、その後あの医師方の病人も全快したそうで、医師が礼を言いに来たという。叔父の方では、金子の返済が先延ばしになったのだから、こちらから礼を言うべきなのに、向こうからの礼はおかしなことだと話していた。〈同上〉
  
  室町時代に成立したとされる『付喪神絵巻(つくもがみえまき)』には、「陰陽雑記云、器物百年を経て、化して精霊を得てより人の心を誑す、これを付喪神と号すといへり」と冒頭に記されている(国立国会図書館デジタルアーカイブ)。「器物百年を経れば、魂を得る」などという俗信は、この辺から出たものであろう。なお、出典とされた『陰陽雑記』は実在が確認されていない。
  
  この絵巻は、器物は100年を経ると精霊を宿し、付喪神となるため、100年となる前に「煤払い」と称して古道具などを路地に捨てていたところ、99年目を迎えた器物がその慣習に腹を立て、捨てられる前に一揆を起こすという他愛のない絵物語である。
  
  宮川の叔父が所蔵していた系図はいつ作った物か知れないが、真偽はともかく将門の兜となれば数百年は経ていよう。しかし、不思議なことに、所有する家には何の差し障りもないのに、何故無関係の所に変事が起こるのであろう。どうしてもその家から離れたくないという器物からのメッセージだとすれば、いよいよ手放すことは至難の業だ。兜や系図のその後の行方を知りたいものだが、案外納まるべき所に安座しているのかもしれない。
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (159)砧を打つ音 2016/11/12
  

  『源氏物語』夕顔巻で、五条の大弐の乳母を見舞った光源氏は、隣家の夕顔の花に心惹かれ、そこに住む女にも関心を持ちました。この夕顔の宿の女は、雨夜の品定めで頭中将が語った常夏の女のことで、頭中将の本妻・四の君から脅され、身を隠したのでした。
  
  光源氏は素性を隠したまま夕顔と交わりを持ち、自分でも不思議に思うほど夕顔にのめり込んでゆきます。八月十五夜、粗末な夕顔の宿で一緒に過ごした光源氏は、庶民の会話や唐臼の音、砧を打つ音などを聞き物珍しく思います。上流貴族の邸宅では、耳にすることのなかった庶民の生活の音です。
  
  >…白栲の衣うつ砧(きぬた)の音も、かすかに、こなたかなた聞きわたされ、空とぶ雁の声とり集めて忍びがたきこと多かり。〔新全集①156頁〕
  
  砧とは、ごわごわとした織布を木の槌で打って柔らかくし、光沢を出す道具のことです。新編日本古典文学全集①156頁の頭注では、「その愁いのこもった音によって、月夜に婦人が遠地の夫を思う漢詩の材料などに多く用いられる」とし、この場面の典拠として『和漢朗詠集』の「北斗の星の前に旅雁を横たふ 南楼の月の下に寒衣を擣つ」(巻上・秋・擣衣・劉元叔)や『白氏文集』の「月は新霜の色を帯び 碪(きぬた)は遠鴈の声に和す」を挙げます。砧の音と雁の音が合わさって、秋の風景をいっそうもの悲しくしています。
  
  白居易には、「聞夜砧(夜の砧を聞く)」という詩もあります。
  
  >誰が家の思婦ぞ 秋に帛(きぬ)を擣(う)つ

   月苦(さ)え 風凄まじくして 砧杵(ちんしょ)悲し

   八月九月 正(まさ)に長き夜

   千声万声 了(お)わる時無し

   応(まさ)に天明(てんめい)に到らば 頭(かしら)尽(ことごと)く白かるべし

   一声添え得たり 一茎(いっけい)の糸

  

  (どこの家の妻だろうか、夫を思い、秋の夜に砧を打つ音がする、月光は冴えわたり、秋風がつよく吹く中、トントンとこだまする。陰暦の八月九月、秋の夜長、千や万をもって数える音が終わる時なく響き渡る。きっと夜明けになれば、髪の毛は全て愁いのために白くなるだろう、ひとたび音がすると、白髪が一本ずつ増えていく。)
  
  赤井益久氏は、この詩の「思婦」が、「おそらくは出征した夫を思って、寒衣(冬用の衣服)を準備しているのだろう」と仰っています(『NHKカルチャーラジオ 漢詩をよむ 中国の四季のうた 秋・冬編』NHK出版、漢詩や現代語訳の引用も赤井氏の当該書に拠る)。
  
  中唐の詩人・孟郊の「聞砧」も同様に詠みます。
  
  >……月下 誰が家の砧/一声 腸(はらわた)一たび絶つ/杵声 客の為ならず/客聞けば 髪自ずから白し/杵声 衣の為ならず/遊子をして帰らしめんと欲すればなり

  

  (月光のもと、どこからか聞こえる砧を打つ音こそ、ひと声聞くごとに、腸が断たれる心地がする。杵の音は、客人のためではない、客人が耳にすれば、白髪が増える。杵の音は、衣を打つためではない、旅人を故郷に帰らせるためである。)
  
  砧を打つ音は、戻らない夫を待つ女の悲しみの声です。頭中将から身を隠した夕顔もまた、砧の音を聞き、愁い嘆く毎日であったに違いありません。でも、光源氏が通ってくるようになり、「もっとゆっくりできる別の場所で夜を明かそうよ」と光源氏によって某の院へ連れ出された時、夕顔の人生は突然終わってしまいました。二度と還ってくることのない男を待ち続ける多くの女たちの怨嗟が、夕顔を幸せにはすまいと某の院にまで追いかけてゆき、夕顔の命を絡め取ってしまったかのような印象を受けます。もしかしたら、その怨嗟の中に、夕顔に光源氏の愛を奪われた六条御息所の怨念も加わっていたのかもしれません。
  
  

  (し)
  

  
  

  ### (158) 江戸の珍談・奇談(22)-8 2016/10/18
  

  >文政11年3月中頃、雲峰の家に久しく仕えてきた老女があった。名をやちという。七十歳を超えたので、名を呼ぶ人もなく、ただ「ばば、ばば」と言った。婆の親族は皆絶えて引き取る者がない。死ぬまで主人の家で過ごすがよいと憐れんで住まわせて置いた。こうしているうちに、この年の3月中頃から、何の病気というわけでもなく急に気絶して、しばらく息も通わなかったところ、2時間程してようやく人心地ついた。だが、身体が自由にならないままで、日増しに食欲が進む。いつもの10倍となり、かつ間食に餅菓子を欲しがるので、そのまま与えたのだった。これだから、三食のほか、しばらくの間も物を食べない暇がない。死に近い者がこんなに健啖であることを不思議だと思わぬ者とてなかった。

  

   婆は手足こそ不自由だが、夜毎面白そうに歌を唄う。あるいは友が来たというので、高声で独り言を言う。また囃し立てて、拍子を取る音さえ聞こえたこともある。さらには、ひどく酒に酔ったように熟睡し、日が高く昇るまで目覚めないこともあった。主人は訝って、松本良輔という医師に脈を取らせたところ、「脈は全くない。少しあるようでもあるが、脈ではない。奇妙な病気だな。薬の処方も分らない。老耄のなす所だから、正気を失って脈絡が通じてないから、ただ様子を見るほかない」と言って、時々来診した。こうして月日を経るままに、婆の半身が自然と薄くなり、遂には骨が出て穴を作る。その穴の中から毛の生えたような物が見えたというので、看病する者が驚き大騒ぎをする。

  

   あれこれするうちに、文政12年の春になった。息をする気配があるので、腰湯を浴びせ、敷物などを毎日敷き替えて大事に扱ったところ、婆は大変喜んで、しばらく感謝を述べる言葉が絶えない。よい食事などを与え療養するために、主人が差配して少女を付けて置いた。

  

   あれこれするうちにまた冬になったので、着る物を着替えさせたところ、脱がした着物に、狸なのか、獣の毛が多く付いていた。またその臭気がひどく、鼻を穿つほどなので、人々はいよいよ怪しんだ。この時以降、時々狸が婆の枕辺を徘徊したり、婆の蒲団の間から尻尾を出していたりすることがあるというので、例の少女が恐れをなして寄り付かなかったのを、主人が丁寧に諭すと、それ以後は馴れて怖がらなくなった。それに夜毎婆が唄う歌などを聞き覚えて、今夜はまた何を唄うのかと、心待ちにしている様子もひどく奇妙なことだ。とうとう婆の寝所に狸が数多く集まるに至ったのか、鼓、笛、太鼓、三味線で囃すような音が聞こえ、婆は声高らかに歌を唄っている。またある夜は、囃しに合わせて踊る足音の聞こえたこともある。

  

   ある朝婆の枕辺に柿を多く積んで置いたことがあった。その訳を婆に問うたところ、「これは昨夜の客が、わしの身をよく大事にしてくださるお礼だと言って、与えられたものだ。」と言う。そうはいっても得体の知れない柿だから、だれも食わない。試しに割ってみると、本物の柿である。そこで看病する少女に全部やった。またある日、切り餅が多く枕辺に置かれていたこともある。これも狸の贈り物であるにちがいない。主人が深く憐れんでくれるのを、友の狸が感じてこんなことをしたのか、禽獣もまた情に感ずることがあって、仁に報いる心ではないかと人が皆言った。

  

   それから、ある夕方火の玉が手毬のように婆の枕辺を飛び回っている。少女が恐る恐るこれを見たところ、赤い毬の光った物で、手にも取ることができず、忽ち消え失せた。翌日婆に問うと、昨夜は女客があって、毬をついたのだと答える。またある夜、火の玉がつるべのように上下することがあった。次の日、婆が言うには、羽をついたのだと答えた。

  

   一日、婆が歌を詠んだというので、紙と筆をもらって書きつけるのを見ると、「朝顔の朝は色よく咲きぬれど夕は尽くるものとこそしれ」とある。婆は無筆だから歌など詠めない。これも狸の仕業にちがいない。さらに一日、婆が画を描いて、少女に与えたのを見ると、蝙蝠に朝日を描いて賛を付してある。「日にも身をひそめつつしむはかほりのよをつつがなくとびかよふなり」とある。婆は画を描く者でない。これもまた狸の仕業だ。こうして益々物を多く食べ、三食ごとに8・9椀、その間には芳野団子5・6本、間も置かずきんつば・焼き餅2・30など、このように日々健啖であるけれども、病はちっとも起きる気配がない。

  

   こうしてある夕べ、婆の寝所に光明赫奕として紫雲が起こり、三尊の弥陀が現れて、婆の手を引くように連れて行ったと見えた。少女は驚き怖れ、慌てふためき走って来て、主人夫婦にしかじかと告げるや、主人雲峰は、その妻とともに走って、その寝所に行って見たところ、婆は熟睡していて何も目に映るものはない。そのうちに、この年11月2日の朝、雲峰の妻が夫に言うには、「昨夜年老いた狸が婆の寝所から出て、座敷中を歩き回り、戸の隙間から出て行った。」と言うのである。婆はそのまま息絶えた。思うに、当初婆が頓死した折、その亡骸に老狸がとり憑いていたのだ。これは雲峰の話したところを、そのまま書き記したものである。〈『兎園小説拾遺』第二、『新燕石十種』第四―大正2年5月、国書刊行会―所収。493~495ページ〉
  
  「原本には、この下に、例の少女の夢に古狸が現れて、金牌を与えたなどとあるが、それは承引できないことだから、ここには省いた」と追記されている。粉飾を加えるのが得意な馬琴でも、さすがにこれはリアルでないと思ったのであろう。
  
  本文中に登場する雲峰とは、大岡雲峰という幕臣で画家である。谷文晁や高芙蓉に学び、山水花鳥を得意とした。毎日「ばば」に大食されたり、介護のために人を雇ったりしても、一向に傾かない財力を有していたのは、絵の収入や弟子からの束脩によって潤っていたからに違いない。
  
  介護施設も何もない時代である。老後の面倒や看取りは家庭で行われた。無論、雲峰のように家計に余裕のある家ばかりではないから、悲劇もあったろう。だが、身寄りのない老人でも最後まで養い、老人の望むように施してやる行為が当然のことだと当時の人々は考えていた。障害者や高齢者を狙った犯罪が絶えない現在、このように自然に発する慈愛は、薬にしたくとも見当らないかもしれない。
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (157) 江戸の珍談・奇談(22)-7 2016/09/19
  

  小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)『怪談』に「十六ざくら」という話がある。
  
  >伊予の国和気郡(わけごおり)に、毎年大寒の季節である陰暦1月16日だけに花を開く「十六ざくら」と呼ばれる桜があった。この桜にはある侍の魂が宿っている。すでに100年以上に亙ってこの桜を楽しんできていたが、侍が老年に達したある年の春、突然枯れてしまったのである。悲しむ老侍を慰めるため、周囲の者が桜の若木を庭に植えてくれた。しかし、老木に代わる物はない。老侍は、枯れた木を助けるため、自分が身代わりとなろうと桜の木の下で自害して果てた。その魂が木に乗り移り、再び花を咲かせるようになったのである。〈新潮文庫『小泉八雲集』245~247ページ〉
  
  また、「乳母ざくら」でも、中年に至ってようやく授かった一粒種である娘が15の歳に重篤に陥ると、その乳母が身代わりとなって自分の命と引き換えに娘を救う。この乳母も、所望して庭に植えてもらった桜に命日になると必ず花を咲かせるのである〈同185~187ページ〉。
  
  自分の魂を死後にも永続させたいという死にゆく者の願いと永遠に記憶と伝承に留めたいという遺された者の心情とが合致した時、花木へそれを託すことになった。夏目漱石「夢十夜」第一話も同じ趣向であろう。
  
  以下に紹介する話は、『兎園小説』に収録された奇談中の白眉といってよい。下手な訳文より原文のまま示す。
  
  >湯島手代町に岡田弥八郎といひて、御普請方の出方をつとむる人あり。此人のひとり娘、名をせいとよびて、容儀もよく殊に発明なれば、両親のいつくしみふかく、しかも和歌に心をよせ、下谷辺に白蓉斎といふ歌よみの弟子となりて、去年十四歳にて朝がほのうたをよみしが、よくとゝのひたりと師もよろこびける。その歌、

  

      いかならん色にさくかとあくる夜をまつのとぼその朝顔の花

  

  其冬此むすめ、風のこゝちにわづらひしが、つひにはかなく成りにけり。両親のなげきいふべくもあらず。朝夕たゞ此娘の事のみいひくらしゝが、月日はかなくたちて、ことし亥の秋、かの娘の日頃よなれし文庫の中より、朝顔の種出でたり。一色づゝにこれはしぼり、あるはるりなど、娘の手して書き付け置きたるつゝみをみて、母親猶更思ひ出でゝ、かく迄しるし置きたる事なれば、庭にまきて娘のこゝろざしをもはらさんとて、ちいさなる鉢に種を蒔きて、朝夕水そゝぎなどしたるほどに、いつしか葉も出で蔓も出でたれど、花は一りんもさかざりければ、すこし時刻おくれにまきたるゆゑ、花のさかぬ成るべし。されども秋に、秋草のさかぬ事やはとて、さまざまにやしなひしが、さらに花の莟だになし。ある日 父弥八郎は東えい山の御普請場へ出でたるあと、母は娘が事のみわすれかね、朝顔を思ひながら、うつらうつらとねむりたるが、娘の声にて、おかゝさま花がさきましたといふに驚きさめぬ、あまりいぶかしく思ひければ、朝顔のそばへゆきみれば、一りんさき出でたり。いよいよあやしと思ひて、夫弥八郎が帰るを待ちかねて、此よしをもかたり、花をも見せしよし、此はな、昼夜にさきて翌朝までしぼまずしてありとなん。

   右は文化十二乙亥年の事なり。花のさきしは翌子年なり。

    文政乙酉孟夏朔                 文宝堂 しるす

  〈『兎園小説』第四集、92ページ〉
  
  心が温まるような佳話である。叢書『日本随筆大成』の編纂に携わった森銑三の並々ならぬ称賛を引いてこの稿を閉じよう(文中「ヘルン」は「ハーン」を指す)。
  
  >本叢書第一回の配本中の兎園小説には、文宝堂の「夢の朝顔」などの好短編が収められている。これがまたいかにもヘルン好みというべき可憐な怪談で、誰かこの話を聞かせたら、ヘルン先生は大いに喜んで、一流の文章で書いたであろうに、ついにそのことに及ばなかったのが惜しい。この話を新体詩にした人に沼波瓊音さんがあるが、それも沼波さんの作品としては、特に推称に値するものとまではいい兼ねる。なお別の形式で書いてみる人はいないだろうかといいたくなる。〈森銑三「むだばなし(一)」―『日本随筆大成』第二期第1巻付録―〉
  
  

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  ### (156) 江戸の珍談・奇談(22)-6 2016/07/30
  

  ある朝早く、河越屋政八という者が緊要な話があると言って馬琴の家を訪れた。いつもの仮病をお使いにならず、ぜひお会いください、と懇願するのである。不審に思った馬琴が書斎から出て事情を問うと、昨日大変珍しく感動したことがありました、と政八が次の話を紹介した。
  
  >文政4年-1821-2月晦日の黄昏時、元飯田町の中坂に行き倒れの老女があった。当番の町役人や定番人がその様子を確かめると、旅行人のようである。ひどく老いさらばえて、長途に疲れ、足が痛んで一歩も歩けない、と言う。そこで、町抱えの者に背負わせ、番屋に助け入れた。事情を尋ねると、奥州白川の城下町にある宮大工十蔵の後家で、名をしげといい、今年71歳になるという。夫十蔵が死んだ後、13年前の文化6年-1809-の春、我が子源蔵が逐電して行方も知らせない。人づてに聞けば、江戸にいるという。家には亡夫の先妻の子があるが、生みの子でないから孝行でない。毎日の悪口雑言が煩わしく、生きる甲斐もない身の上だ。なんとか我が子の所在を探し求めて、遭いたいものだと決心したのが9年ほど前のことだった。

  

  こうして文化10年-1813-の春の頃、奥州から江戸へ出て、半年ほど滞留し、四里四方ばかりか近郷まで毎月毎日捜したが、夢にも遭うことがない。それでは江戸にいないのであろう、とやっと思い返し、国巡りの志を堅く抱く。関東から西国、南海・北陸はもちろん、およそ66か国の霊山霊地を巡礼しては、過去には亡夫の菩提のため、現在には生きているうちに我が子に巡り合してください、と祈願に専念した。乞食(こつじき)をしながらの旅であるから、人の情けに遭う日は希で、野宿をしつつ、風にくしけずり、ある時は荒磯の波風に吹きつけられて終夜眠れず、またある時は深山路の雪に降り込められ、竹杖の節も地に届かない。このように艱難辛苦を経て来たけれど、今まで一度も病気を患ったことなく9年に及んだ。だが、今は廻国し尽し、行く所もないから、再び江戸を目指して、木曽路を下り、甲斐の峰を巡り、夕べは両郷(ふたご)の渡しという川辺の向こうにある里に宿をとった。そうして今日江戸に入ったのである。

  

  ところが、御坂(みさか)の下で急に足が痛み出し、一歩も運ばすことができないので、思わず倒れてしまったのだという。町役人らが気分はどうだと老女に問うと、足が痛むだけで、心地はいつもと変らないと答える。江戸に知り合いはあるかと言うと、知る人はないが、八丁堀にある松平越中守様(=定信)は領主の屋敷であるから、そこへ送ってほしいと老女は訴える。そこで、腰につけていた風呂敷包みを解かして見ると、故郷を発った折に菩提所である某寺から得た通り手形という証文があった。年月を経たため、茶で染めたように古びている。だが、その印章は紛れもない本物だ。その他、銭800文と襤褸布だけである。老女の言うことと寺手形とが吻合したため、番屋の奥の間に臥させ、薬を与えて夕餉を食べさせているうちに、酉の初刻(=午後5時頃)を過ぎた時分、武家奉公をする中間(ちゅうげん)風体の男が、自身番の表を訪れた。

  

  「主君の用事のため中坂を通りかかったところ、行き倒れの老女を見た。気に懸ったから詳しく聞こうと思ったものの、火急の使いであったため、仕方なく通り過ぎた。今その帰り道に中坂で人に問うたところ、番屋に入れられていると聞く。その老女に会わせてくれ」と言うのである。町役人が、うとうとしていた老女を呼び醒まして、そなたの縁者ではないか、会ってみるがいい、と告げると、しげはさっと起き直って、「それは我が子源蔵ではないか。おいお前は源蔵か。源蔵であろう」と忙しく問いながらいざり寄るのを、町役人らが押し止め、そんなに急いては事情も分からない、落着いて問えと宥める。

  

  その時、中間が燈火を向けてあちこちと確かめて見たが、「我が母に似ているが、何年も経っているし、老衰しているから、はっきりとは言えない」と言う。町役人は、しげが奥州出身で宮大工十蔵の後家だと明言しているのに、幼い時に別れたからといって、親の名まで忘れることはあるまい、と詰め寄る。「その名に違いないけれども、世間には同名異人ということもある。また、偽って利を図る者もないとはいえない。何か証拠の品がありませんか」と中間から逆に問い返されて、町役人らが例の手形を開いて見せたところ、中間は小膝をはたと打って、我が母に間違いないと認めたのである。〈『兎園小説』208~211ページ〉
  
  この後は、母子が再会の喜びに溢れる場面が叙せられる。「その歓はなかなかに、譬ふるに物なかるべし。天地ををがみ、町役人等をひとりびとりにふしをがむ、慈母の哀歓無量の恩愛、今さら肝に銘じけん、源蔵もはふり落つる涙を袖に堰きかぬれば、人々みな泣かぬはなかりけり」と書いている馬琴自身も感涙を催したに違いない。
  
  老母を番屋から知り合いの宿屋へ移す時、引き拡げられた襤褸布を惜しいと思った老母が源蔵に包めと命じる。恥かしく思った源蔵が躊躇していると、その心情を察した町役人らは、定番人に手伝わせ、一片も残らず包ませて渡したのであった。馬琴はこうした細部まで描写することにより、一層読者の涙を誘う。
  
  前回紹介したテレビ番組でもらい泣きした桂小金治は、落語家時代、小文治師匠に紹介され、柳家小三治(後の5代目小さん)の許へ稽古に毎日通い詰めた。午前中で稽古は終わるが、身が入って昼飯時になると、食事を供してくれる。終戦直後の食糧難の時代に、白いご飯をどんぶりでご馳走になった。ある日、稽古を終えて忘れ物を取りに戻り、戸を開けて中を見ると、小三治夫婦と子供が食事をしている。食卓の上にあるのはサツマイモだった。胸が詰まった小金治は帰りの電車の中で泣いた。落語の稽古は月謝を取らない。飯まで食わせてくれる。その有り難さと不思議さに、このまま稽古をしてもらっていていいものか、小文治師匠に尋ねたところ、師匠はニコリともせず、「バカやな、お前は。小三治はお前に落語を教えているんやないで。落語ちゅうもんを、この世に残しているんやないか」と答えたという。〈桂小金治『ケラの水渡り』-昭和42年8月、報知新聞社-71ページ〉
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (155) 江戸の珍談・奇談(22)-5 2016/07/13
  

   40年以前、「それは秘密です!!」というテレビ番組が日本テレビ系列局で放送されていた。ヒューマンバラエティー番組と銘打ち、番組ラストのコーナーでは視聴者が長年探し求めていた肉親や兄弟姉妹と再会するという趣向である。再会した者同士が感涙にむせぶのはいうまでもなく、司会を務めた桂小金治やクイズ解答者ももらい泣きしていた場面を今でも思い出す。その後、同趣の番組あるいは企画が忘れた頃に登場し、決して絶えることがない。
  
   通信媒体の乏しい江戸時代にあって、人探しには知人を頼って手紙を利用するか自らの足を使うしかなかった。烈婦登波の条に紹介したとおり艱難辛苦の連続である。それだけに、再会の感動は一入深かったろうし、そんないい話を聞いた者が聞き捨てにしたはずはなかろうと思われる。『兎園小説』も、当然こうした奇談を逸したりはしない。
  
  >馬琴の息琴嶺が年来恩顧を蒙る某侯の国足軽に山本郷右衛門という者がある。寛政4年-1792-4月、飛脚を承り江戸へ至り、再び奥州へ帰る折、奥州街道鍋掛の駅はずれにある坂道の途中に、国巡りの親子二人がいた。父は最近この辺りでひどく病み、命が危ういので、駅の者どもが憐れみ、二人のために粗末な小屋を建てて、しばらくそこへ置いてやったのである。

  

   そして、その娘が往来の旅人に物乞いをしていた。郷右衛門は、その姿を見て殊に不憫に思われたから、懐を探って一片の南鐐(なんりょう=二朱銀、8枚で金1両に相当)に持ち合わせていた薬を添え、楊枝挿しの袋に入れて与えた。その後5年ほど経て、郷右衛門は再び飛脚の命を受けて江戸の藩邸へやって来た。

  

   逗留する間、朋輩に誘われて新吉原江戸町にある丸海老屋と呼ばれた青楼に登ったところ、深更に及び、楼の若い者が高坏に菓子を積んで郷右衛門の所へ運んでくる。これは清花様から差し上げなさる物だと言うのだが、その名に覚えのない郷右衛門は人違いだと答える。だが、お目にかかりたいので、こちらへと言われ、訝しいまま引かれてその部屋に赴いた。その女を見ても、知った遊女ではない。

  

   ところが、郷右衛門を認めるや否や、清花は臥し沈んで忍び音に泣くばかりである。しばらくして頭をもたげ、「絶えて久しくなりました。あなた様には恙無く、お目にかかれてうれしゅうございます」と言う。なおも合点がいかない郷右衛門が誰何し、見忘れたのか、私はしらないと答えると、清花は楊枝挿しの袋を取り出し、私をお見忘れでも、この袋には見覚えがあるでしょう、とさらに言う。郷右衛門はまだ気づかない。

  

   そこで、清花は楊枝挿しの由来を語り始めると、聞き終わるまでもなく、郷右衛門は初めて悟った。あなた様には隠す必要もないからと、遊里に身を沈めることになった経緯を清花は涙ながらに説き示す。清花の郷里は越後高田であった。母を病に亡くして後、旱魃や水害などの禍によって世をはかなんだ父は、自分を連れて、亡き妻の菩提を弔うため、諸国遍歴の旅に出た。偶々鍋掛の駅に病んだ父にお恵みをくださったのがあなた様で、父に見せると、これほど慈悲のある人は希であるから、よく顔を覚えておいて、巡り合う日があったら必ずお礼を申し上げろ、と繰り返し言っていた。

  

   いただいた薬を用いたものの、定業は逃れがたく、幾日も経たず父は亡くなった。自分は見知らぬ人の手にあちこちと渡り、とうとう里の遊女となったのである。本の名をそよと言い、あなた様に会った時14歳であったが、苦界に堕ちてはや18歳になる。

  

   今夜は父の命日だから、客を迎えず回向をしながら籠っていたところへ、偶然にも恩人に遭遇したのは、亡き父の志に違いない、と言ってはよよと泣き崩れた。〈『兎園小説』206~207ページ〉
  
   それから、文化2年-1805-になって年季の満ちた清花は、河崎屋平八という者の宿所に移る。平八は、乳母奉公の口入れ(=斡旋)をしていたため、郷右衛門の仕える藩邸にも出入りしていた。浮草の根を絶えてよるべのない境遇であるという清花の消息を聞き、一度慰めに訪れたが、その後の消息は分らないままになってしまったという。
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (154) 江戸の珍談・奇談(22)-4 2016/06/19
  

   ある人が、狢(むじな)と狸(たぬき)は雌雄であって、雌を狢といい、雄を狸というのだと語った。どうも胡乱な説だと思っていると、出羽の国由利郡の農民与兵衛という者がやって来て詳細に教えてくれた。与兵衛は昔狩人として鳴らし、南部藩から免状まで得ていた巨躯の持ち主である。そこで、狢・狸・貒(まみ)の区別を問うたところ、次のように答えた。よく似ているが、それぞれ別種で各々雌雄がある。貒と狢とは、毛色も肉の付き方も区別できないほどよく似ている。ただその区別としては、貒は四足ともに人の指のようで、方言に「熊のあらし子」(=クマの落とし子)という。狢は四足が犬と同じで、狸は痩せて胴のあたりが長い。私は17歳から狩り暮らしに慣れて、もはや60年に及ぶ。だから、獣のことはよく知っている〈『兎園小説』71ページ〉。
  
   狢と狸が雌雄だなどという俗説は冗談にもなるまい。与兵衛の言うことが真実に近いのであろうが、この猟師、実はなかなか食えない男だったようだ。
  
  >与兵衛が言うには、熊に月の輪といって、咽喉の下に白い毛を持つ。その形が月の輪のようだからそう呼ぶのだという。ところで、その月の輪の形はすべて同じではない。円もあれば半輪もあり、細い月もある。また月の輪のない物さえある。これは、熊の生まれる日が15日なら輪が円となり、30日なら輪がない。残りは月の満ち欠けによって決まるのだ。〈同71ページ〉
  
   狢・狸・貒の区別を真面目な顔で聞いている都会人を少しからかってやろうと思ったらしい。ところが、この月の輪は熊ばかりでなく、黒猫にもあり、月の満ち欠けに従って模様が異なるという奇談を仏庵老人の伝聞として海棠庵(=関源吾)が紹介している。〈同72ページ〉
  
   現代人ならまさかと誰しも思うが、この話に付言した山崎美成は、「右仏庵翁の黒猫と熊と似たる話、世人のかつて知らざる事にて、いと珍し」と感心し、猫と虎とその所作が似ていることを挙げ、「これらうきたることにあらず。奇といふべし」と殆ど疑っていない。
  
   その一方で、馬琴はさすがにこれらを怪しい話だと思ったらしい。虎は日本にいないから知らないが、猫ならいくらもいるからよく分かると言い、かつて妻が黒猫を飼っていた体験から常識的な判断を下した。年々生まれた子猫を見ても、胸に月の輪を描いたものはなかった。黒猫すべてに月の輪があるわけはなく、希にあってもそれは斑(ぶち)であるから、熊の月の輪と同一視してはならない。そもそも純粋な黒猫は得難く、大体毛を分けて見れば白い毛が混じっているものだ。そうでなければ、爪が白かったり、足の裏が白かったりする。だから、黒猫の胸が白いというのは、偶然斑となったに違いないというのである〈同72~73ページ〉。
  
   当時、漢方薬の材となる動植物に関する知識は『本草綱目』などの百科全書によって得ていた。例えば、熊の胆嚢は季節によってその位置が異なるという。ところが、讃岐高松藩の家老で馬琴と親交のあった木村黙老が猟師の捕えて来た熊を医師とともに解体したところ、胆の位置が『本草綱目』の記述と異なっていた。さらにその猟師も、自分がこれまで獲た熊に、季節によって胆の位置が変わる物などなかったと明言したのである。当然すぎるほど当然だと思われようが、現代人だって、某辞苑などという権威のある書物に依れば間違いないと思い込んでしまう。何事も自分の目で確かめるまでは鵜呑みにしないことが肝心である。確認できないまでも、複数の書を見比べることくらいはした方がよい。
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (155) 江戸の珍談・奇談(22)-3 2016/05/28
  

   蛇が蛸に変身するという奇談がある。
  
  >文化9年-1812-6月16日のことである。越後の国刈羽郡石地町の漁村に、文四郎という少年がいた。友人2・3人とともに賽の河原と呼ばれる海辺へ出て水浴びをしようとした時、石の六地蔵の傍から長さ4・5尺の蛇が走り出た。

  

   文四郎らがこれを見るなり叩き殺そうと手に手に棒を握って打とうとしたところ、蛇はすぐに海へ入ってしまった。文四郎らは衣服を脱ぎ捨て、海中から顔を出した岩角伝いに波を凌いで泳いで行く蛇を追う。おいそ岩という岩のほとりに至った時、蛇が岩角に何度もその身を打ちつける。不思議だと見ているうちに、蛇の尾がたちまち幾筋かに裂けたが、周囲の海水が直ちに黄色くなったという。

  

   それでも恐れない文四郎らは、取り逃がすことなく遂に打ち殺してしまった。引き上げてよく見ると、その蛇は、すでに蛸へと変わり、裂けた所は、足になってイボまでも生じている。頭も蛇とは異なり、丸く膨らんで、まるで蛸そのものだった。ただ、色は白く少しも赤みがない。日を経ると赤みがさすという。また、足は8本ではなく、7本しかなかった。

  

   それだから、この地の漁夫らは、7本足の蛸を捕らえると、蛇の化した物だといって捨ててしまい、決して食べない。だが、蛇が蛸に変身する姿を文四郎らが目の当たりにしたのは大変珍しいというので、あちこちに喧伝された。〈『兎園小説』139ページ〉
  
   蛇を見た途端に殺そうとするのは、蛇に対して抱く潜在的な恐怖がそうさせるのか。原始人類が蛇を不倶戴天の仇敵と嫌うほど危うく苦い経験が、後世の人類にもDNAとして残っているのかもしれない。
  
   俄かに信じられない話である。筆録者は馬琴の息子宗伯であるが、当地に住む友人の一人が実際に文四郎に会って話を聞き、地図まで書かせて父馬琴に送って来たというから、まんざら嘘とも思われない。
  
   次に紹介する鼠の怪異も、信じがたい話だ。
  
  >奥州伊達郡保原という所の大経師松声堂に親族から手紙で送って来た世にも珍しい話だという。

  

   南部盛岡から20里ほど奥の福岡に青木平助という旧家がある。その家作は五・六百年前に造ったものだが、そのまま代々住み続けている。この春2月の頃、平助の夢に、棟の上に一塊の焔が炎々と燃えていると見て、目覚めてふと仰ぎ見ると、夢と少しも違わず、自分の寝ている上の棟に火が燃えていた。あわてふためいて起き上がり、梯子を用意して、水を注ぎかけたところ、忽ち火は消えて大事に至らなかった。

  

   平助は胸打つ動悸を静めたが、なぜこんな怪異が起きたのかと不安でならない。だが、家内の者に告げれば、物の怪のしわざだと大騒ぎになるから、今少し様子を見ようと思い、まんじりともせず暁を待った。

  

   翌朝、いつものように家族が集まって朝食を摂ろうとする時、例の棟と思われる所から何かがぽとりと落ちて来た。突然のことで、女たちは叫び声を上げて跳び退く。平助は気にかかることがあるので、じっとその物体を見ると、ひどく年老いた同じ大きさの鼠が9匹、尾と尻を突き合わせて円座のように丸くなり、互いに手足をもがいて、走り逃れようとしている。ところが、その鼠らは、どんなにもがいても、尻と尻が繋がって離れない。ひたすら駆け出そうとするものだから、くるくると同じ所を回るばかりである。

  

   家人らは恐れ驚く中でも、面白いことだと思われ、「どうして同じ鼠が9匹も揃ったのか。そればかりか尻と尻が離れないのは、どうしたわけだ」と大騒ぎをしながら、「外して逃がそうか。それとも打ち殺そうか」などと言い、薪のような物で2・3人が左右から引き分けようとしたものの、引きはがすことができない。これは奇妙だと強く引いて見ると、不思議なことに、鼠の尾と尾が絡み合い、網代を組んだようになっている。力を入れれば尻も尾も抜けてしまうなどと言う人があるから、そのままにしておいたところ、近所の者が伝え聞いて貰い受け、竹の先に引っかけて見世物にした。その後、川へ流したか、土に埋めたか知らない。〈同、221ページ〉
  
   双頭の蛇などの畸形もこの奇談集には紹介されている。この鼠も、スマホを持つ現代なら即座にネット上で大きな話題となりそうだ。9匹の鼠が尻尾で繋がり、それぞれ駆け出そうとするから同じ所を回るなど、全くギャグ漫画そのものである。また、夢に見た炎が実際に燃えていたという箇所は、怪異性を煽ろうとする演出でもあろう。いかにも怪しげだが、真偽はともあれ、この種の話材は、科学万能の時代となっても尽きることがない。あたかも科学の進歩に抵抗する反作用のようにどこからともなく現れてくる。
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (154) 蓬莱の仙女とかぐや姫 2016/05/18
  

   『竹取物語』で、求婚者の一人・車持の皇子は、かぐや姫から「蓬莱の玉の枝」を取ってくるように求められます。蓬莱とは古代中国人が考えた異界で、遙か東方の海上にあるという仙山です。車持の皇子は、偽物の玉の枝を鍛冶工匠らにつくらせ、蓬莱に行ったふりをし、かぐや姫や翁に対しては、大変な思いをして蓬莱に行ってきたという作り話をします。
  
   さて、その皇子の作り話では、蓬莱の山の中から「天人の装ひしたる女」が出てきて、白銀の鋺を持ち水を汲み歩いていたそうです。天女は、自分の名が「はうかんるり」だと告げ、再び山の中にすっと入ってゆきます。蓬莱には天女がいたという設定ですが、『列子』湯問篇には、蓬莱に「仙聖之種」がいたとあるだけで、男女の区別はありません。
  
  >渤海之東…其中有五山焉、一曰岱輿、二曰員嶠、三曰方壺、四曰瀛洲、五曰蓬萊。其山高下周旋三萬里、其頂平處九千里。山之中閒相去七萬里、以為鄰居焉。其上臺觀皆金玉、其上禽獸皆純縞。珠玕之樹皆叢生、華實皆有滋味、食之皆不老不死。所居之人皆仙聖之種、一日一夕飛相往來者、不可數焉。…
  
   「蓬莱には天女がいる」というのは、車持の皇子の妄想や願望でしょうか。この蓬莱ですが、実は、上代・中古の浦島伝説で、浦島子が訪れた海の異界の名称にもなっています。浦島子の釣った亀が忽ち神女となり、一緒に行った先が、古くは「蓬莱山」(『日本書紀』『続浦嶋子伝記』等)・「蓬山〈古訓は「とこよのくに」〉」(『丹後国風土記』逸文)・「蓬莱」(『本朝神仙伝』)と表記されています。浦島子が蓬莱宮にすむ神女と結婚し、歓楽の限りを尽くす場面を見てみましょう。
  
   『丹後国風土記』では「肩を双べ袖を接はせ、夫婦之理を成しき」、『続浦島子伝記』では、浦島子が「神女と共に玉房に入」ると、神女と「此の素質を以て、共に鴛衾に入り、玉体を撫でて、繊腰を勒り、燕婉を述べ、綢繆を尽くせり。魚目を比ぶるの興、鴛心を同じうするの遊、舒巻の形、偃伏の勢、普く二儀の理に会ひ、倶に五行の教に合へり」とあり、これは男女交合における秘技を述べたものだそうです(敢えて現代語訳は載せません)。ずいぶん生々しくエロチックな描写ですね。
  
   浦島伝説でも、「蓬莱には神女がいる」という設定です。白楽天の「長恨歌」でも、「太真」という仙女に転生した楊貴妃が蓬莱宮にいると詠われています。蓬莱と言えば美しい仙女のいる異界というイメージが古代日本人には定着していたのでしょう。しかも、浦島伝説に登場する蓬莱の神女は、いともたやすく浦島子と夫婦の交わりをします。
  
   蓬莱の神女とは真逆のキャラクターを創りだしたのが『竹取物語』の作者と言えましょう。かぐや姫は、決して人間とは結婚しませんでした。そんなかぐや姫の故郷を、海の異界である蓬莱に設定することは、作者にはできなかったのでしょう。人間とは交わらないかぐや姫の故郷は、人間が絶対に行けそうにない、天上界に存する清らかな「月」でなくてはならなかったのです。
  
  

  (し)
  

  
  

  
  ### (153)江戸の珍談・奇談(22)-2 2016/04/16
  

   ひどく忌み嫌う物をたとえて「蛇蝎(だかつ)の如く」と言う。蝎(さそり)は日本に棲息しないが、蛇は昔からどこにでもいた。四足も毛も持たず羽ももたない生き物だから漢字では虫偏が付く。その片の付かない外貌や執念深そうな性質に恐れを抱き、悪役を割り当てられることが多い。蛇の祟りもその一つである。
  
  >文政8年-1825-4月27・8日のころ、浅草鳥越にある柳川侯の中屋敷に住む火消中間(ちゅうげん)千次郎と程五郎という者が、ある茶屋のほとりで、雌雄の蛇が交接しているのを見つけ、散々打擲した後、遂に殺して門前の溝に捨ててしまった。その後、千次郎は5月8日、将軍が上野へお成りの折、上屋敷に詰め、その帰途から病となりひどく苦しんだ。程五郎は、蛇の祟りではないかと察し、戸田川の辺りに羽黒山という寺があるそうだが、そこへ行って堂のほとりにある榎の空洞の水を貰おうと思って、汲もうとした時、釣瓶が切れて落ちてしまった。慌てていると、寺僧が出て来て、そなたが祈る病人は快気するはずはないと諭したのだが、何でもいいから水を貰いたいと言って、ようやく手に入れて帰った。千次郎に与えたものの、遂に5月15日に死んでしまう。苦しさに強く握りしめた千次郎の掌には両手の指で豆をこしらえてあったという。一方の程五郎は、その月の25日以来肩から腹へかけて痛みを感じたのが始まりで、日を追うごとに熱にうかされ、蛇のことばかりを口走って狂い廻っていた。とうとう走り出て、久保田侯の中間部屋に至り、さらにそこから菩提所である寺へ向かい、和尚にこう願った。「私は頭に蛇が取り憑いて苦悩に耐えられない。どうかお弟子となされ、髪を剃って下され」と言ったのを、和尚は発狂しているのではないかと思い、程五郎の父、浅草六軒町の組の頭取角十郎という者も檀家であったから、すぐに呼び寄せて事情を告げた。角十郎は程五郎を引き取り(程五郎は不行跡のため、家出していた)、色々治療を施した。中でも、本所の修験者は、何とも告げないうちに蛇の祟りのことや羽黒山へ走ったことまで解き示し、羽黒は神体が白蛇でいらっしゃるのに、却ってまずいことをしたと言ったという。かくて程五郎の病は日々に重くなり、6月1日に死んでしまった。〈『兎園小説』162ページ〉
  
   実は、千次郎と程五郎が蛇を殺した時、手伝った栄吉という者があった。両人が死んだ由を聞くと、栄吉はただちに病気となり、これも危篤状態に陥ったが、しだいに平癒して、定火消(じょうびけし)として働くまでに回復したと伝えている。
  
   これは蛇に罪はなく、明らかに人間の方が悪い。祟りなどというのはいかにも身勝手すぎる。自業自得と言われても仕方がなかろう。
  
  >天明6年-1786-7月、江戸が前代未聞の大洪水に見舞われた。その夜、猿江辺りに住む女房が2歳になる子を抱いて、溺れながら半町ほど流された時、ふと巨木の梢に右の手をかけ、やっとのことで寄りかかって流されるのを止めた。だが、左手には子を抱えている。腰から下は水から出られない。こんな状態を知る人もないから助けてもらえる命でもない。無駄に肝を冷やすより母子ともに死んでしまおうと思って、大樹に取りすがった右手を放そうとしたところが、手は樹木に癒着したように感じられ、離れることができない。あれこれするうちに夜が明けて、助け舟が漕ぎ寄せる。舟に乗せられてから梢を見ると、大きな蛇が自分の右手を木の枝もろとも、何重にも巻いていたのだった。さては手が離れなかったのは、このせいだと思うにつけ、有り難いことこの上ない。舟に乗るうちに、その蛇は忽ち体をほぐして、行方も知らず去って行ったという。〈同、297ページ〉
  
   この女房は舅姑に孝順であり、年来神仏を深く信じている者であるから、その応報かと噂されたことを馬琴は付け加えた。いかにも因果応報・勧善懲悪を物語の思想として徹した馬琴らしい。だが、単に蛇は自分が助かりたかっただけかもしれない。変温動物だから、体が冷えれば動けなくなる。逆に人間の体温が蛇を助けたとも考えられるのだ。
  
   馬琴とともにこんな理屈を言いたくなるほど、何かの事象が起きれば必ずそこに何らかの因果関係を認めて合理化しなければ治まらないのが人間の悪い癖だ。
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (152)江戸の珍談・奇談(22)-1 2016/03/19
  

   滝澤馬琴を始めとする好事家の仲間14人(うち2人は客員)が珍談・奇談を記した文稿を持ち寄って披講し回覧した文章を収載したものが『兎園小説』である。「兎園」とは、文政8年-1825-に行われたこの回覧会を「兎園会」と称したことに由来する。
  
   外集から余録まで含めると、このシリーズは20巻14冊にも及ぶ。いずれも趣味に興じる会員の、他よりももっと面白い話を提供しようという意欲に溢れた奇事異聞に満ちているから興味の尽きることがない。
  
   例えば、江戸時代であるから狐憑きの話には事欠かないが、こんな狐がいたらどうだろう。
  
  >文化6年-1809-の冬、加賀の備後守に仕える留守居役に出淵(いずぶち)忠左衛門という人があった。ある夜の夢に一匹の狐が現れ、忠左衛門の前に跪いてこう言う。「私は、本郷4丁目糀屋(こうじや)の裏にある稲荷の息子ですが、いささか親の意思に背いたことがあって、親もとへ帰ることができません。居所もないため難儀しております。何とも申し上げかねますが、召し使う下女の体を貸してください。しばらくの間でかまいません。程なく友人が詫びを入れて家へ帰ることができますから、それまでの間ひとえにお願いします。決して煩わせることは致しません。また、奉公の間も仕事は欠かしませんから、お許しいただきたい」と嘆く。不憫に思った忠左衛門が、面倒を起さないなら下女を化かして使ってよい、と応じると、この上なく狐が喜ぶと見て夢から覚めた。不思議な夢だと思いながら、翌朝起き出して下女を見ても、いつもと変わりがない。ところが、昼頃から突如この下女が働き出す。水を汲み、薪を割り、米を研ぎ、飯を炊き、日頃できない針仕事までこなしている。毎日このとおり一人で五人前の仕事をしたばかりか、晴天でも、「今日は何時(なんどき)から雨が降り出しますよ」と言って、主人の他出の折には雨具を用意させ、「後ほどどこどこから客人があります」などと、少しも外れることなく、万事この下女の言う通りであった。大いに家内の利益になることばかりなので、何とぞいつまでもこの狐が立ち退かないようにしたいものだと、主人が直に語っていたことを、当時懇意であった五祐という者が物語った話である。〈『日本随筆大成』第2期1、195ページ〉
  
   この狐がいつまで下女に取り憑いてくれていたのか、その後のことは書かれていない。
  
   蟻の集団が長期間存続するためには、働かない蟻が一定の割合で存在する必要があるという研究成果が最近発表された。常に2~3割、ほとんど働かない蟻が存在するという。働く蟻だけを集めても、一部は働かなくなる。なぜかといえば、働く蟻が休んだ時、それまで働いていなかった蟻が活動する必要があるからで、現にその現象が確認された。結果、働き方が均一な集団よりも、バラバラの集団の方が長く存続したという。昆虫の社会にも学ぶべきことは多いという一例だ。
  
   翻って、現代の人間社会では、働かない者を排除し、均一な働き者ばかりを望む組織が目立つ。悪戯をしかけたり、害を及ぼしたりする狐なら願い下げだが、経営者からすれば、怠け者を働き者に変えてくれる狐を喉から手の出るほど欲することであろう。
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (151)江戸の珍談・奇談(21)-7 2016/02/20
  

   登波の苦節12年を想像すれば、どうして自らの手で敵討ちを遂げさせてやらないのだろうと、同情心からじれったく思うかもしれない。敵討ちが武士階級に許可される法制が原則であったにもせよ、武士でない者の敵討ちも黙認され、むしろ孝子と賞讃されるのが一般の風潮でもあったのだから、この場合にも何らかの機会が与えられてもよかったように感じられる。だが、萩藩庁の措置の方が正しいのである。以下に引く鳶魚の見識によってその意味が了解されよう。
  
  >萩の藩庁には流石に人がある、復讐は盛事でないに極まつて居る、法具(そなは)り刑備(そなは)つて必然な処分が行はれるなら、決して復讐などがあるものでない、悪事を働いても刑罰を逋(のが)れる者があるから、敵討(あだうち)といふ事柄が生じて来る、そうして見れば為政者として心苦しい出来事なのである。萩の藩庁が犯人を彦山に捕へて、これを刑殺せんとしたのは、十二年の辛労と半生の操守を空しくするやうであるが、既に龍之進の居所を告知した処に、烈婦の苦節は見(あら)はれて居る。敢(あへ)て蛮気を充満させて刃(は)の白いのを血の紅(くれない)に対照させるばかりが能ではない、長門侯の家に人物があつたればこそ、由来復讐に付いて廻(まは)る一種の批難と遠ざかる事が出来た、当局者は円満に国家の法刑を施行し、人の子は遺憾なく純孝の志を遂げ得た、比類稀な復讐といふのは本件の如きであらう〈『江戸の噂』131~132ページ〉
  
   安政3年10月、登波は、孝義抜群により、旌表(せいひょう、善行を褒めて広く世に示すこと)の状と米一俵を代官勝間田種右衛門から付与された。だが、話はこれだけで終わらない。これほど志操堅固に初志を貫徹した烈婦を賤民として取り扱うことを残念に思った周布政之助が、宮番であった登波を百姓身分に格上げするという申請を藩庁へ届け出たのである。周布案を相当の処置であるとは認めつつも、先例のないことであるから、甲論乙駁、議論は容易に決しない。結果、「我が邦は名分を重(おもん)じ、種族を別つのが国風である、故に今の場合、賤を放ち良に還(かへ)すの議を慎重にするのも、理義を重(おもん)ずる所以(ゆゑん)である」(鳶魚、同書112ページ)という反対論に傾いた。そこで、今一度周布案の取り調べを十分させたところ、登波は播磨の百姓であって、宮番を代々の職とした家に生まれたわけではない、幸吉も元来は阿武郡の農民が零落したものだから、本来の賤民ではない、従って、良民として差し支えはない、と決するに至った。登波が受賞した2年後のことである。鳶魚は、萩藩庁の「一大英断」とこれを称揚した。
  
   『討賊始末』の中に、登波の事蹟を記した「烈婦登波碑」という一文が遺されている。周布政之助に代って松陰が稿を成したもので、そのために松下村塾を一月休みにしたほどの力の入れようであった。安政4年には仕上がっていたものの、登波の身分変更に関する議論が決着を見ないため、建碑も遷延しているうちに、藩論が決した翌年には周布が転任してしまう。その後沙汰やみになっていたが、ようやく大正5年-1916-に至って、山口県下関市豊北町にある滝部八幡宮の境内に松陰の遺文を刻んだ碑が地元有志の手によって建立された。
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (150)江戸の珍談・奇談(21)-6 2016/02/03
  

   藩政府は、萩目明与八、先大津目明松五郎を直横目(じきよこめ)茂助に直属させた上、九州彦山へ派遣して隠密裏に探索させた。すると、娘兔伊が彦山の宝蔵坊に嫁して以来、そこに縁が出来たため、龍之進は佐竹織部と改名し、折々彦山を訪れていることが間違いない事実と判明した。そこで、捕り方について、まず松五郎が豊前国へ渡海し、香春宿の目明利吉・久市、添田宿の目明利吉、彦山の目明好助、都合4人に依頼し、さらに下関の目明弥五郎からも、書状により頼んで置いたのである。
  
   登波は、亀松が追放されたので、蟹の手を失ったような脱力感を覚え、途方に暮れていた。だが、第一にお上から手を下してくれることや、次に松五郎にも十分信頼がおけることによって、しばらく敵討ちの気持ちは落ち着いていたけれども、どうにも胸中から去り難く、事あるごとに松五郎をせっつくものだから、松五郎は、ただ時機を待つようにと言うしかない。
  
   登波の悲憤が益々昂じるばかりなので、松五郎も色々言葉を尽くして慰めているうちに、5年の歳月が流れた。天保12年-1841-3月10日、敵枯木龍之進こと佐竹織部が彦山の麓において逮捕されたという一報が遂にもたらされる。彦山の好助、添田の利吉から下関の弥五郎宛てに通知され、それから先大津の松五郎へ通達されたものである。松五郎は早速萩の藩庁へ出て逮捕の経緯を報告した。
  
   娘兔伊の在所に張り込んでいたところ、龍之進は、3月9日に政所坊を訪れ、翌日出立するという情報が入った。兔伊が召し捕り方の動向に気付き、急に出立させたようである。そこで方々へ手配していると、彦山領一の宮谷において、手下である新平が龍之進と道連れとなり、いきなり棒を揮って足を払い、頭を殴って倒した。他の者どもが腰の大小を抜き取り、姓名を確認する。出自を問うと、石州那賀郡都治村の生まれで、素性正しき者だ、と答えている。身柄は目明好助の私宅に拘引した。逮捕と同時に、渚という、織部の息子と見られる24・5歳の男が逐電したが、龍之進に尋ねても、悴(せがれ)ではなく、全く所縁はないと主張する。渚をわざと見逃したことを告げると、龍之進はその配慮に感謝する。さらに、京都中山大納言の家臣森石見宛てに佐竹渚の書状一通を所持しているが、お慈悲をもって取り棄ててくれるよう、また、借金の仲介書類・証文等を処分してほしい、娘兔伊に白木綿を送ってやりたいが、彦山にはいられまいから、母のいる所へ行くよう伝えてほしい、長州まで引かれて行ったら、とても命はない、所持の観音経を渡してくれ、などと縷々依頼され、好助はすべて請け合ってやった。
  
   さて、ここからがクライマックスとなる。11日に添田宿の目明利吉方へ龍之進の身柄を送り出したまではよかったが、龍之進所持の荷物の取り扱いに手間取っている間に、とんでもない事態を招いてしまう。
  
   手錠で締められ、猿繋ぎにして多人数で見張っていたにもかかわらず、14日午前2時頃、うとうとしていた番人が物音に気付き、周囲を探ると、龍之進が逃げ出すところであった。直ちに追跡したが見失い、ようやく升田村密ヶ嶽に逃げ込んだところを前後から捜索したところ、15日朝、中元寺村馬場という所まで逃れた龍之進が、最早逃げ場がないと判断したか、道中で自害した様子である。早速駆け付けて差し押さえたけれども、包丁で腹を縦に6寸ほど切り裂き、左手で腸を摑み出しているものの、まだ事切れていない。直ちに医師を呼んで応急処置を施したが、暮れ方に至って容体が重くなり、同夜午後8時頃落命した。包丁は、利吉方にあった菜切り包丁で、手錠は畑のへりに捨ててあった。また、観音経はどこへ落したか見当らない。探し求めるよう、その後も依頼したものの、遂に発見できないままになってしまった。
  
   龍之進の娘兔伊は、当年28歳になり、7つになる娘があった。父龍之進が召し捕られたと聞き、娘を刺し殺した上、自害して果てたともいい、いずこへか逃れ去ったともいう。死体検分が行われ、関係者の供述と合致していたため、12月6日、御法に則って龍之進の死骸は斬首され、滝部村に梟首された。
  
   こうして一件は落着したが、登波は、龍之進の自死を知り、一方では喜び一方では憤る。滝部村へ急行するや、死んだ首を睨みつけ、父弟や幸吉の妹松の仇を報ずる言葉を投げつけながら、短刀を提げたまま歯噛みしていたという。登波は、不注意とはいえ、役人らの不始末によって敵龍之進が自殺し、梟首されたことについて、「瓢箪(ひょうたん)の腐りたる様の者のみ」と口を極めて批難し、初めから分かっていたら、自ら出向いたものを、今となっても遺憾である、と後年に至っても悔いていたという。それでも、当時の御代官役張(ちょう)三左衛門至増が、この趣を藩政府に届け出たため、登波には一生扶持米が下されることとなった。
  
   翌年4月、敵の梟首を知らせるべく、9歳になる養子を引き連れて、常陸国若柴宿の亀松の許を訪れた。ところが、惜しいことに親の市右衛門も亀松も、先年相果てたとのこと。家内の者へ挨拶を述べ、10日ほど滞留した後、帰途、日光山・善光寺等を参詣した登波は、その年の10月に角山へ帰着し、ようやく長い旅を終えたのである。(以下次号)
  
  

  (G)
  

  
  

  ###(149) 江戸の珍談・奇談(21)-5 2016/01/18
  

   そもそも、登波が吉田辺を捜索したのには由来があった。初めて龍之進の娘千代を預かった折、何気なく、お前の親は国元では何をしているのか、と尋ねたことがある。馬沓(うまぐつ)を作っている、と娘が言うので、馬沓を作ってどうするのか、と聞くと、吉田へ持ち出して売るのだ、と答えたことが耳底に残っていたのである。そのため、仇を探し求めに出発する時以来、何でも吉田という所の近傍が敵の在所に相違はない、とどこの国とも知らず、気に懸けていた。そのうち、四国でふっと安芸に吉田という所があると聞き、これだろうと思い付いて、探索したところが、果してそこだったのである。
  
   さて、龍之進の娘が彦山に住みついているというのは、すなわち千代のことである。16年以前の事件の節、龍之進が粟野口の無宿非人小市に預け置いたため、近所からも小市からもその筋へ届け出たが、究明の上、捨て子という処置に落ち着いた。その頃、彦山の山伏梅本坊が法用であの地を訪れ、連れ帰って養女とした。後に名を兔伊(とい)と改め、彦山宝蔵坊の妻となっているという。
  
   12年前に出たきりであった角山の家に帰り、登波は家の様子を尋ねた。夫幸吉は病気が全快しないまま、妻の後を追って旅立ち、行方が知れないという。登波は、この苦節12年間の道行、また亀松に助太刀を頼んだことなど、夫に一々話すつもりで楽しみにしていたところが、予想外の事態に、愁傷の余り惑乱に及んだ。しかし、猶予していたら、敵龍之進がどこへ立ち去るか不安だ、片時も無駄にしてはならない、と亀松に激励され、叔父茂兵衛に密談したところ、同様に言う。そこで、願い出るにも及ばず、亀松を同道して、すぐさま滝部村に至り、甚兵衛その他の墓参をし、位牌等を写してもらい、彦山へと急いで立ち、下関まで赴く。ところが、そこへ、目明松五郎の名代として茂兵衛が追いかけて来た。ぜひとも一応立ち帰るようにと御代官所からの内命が下ったというのである。致し方なく、両人とも角山へ帰着した。これは、萩の目明与八から内々に藩政府へ登波と亀松のことを届け出ていたことにより、藩政府から御代官所に指揮があったことだという。
  
   こうして藩政府では、衆議区々となる。賊を捕えて来て、萩の扇の芝という所に矢来(やらい)を結び、白日の下に復讐させるがよいとはいうものの、復讐は結局のところ美挙とはいえまい、ということで、亀松・登波については、5月28日に藩政府で決議し、御代官所で処置するよう次のように達せられた。
  
   宮番の娘登波と申す者が、16年以前から処々方々仇の在所を尋ね、ようやく龍之進が芸州者と聞き質したため、敵討ちを許可してほしいと願い出た。だが、川尻・滝部その外でも、保証人となるべき親類縁者がない。従って、当分の間、御代官所預りとする。亀松は不義密通の者であるから、道理を言い聞かせ、生国へ帰るよう御代官所から指令するように。一方、龍之進は人殺しであるから、登波の申し出に従い、芸州及び九州を探索し、召し捕るよう命ずる。
  
   このような指令書が御代官所に渡されたため、6月20日、大庄屋久保平右衛門が、亀松・登波両人を私宅に呼び出し、お授けの委細を趣旨細かに申し聞かせたところ、亀松の憤慨は一通りでない。数百里の遠路を一方ならず艱苦を凌ぎ、一朝事に当たっては、一命をも打ち捨てるべき任侠の気を毫末も諒解してもらえず、却って不義密通などと辱しめられたのだから、その無念は言語に尽くせるはずもない。しかしながら、この沙汰を聞いて、ほろほろと落涙し、即座に畏まり奉る段を申し述べた。一方、登波は格別に違背の申し分があるわけでないが、有無の返答をしない。そのため、一晩熟慮せよと両人を留め置き、明朝再び呼び寄せ、再応承知したか確認すると、両人とも全く納得した。そこで、路用金として二両受け取った亀松は、その礼とともに、他国者が長逗留できない国法であるからそれに従い、併せて、登波の存念は隠密裏に運ばねばならないため、帰国後も口外しない旨、一札を入れて、6月末に常陸へ立ち帰った。登波は、当分松五郎方に留め置き、丁寧に気遣いをしてもらい、それから組合の世話になると、その後角山村に自宅を構えて暮らしているという。(以下次号)
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (148)江戸の珍談・奇談(21)-4 2015/12/28
  

   先に市右衛門方で病を患った時、最早快癒はおぼつかないと覚悟した登波は、亭主に事件の委細及び自身の志を語っていた。市右衛門の次男亀松は、登波より15歳ほど年下であったが、義気に溢れ、頼もしい好男子である。亀松には折から心願があって、讃岐の金毘羅へ参詣したいと思っていたところへ登波が現われたのだから、渡りに舟である。登波が密かに志を通じ、大望の相談をすると、助太刀を承知してくれた。父には人を介してこの旨を説得してもらうと、「素性も知れぬ女を連れて出ることなど不納得ではあるが、親兄弟の勘当を受けても助太刀し、大望を遂げさせてやりたいという考えなら、大願成就の上は、一人で帰国し、詫びを入れるということにして、お前に任せる」と市右衛門も言うので、親の許しを得たも同然と喜び、登波と連れ立って密かに宿所を出立した。
  
   そこから、日光山、中禅寺、善光寺を参詣、飛騨、加賀、能登、越前の国々を探し求め、京都へ上り、また紀伊から四国へ渡り、讃岐の金毘羅へ参詣した後、安芸の広島へ着岸して、そこで初めて龍之進の所縁が高田郡秋町村にあることを聞き出した。だが、そこへ度々赴いたが、どうにも在り処が分らないでいるうち、同郡吉田に、龍之進の老母が住むという情報を探り当てた。吉田を尋ねて行き、「我ら夫婦は関東の者である。この辺りに剣術指南の浪人、名を失念したが、その老母とやらの所縁があり、時折この辺りへ来られる由を承っている。お聞き及びはないか」とあちらこちらに聞いて回る。
  
   吉田から半道ほど下った畑で鍬を揮う男が、いかにもよく龍之進に似ている。登波はこれだろうと思い、亀松と内談し、もし仇龍之進なら、懐刀で切り殺すつもりであるが、さすがの龍之進、もし返り討ちに遭った時は、助太刀の上討ち果たしてもらいたい、と登波が言うと、心安く思ってください、と亀松が返す。男に近寄って、少々お尋ねしたいことがある、と問いかけると、頭の手拭を取り、何事ですかと言う男の顔をよく見れば、全く龍之進ではない。「私どもは関東の者で、物詣にこの辺を通りがかりました。近所の男で、先年剣術指南の門人になっている者があります。その方に大分厚恩を蒙ったとかで、お目にかかりお礼を申し上げてくれるよう頼まれたのです。お名前は忘れました。お心当たりはありませんか」と尋ねたところ、男が心当たりの人相を話したが、年齢が40歳くらいだという。龍之進とは合致しないため、「頼まれたお方は50歳ぐらいと承った。私どもは無筆だから知らないが、噂ではその方は字も学問も達者だけれども、師匠について上達した者とは見えないと聞いている」とさらに詳しく持ちかける。それなら龍之進という者ではないか、と男が言う。これこそ仇龍之進のことだと飛び立つごとく思うけれども、わざとお名前は聞いたが覚えていない、と言うと、お前様方は龍之進のお仲間か、と問い返された。いやいや、龍之進とはどんな方か知りません、私どもは関東の小百姓ですから、と誤魔化す。「この辺は被差別の村で、龍之進もその仲間である。お百姓ならここにお泊りになることはできない。ここから2里ほどお下りになったら、そこに龍之進の母兄ともに住んでいるから、その辺でお尋ねになれば、詳しく知れよう」と男が言う。「私どもは伝言を依頼されただけだから、強いてお会いすることもない。お会いになったら、この段をお話しください」と頼んでそこを立ち去った。
  
   この男は、登波の顔色を怪しんだのか、後に、龍之進が殺した男に娘があったと聞くが、それではないか、と独り言につぶやいたという。
  
   登波は、益々発奮した。川筋に沿って下れば、小村がある。ここは三次(みよし)から1里ほど上がった所である。備後三次郡の中で、安芸領とされている。そこの百姓屋に一宿し、龍之進のことをそれとなく問う。すると、「九州彦山(ひこさん)に娘が住みついているとのことで、その辺りへ行っているのではないか。近年はこの辺りへは帰っていなかったが、一昨年ごろから帰っており、再び春の頃から旅行し、ここにはいない。彦山へ行っているに違いない」と語る。時に、3月3日のことで、所の慣習によって、物貰いが現れた。老婆と男の二人である。すなわち、あれが龍之進の母と兄である、と宿の者が教えてくれたが、話を逸らして確かに返答もしないままにした。
  
   明朝宿を出て、近所に2泊し、夜な夜な龍之進の宅へ立ち聞きしに潜んで行った。家にはいないことが明らかとなったため、敵龍之進は彦山にいるに違いないと決し、嬉しさは言いようもない。亀松も年来の約束通り助太刀するつもりだというので、ひとまず国に帰り、願い出の上で段取りを決めることとした。
  
   石見にかかり、大森、銀山を通り、城下萩松本へ帰り、浜崎の目明(めあかし)与八という者に会い、積年の志願により、所々方々辛労しつつ遂に賊の在所を探し当てたことまで話し、何分敵討ちをさせてくれるよう願い出てもらいたいと頼んだ。だが、一応在所へ帰り、先大津(さきおおつ)の目明に取り次いでもらい、願い出るようにと言うので、直ちに角山村へ帰着した。天保7年-1836-4月のことである。(以下次号)
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (147)江戸の珍談・奇談(21)-3 2015/12/12
  

   登波は、仇の行方を知るべく心は逸るけれども、夫幸吉の病気にかまけて日を送っていた。翌年には大分快気し、2月11日には召し出されて、一件の始末について究明を受けるほどに回復したものの、数か所に刀傷を蒙ったため、精気を失い、身体も衰弱が甚だしくなる。以前のような働きは出来ず、一両年は病床勝ちで、とうとう癲癇病に変じてしまう。登波が懇ろに看病し、寝食について何かと心を配ったけれども、平癒しない。こうして3・4年が空しく過ぎてしまった。
  
   登波の心底には、父・弟の横死を悼み、勃々と湧き起る復讐の念が消えることはない。このままでは仇の蹤跡(しょうせき)も絶え果て、年来の宿願を果たすことができないままになってしまう。そこで、一日、幸吉の病の小康を得た折、復讐の願いを語ったところ、幸吉は、「お前にとっての父・弟なら、夫である俺にとっても父・弟だ。妹松を殺害した仇だから、俺も敵討ちを助けたいが、この病で空しく時を過ごしてしまった。お前の決心を聞いたからには、一刻も早く出立するがいい。俺も全快したら、すぐに後を追うから」と快く諾してくれた。
  
   夫に篤く礼を述べ、夫の世話を懇意の者に託すと、志を励まして、登波は、文政8年-1825-3月、名残を惜しみながら家を出発した。滝部の事件から5年目、幸吉39歳、登波27歳、幸吉に嫁してから9年目のことである。これが今生の別れになろうとは、両人とも知る由もなかった。
  
   川尻を出た登波は、萩を通り、奥阿武(おくあぶ)郡から石見へ移り、津和野城下へ越え、高角人丸社へ参詣の後、浜田、銀山、大森を経て、芸州筋の事情も問い合わせたけれども、龍之進はどうも広島辺には足跡がない。4人も切害した大悪人であるから、近国に留まるはずもなかろうと、出雲へ越え、大社、日御崎(ひのみさき)等へ参詣し、松江辺をかれこれ探索し、伯耆(ほうき)の大山(だいせん)、因幡(いなば)の鳥取城下を通り、但馬、丹後、若狭へ出て、この辺で越年したという。
  
   翌9年は、近江、美濃、伊勢、紀伊へ廻り、高野山へも立ち寄った。女人禁制の場所まで探り、和泉、河内から大和へ至って越年している。登波がつらつら考えるに、京都・大坂は長州の国人がたびたび立ち寄る所だから、決して足を止めるはずはないと思い、大和から伊賀を経て、再び近江へ戻り、大津駅から三井寺、比叡山その他へ迂回し、京都中の神社仏閣を拝礼して、丹波の亀山、摂津勝尾寺、播磨書写山から大坂へ出て、淀船で伏見に上った。
  
   これは、いよいよ仇は畿内近国にはいない、奥羽、関東へ立去ったのだろう、と思い定め、美濃から木曽路を東へ下り、信濃に入って飯田の城下を通り過ぎ、上諏訪、下諏訪、和田峠と越え、善光寺へ参詣の後、越後へ抜け、今町を通って新潟に至る。さらに、陸奥へ入り、会津の城下を通り、仙台へ出ると、なお東へ下り(このまま東へ進むと太平洋へ出るが、原文のままとする)、南部の恐山にも参った。東北の果てにある恐山で内地は尽きる。海を隔てて蝦夷松前に繋がる所である。
  
   さて、それから津軽に向かい、出羽を巡り、再び陸奥にかかって、岩城を経て常陸に出る。筑波山に登り、下野の日光山へも参詣した。遂に江戸に出ると、ここに3年滞留しながら、所々方々を捜索した。
  
   その後、水戸街道中にある常陸筑波郡藤代宿にも留まり、また同郡若柴宿の百姓市右衛門方にも宿した。この時すでに33歳になっていた登波は、突然病に冒され、百日余り病の床に着いてしまう。市右衛門が懇切に介抱してくれたお蔭で、快気後、上総、安房などを経巡り、また若柴に戻ると、先日のお礼奉公として、農家の手伝いをしつつ、一両年を過ごした。
  
   宿所を出立した登波は、江戸から相模、伊豆の最南端にある出崎、手石弥陀、石廊(いろう)権現までも拝礼し、東海道へ出た。遠江(とおとうみ)の秋葉、三河の風来寺などへ立ち寄り、宮の渡しを渡って奈良へ過ぎ、紀伊国加田へ出て、十三里の渡りから阿波の撫養(むや)へ上陸、土佐に移って、伊予を過ぎると、讃岐(さぬき)から備前田ノ口へ上がり、所々を尋ねたものの、遂に龍之進の消息は知れない。そこで、三たび常陸の若柴宿を目指して帰ることとしたのである。(以下次号)
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (146)江戸の珍談・奇談(21)-2 2015/12/04
  

   午前2時過ぎ、龍之進が、最早出発したいから茶を沸かしてくれと言う。甚兵衛と勇助が起き出し、茶を沸かし、飯を供していた時、文後も同じく起き出して暇を乞うのだが、依然雨が止まない。龍之進は、たびたび障子を明けて空模様を確かめている。甚兵衛らは少しまどろみ、文後も横になりに三畳へ戻った。うとうとしていると、龍之進が、灯火が消えたから付け木を取って来い、と松を呼び起こす。松は、付け木は仏壇の下にある、と寝たまま答えたため、甚兵衛が、不案内の者に分かるはずがない、お前起きて火を着けろ、と命じたものの、松は、離縁した人にそんな義理はない、と突っぱねる。
  
   捨て置きかねて甚兵衛が起き出して火を着け、薪を取りに外へ出た途端、龍之進は、松・幸吉・勇助の三人を切害してしまう。帰って来た甚兵衛をも戸口で切り倒す。甚兵衛は、大きな煙管(きせる)で応戦したが、受け止めきれなかった。文後は物音にうち驚き、帯を結びながら開いている戸口を覗いて見ると、甚兵衛が倒れ、庭の垣根際に龍之進が抜き身を提げたまま佇んでいる。何事だと声を掛けられ、龍之進は、言うことを聞かないから討ち捨てたのだと大音で答える。怖れをなした文後は座敷の隅に隠れ、夜明けとともに出て見ると、幸吉・松・勇助の三人が切り倒されている。庭の隅に潜んでいた利右衛門と相談し、急いで目代所へ届け出た。
  
   午前8時、戻って見ると、甚兵衛の息がまだ絶えていない。助け起こして座敷へ運んだが、間もなく絶命してしまう。勇助は即死だった。松は11月3日の夜まで存命した。時に甚兵衛54歳、勇助19歳、松29歳である。幸吉は九死に一生を得、頭を手拭で巻き、介抱されているうちに、ようやく知音が集まって来た。
  
   龍之進と文後が昵懇となったのは、この春前、大津三隅(みすみ)村で同道一宿しただけの間柄で、この度の一件も、文後の臆病に乗じて、龍之進が手先に使ったのだった。
  
   さて、川尻で夫の留守を一人護っていた幸吉の妻登波の所に、11月1日の日暮れ、悲報が入る。29日の夜、滝部で大事件、詳しくは小触(こぶれ)の所に来た飛脚に問うがよいとのこと。飯を櫃に移そうと杓子を持った姿でこの知らせを聞くや、裸足で走り出し、飛脚に問う。4人切害されたうち、年長の者と年少の者は即死だったという。父甚兵衛と弟勇助に間違いない。直ちに庄屋大田市兵衛方に駆けて行き、これから滝部村へ馳せつけたいから許してくれ、と哀願する。
  
   女一人では不安心だと庄屋はその挙を押し止める。仕方なく、飛脚に同道を頼むこととした登波は、飛脚が夜が明けなければ出立できないというので、終夜腰も掛けずに待ち続ける。心が急くまま飛脚を強いて起すと、午前4時ごろ出発し、8時ごろには滝部に達した。案の定、父と弟は殺害され、幸吉及び妹松は大怪我を蒙って臥している。この有様を見るに、驚きもし、怒りもし、加えて無念さが言いようもない。
  
   同日御徒(おかち)目付前原忠右衛門、村田清右衛門が出張し、14日までに一件の検証・調査が済んだ。どうにも気が納まらない登波は、ひとえにお慈悲をもって仇を討たせてほしい旨、出張役人に嘆願する。だが、今の段階ではどうにもならぬ、この後、仇の住所が知れた時に申し出れば、許可が出るかもしれない、との回答である。藩庁でも様々な手立てを講じて龍之進の行方を探索したものの、遂に杳として知れない。
  
   ところで、離縁の件は双方納得の上、酒を酌み交わすまでに折り合ったのだから、遺恨のあるはずはない。にもかかわらず、多人数を殺害に及んだ理由はなぜかと、事情聴取の節、再応糺されたのだが、幸吉も登波も、また文後も申し上げることに齟齬がない。売卜を業とし、棒術等を指南するような威勢を笠に着た男に対して、離縁一件につき、悪し様に罵ったこと、夜明け前に付け木を求めた時、松が不精の返答をなしたこと、それ以外に殺害に及ぶ動機の心当たりがない、と一同が供述したという。
  
   だが、どうやら龍之進には別に密通した女があって、松を厭う心が生じ、夫婦仲が思わしくなかった。従って、兄幸吉とも不快な関係となった上、松が甚兵衛方へ行っていたことに嫉妬の念を起したためだとも考えられる。(以下次号)
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (145)江戸の珍談・奇談(21)-1 2015/11/24
  

   幕末勤皇の志士、吉田松陰が、長州大津郡代を勤めていた周布政之助(すぶまさのすけ)から聞いてひどく感激したため、『討賊始末』の一文を草した。それは、殺された父と弟の仇敵の行方を二十年余かけて追跡した烈婦登波(とわ)の実話である。
  
   古川薫に同名の小説があり、三田村鳶魚「雨簑風笠」(『江戸の噂』-大正15年3月、春陽堂-所収)という名文もある。ここでは、原典である松陰の『討賊始末』を収める『吉田松陰全集』(昭和47年7月、山口県教育会)の本文によって、まずその内容を紹介しよう。
  
   長門国大津郡向津具(むかつく)上村川尻浦にある山王社の宮番(=神社の番人・小間使い)幸吉の妻に、登波という烈婦がいた。実家の父甚兵衛もまた豊浦郡滝部(たきべ)村八幡宮の宮番である。この宮番というのは、乞食以下に見られた身分だが、この夫妻の所為は武士にも劣らぬ節操である。
  
   夫幸吉は、もと長州国内の困窮した百姓であったが、母と妹を連れ赤間関に零落し、物貰いとなり、さらに宮番に養われて川尻浦へ移ったのである。登波が幸吉に嫁したのは15歳の時で、幸吉が下関にいた時分である。幸吉は23歳であった。登波の父甚兵衛は、もと播磨荒井の百姓であったが、登波が7歳の時、母、姉伊勢、弟勇助とともに下関へ出た。甚兵衛が遅れて合流する前に母が物故し、姉は後に俵山の宮番に嫁してしまう。
  
  幸吉には松という妹があり、下関で奉公しているうち、石見(いわみ)の浪人枯木龍之進(たつのしん)と自称する男と夫婦となる。この龍之進は、売卜(=占い師)または棒術・剣術の指南などをしながら諸国を徘徊する者であった。幸吉が登波を娶った時より4・5年後のことである。実は、この龍之進の素性は、安芸備後三次(みよし)の出で、被差別民であることが後に知られる。
  龍之進とともに諸国を放浪した松は、文政3年-1820-12月、二人で幸吉方を訪れ、翌年正月まで滞留した。ここで登波は、龍之進と初めて対面したことになる。龍之進は九州辺へ行きたいので、妻の松を預かってくれと言って出かけてしまう。4月になり、先妻腹の9歳になる娘千代を連れて再訪した。今度は上方へ上りたいから、しばらく娘を預かってほしい、仕官等が決まればまた参上するつもりだと言って、一人出立した。
  
   半年後、松は、登波の弟勇助の縁談を図るため滝部村の甚兵衛方へ赴く。その留守に、因幡浪人田中文後と名乗る者が幸吉方を訪れ、龍之進からの依頼を伝える。当家に預けた松を明朝新別名村の大願寺まで連れて来てくれ、というのである。松は滝部村へ行って留守である由を告げ、あれこれ応答しているところへ龍之進がやって来る。「今晩大願寺へ一宿を頼んだが都合が悪く、ここへ来た。いよいよ上方へ上ることに決したから、今度は娘も連れて行きたい」と言うので、幸吉は不審を抱き、「娘を連れて行ったら、今後帰国するかどうか知れたものではない。妹松は置き去りにされたと思っている。御身は、自分が難渋した時だけ松や娘を預けておきながら、少しばかり金の工面がついたからと言って、松を置き去りに遠路の旅行とは言語道断の不人情だ」と声高に詰め寄る。龍之進は話を逸らし、文後の方を向いて「上方へ上るのに、女房連れでは仕官の道が開けない。離縁するから、銀300目を付けてやろう」と言い出した。幸吉は「銀子を付けて離縁したいなどとは、下賤の我らとて迷惑千万。そんなお心積りなら、縁を切り、暇を取らせるつもりだから、ともかく松のいる滝部村へ両人とも同道してほしい。だが、今夜はもう遅い。当方にお泊りになるがよかろう」と、ひとまず頭を冷やすこととした。
  
   翌朝、龍之進以下、娘千代、文後、幸吉の四人連れで滝部村へと向かう。まず、文後と幸吉が甚兵衛方へ先着し、前段の趣を伝えると、離縁を願う方向に大方決着する。龍之進は、途中の粟野川口(あわのがわぐち)渡し場で、渡し守の所に泊まっていた非人小市という者に娘を預けた後、甚兵衛方へ駆けつけた。
  
   午後8時過ぎに到着した龍之進は、甚兵衛と松と対面して相談に及ぶ。幸吉と松が龍之進の薄情を詰り、激しい応酬が行われた結果、離縁に折り合いをつけ、手切れ金として銀300目を渡すことで落着した。だが、300目のうち、170目はすでに下関で松に手渡してあるから、今は30目だけ渡し、残りは文後を仲介として、来たる正月には幸吉へ送るつもりだ、と龍之進が持ちかける。幸吉と松は、もともと金銀に拘泥する気は毛頭ないのだから、その条件で離縁に応じることとした。一件が片付き、酒を酌み交わして、一見和やかに折り合いが付いたのである。
  
   ところが、午前零時を回ると、龍之進が、娘千代を近所に預けてあるから、これから直ぐに出立したいと言い出す。闇夜の上、雨が頻りに降り、雨具の用意もないから、今夜は泊りなさいと、甚兵衛が気遣うので、しばらく休むことにしよう、と龍之進は文後とともに奥の三畳へ入って横になった。この夜、甚兵衛方には、息子の勇助、松のほか、利右衛門という百姓が炉端に臥しており、龍之進と文後とは顔を合わせていない。(以下次号)
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (144)月を見たら… 2015/11/07
  

   唐・李白の「静夜思」という漢詩には、月光を望み見ると故郷が懐かしく思われるとあります。
  
  >牀前 月光を看る

   疑うらくは是れ 地上の霜かと

   頭を挙げて 山月を望み

   頭を低(た)れて 故郷を思う
  
   日本でも、阿倍仲麻呂(698~770)が、異国の月を見て故郷を思い出していますね。
  
  >天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも(『古今和歌集』巻9・羈旅)
  
   仲麻呂は遣唐学生として16歳で渡唐し、30数年後ついに日本に帰ることになった際、明州の海辺でこの歌を詠んだとされています。異国で見る月が、実は故郷の三笠山からのぼった月と同じなんだなぁとしみじみ思います。ところが、仲麻呂の乗った船は暴風に遭って安南に漂着し、再び唐に戻ることになります。結局、帰朝が叶わず、約15年後に73歳で没するまで、仲麻呂は幾度となくかの地で月を見ては故郷を思い出したことでしょう。
  
   『源氏物語』須磨巻でも、月が望郷の念を掻きたてるものとして描かれています。光源氏は朧月夜との一件で政治的に失脚し、流罪などこれ以上悪い状況に追い込まれるのを回避すべく須磨に自主退去しますが、須磨の地で十五夜の月を見て宮中の遊びを懐かしく思っています。そして、都に残してきた大切な人たちもまた、この月を眺めているであろうと、月をじっと見つめずにはいられないのでした。
  
  >月のいとはなやかにさし出でたるに、今宵は十五夜なりけりと思し出でて、殿上の御遊び恋しく、所々眺め給ふらむかしと思ひやり給ふにつけても、月の顔のみまもられ給ふ。
  
   時代は下り、野口雨情・作詞の「十五夜お月さん」(本居長世・作曲、大正9年「金の船」に発表)では、月を見てもう一度お母さんに逢いたいなと、月に語りかけています。
  
  >十五夜お月さん 母さんに

   も一度

   わたしは逢ひたいな
  
   野口雨情は、明治44年の秋に母を亡くしています。雨情29歳の時のことです。幾つになっても、また、母の死から何年を経ても、母のことは忘れがたかったのでしょう。それが、幼くして母を亡くした子どもの話と結びつき、この童謡が誕生しました。
  
   月を見ると、故郷や親しい人のことが思い起こされるというのは、誰しも共感できるのではないでしょうか。
  
   さて、『竹取物語』では、かぐや姫が月に還る場面で、翁と嫗へ手紙をしたためますが、そこには、「月の出でたらむ夜は見おこせ給へ」とありました。「月が出ているような夜は、月を見てください」―翁や嫗には何とも残酷な言葉ですね。かぐや姫は、天の羽衣を着たとたん、「翁をいとほし、愛(かな)しと思しつることも失せぬ」であるのに、翁や嫗はかぐや姫を忘れることなどできないのですから。月を見るたびにかぐや姫を失った哀しみが増すだろうから、もう月を見たくないと思ったかもしれません。
  
   月が出た夜は月を見てほしいということは、月を見たら私を思い出してほしい。月に私がいるということを忘れないでほしい、ということです。自分が喜怒哀楽の感情と記憶を失ったとしても、かぐや姫は翁や嫗の心の中に生き続けることを願ったのです。
  
  

  (し)
  

  
  

  ### (143)江戸の珍談・奇談(20) 2015/10/10
  

   紀伊国屋文左衛門といえば、江戸の比類なき大尽として知らぬ者はない。単なる大金持ちというだけでなく、風流人でもあった。節分の豆撒きに、豆の代わりに金をばらまいたなど、様々な逸話を持つ中で、江戸座の俳諧師神田庵の主が語った、いかにも紀文らしい遊びがある。
  
  >昔、紀文が隆盛を極めた頃、ある夏のことだったが、浅草川で船遊びをすると世間に触れ廻した。どんな遊びをするのか見物しようという群集が、当日になると我先に競って船に乗ったため、川面は水の色さえ見分けられないくらい。紀文の船は今来るか今来るかと待っているのに、夕陽が傾く時分になっても、何らそれらしき気配がない。遂にあちらこちら捜し回る船まで現われた。火ともし頃になって、川面のここかしこに盃が流れて来る。それまで酒を飲んで歌を歌っていた船は、どよめきながら川面を見守る。ただ盃が流れ寄ってくれることを待ち、そればかりを争って興じたのだった。これはまさしく紀文のしわざにちがいないと、上流を尋ねようと船を墨田、綾瀬の方へ溯らせ、隈なく探し求めたものの、その夜はまったく紀文の姿を見つけることができなかった。夜が更け、仕方なく皆帰ったという。〈大田南畝『仮名世説』-『日本随筆大成』第2期 2、290ページ〉
  
   その日、紀文は、船遊びに出ると言い触らしておき、自分は家にいて、盃だけを流させたのだった。後に人々が聞き伝えて、その風流を称讃したという。問題の盃は、大した細工も施してない朱塗りの平凡な品であったそうだが、この話を語った神田庵主の家には、紀文の酒盃として収めてあったと大田は紹介する。
  
   上述の豆撒きも同様、金品に群がる人間を見て満足を得ようとする行動に対して、小文の筆者なら眉を顰める。およそ風流とは呼べないであろう。だが、この話ばかりではなく、当時の人々は、紀文の行動に対しておよそ批難めいた言い方をしない。不思議な感覚である。
  
   紀文の姿は拝めなかったものの、隅田川に出た群集は、盃を手に入れた。だが、もし触れ廻らした案内が虚報だったとしたら……。
  
  >夏の六月、両国川の夕涼みは、誠に三国一の景色といってよい。今宵は、名にし負う仙台の太守が花火を打ち上げさせると、江戸中に触れ廻している。貴賤すべてが花火を見物しようと、屋形船は勿論、小舟に至るまで借り切って、もはや江戸中に空き船は一艘もないという有様。川は一面に船で埋め尽くされている。ところが、暗くなっても花火の沙汰が一向にない。これはどうしたことだというと、お屋敷に不都合があって、明後日の晩に延期されたというではないか。名残を惜しみながら皆帰って行く。しかし、その当日になっても花火は上がらない。さては騙されたかと、その時になって人々は目を覚ました。騙した張本人は、江戸橋の船持ち上総屋三右衛門という者で、江戸中の船持ち連中に、その夜銭を設けさせてやろうと企んだことだった。〈馬場文耕『当代江都百化物』-同上、394ページ〉
  
   せっかく船まで出して待っていたのに、二回までも肩透かしを食らわされたのでは、腹を立てても当然であろう。だが、それが仙台藩主の嘘ではなく、船持ちに騙されたと判明したところで、当時の人々はどう反応したのか。そこまで書かれていないが、うまいことやられたと、むしろ感心するくらいで、恐らく洒落の一つとして笑って済ませたかもしれない。馬場文耕も「誠ニ能キ化シ様ナリケリ」と称えてはいても、決して批判してはいないのである。
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (142)松浦佐用姫の末裔 2015/10/05
  

   フィギュアスケートの浅田真央選手が、553日ぶりの復帰戦(10月3日のジャパンオープン)で舞ったフリーの曲は、オペラ「蝶々夫人」(ジャコモ・プッチーニ作曲、1904年)でした。一人の男性(アメリカ海軍士官のピンカートン)をひたすら待ち続けて裏切られ、最後は自刃して果てた没落士族令嬢の悲劇、蝶々夫人を選曲したことについて、浅田選手は「日本人として芯の強い女性を演じたいと思った」と言っています。
  
   情感あふれる浅田選手の演技に多くの人が魅了され、「まるで天女のよう」といった感想が聞かれました。着物をイメージした薄紫色のコスチュームには袖がついていて、腕を動かすと両袖が領巾(ひれ:上代、主に女性が首にかけ、左右に長く垂らした薄い布。)のように揺れ、風に靡きます。一振り一振りするその遠い先に、あたかも愛する男性がいるようで、出征する夫の乗る船を高い山の嶺で領巾を振って見送ったという松浦佐用姫(まつらさよひめ)を思い出しました。
  
   松浦佐用姫は、昔、肥前国(佐賀県)の松浦の東方に住んでいたという女性で、『万葉集』には松浦佐用姫伝説を題材にした歌(巻5・871~875番歌)が収録されています。871番歌の題詞によると、大伴狭手彦(おおとものさでひこ)は、朝鮮半島の任那(みまな)救援に赴く途次、松浦佐用姫と契ったが、佐用姫は夫・狭手彦との別離を悲しみ、高い山の頂に登って領巾を振り、魂も消え入らんばかりに、遙かに遠ざかり行く夫の船を見遣ったとあります。それを見た人々もみな泣いたので、その山を「領巾振る嶺」(現在の鏡山)と呼ぶようになったそうです。
  
  >遠つ人 松浦佐用姫 夫恋に 領巾振りしより 負へる山の名

   山の名と 言ひ継げとかも 佐用姫が この山の上に 領巾振りけむ

   万代に 語り継げとし この岳に 領巾振らしけむ 松浦佐用姫

   海原の 沖行く船を 帰れとか 領巾振らしけむ 松浦佐用姫

   行く船を 振り留みかね いかばかり 恋しくありけむ 松浦佐用姫
  
   古代日本では領巾振りや袖振りは呪的行為で、相手の魂を招き寄せる「魂乞い」の一方法です。現代では、手や袖を振る行為は愛情表現であったり、別れを惜しんだりする行為ですが、その根底には相手の魂を自分のところに引き留めておきたいという願望があります。松浦佐用姫の領巾振りと蝶々夫人の袖振りがオーバーラップして、哀しく胸に迫ってくるではありませんか。
  
   「蝶々夫人」は長崎、松浦佐用姫伝説は肥前の松浦が舞台ですが、どちらも異国への玄関として開かれた場所です。小高い場所で船が出入りする港を眺め、愛する男性の旅立ちを見送ったり、帰還をひたすら待ち続けたりする女性の実話が古くからあったのでしょう。蝶々夫人は最後に自害して果てますが、佐用姫は待ち続けて石になったという伝説が伝わっています。いわゆる「望夫石」伝説の一つです。
  
   もともと望夫石とは、中国の湖北省、武昌の北の山の上にある岩を指しました。昔、貞婦がいて、役に従って遠方に赴く夫を幼子を携えてこの山上で見送り、そのまま岩になったという話が南朝・宋の『幽明録』に載っています。『唐物語』(中国の説話を意訳した物語。鎌倉中期以前の成立。)には、夫に先立たれた妻が悲しみのあまり自らも命を失い、その屍が石になったという話もあります。
  
   石になったというのは、女性の意志の堅さの象徴でしょう。芯が強く健気な蝶々夫人が松浦佐用姫の末裔のように思われてなりません。
  
  

  (し)
  

  
  

  ### (141)江戸の珍談・奇談(19) 2015/09/04
  

   万寿元年-1024-、花山法皇の皇女が深夜盗賊に拉致され、路上に放置されたあげく、野犬に食われるというショッキングな事件が発生した。その詳細については、繁田信一『殴り合う貴族たち 平安朝裏源氏物語』(2005年、柏書房)に譲るが、京都の町中でも死骸を放置すると、たちまち野犬の餌食になったことが知られる。
  
   この犬は野犬だったろうが、周知のように狼も明治の後半まで全国各地に棲息していた。魔除けや憑き物落とし、害獣除けなどの霊験を持つとして、狼を信仰する風習が残る一方で、狼による凄惨な人的被害は歴史上数多く報告されている(平岩米吉『狼―その生態と歴史 新装版』1992年、動物文学会)。
  
   日本(北海道や島嶼を除く)に棲息していたニホンオオカミは、残された剥製などから、体長95 ~ 114センチメートル、尾長約30センチメートル、肩高約55センチメートル、体重推定15キログラムほどだったとされる。意外に小さい。中型の日本犬といった程度だ。だが、侮ってはいけない。肩高から推して脚が長く脚力も相当に強かったようだ。しかも、群れで行動することが多いため、到底生身の人間の力ではかなうはずがない。
  
   ここでは、そんな狼を相手に果敢に立ち向かい、逆にこれを倒した少年の実話を紹介しよう。
  
  >天明8年-1788-9月25日、信州と上州との境にある破風山の麓で、惣右衛門という百姓の居宅から3町(=約324メートル)を隔てた逢月という所に、猪鹿防ぎの番小屋があった。夕方、惣右衛門が息子の亀松をそこへ連れて行き、亀松が外で草を取り、惣右衛門が小屋で火を焚いていたところ、背後から突然狼が現われた。狼は、惣右衛門の足に食い付くと、あわてて振り返った惣右衛門の顎へ続いて食らい付く。惣右衛門がそのまま狼の耳をつかみ、大声を挙げたため、聞き付けた亀松が駆け寄る。亀松は、持っていた鎌を狼の口へ捻じ込むやいなや、後ろへ引き倒した。そして、両人で取り押さえたけれども、惣右衛門は、数か所咬みつかれた痛手のせいで体の自由がきかず、倒れてしまう。亀松は、再び起き上がった狼の口に石を差し込むと同時に、鎌の柄を突っ込んで、牙を欠いたが、狼はなおも暴れて亀松に掻き付く。そこで、親指で狼の両眼を抉り取ると、散々に打ち叩き、ようやく仕留めた。惣右衛門はあちこち食われたものの、急所でなかったため、亀松が介抱しながら家へ戻り、翌日から療治薬を用いると、日を追って快方に向かったという。〈山崎美成『提醒紀談』に引く「亀松手柄孝行記録」による-『日本随筆大成』第2期 2、167ページ〉
  
   この時、亀松わずか11歳。年齢よりことに小柄で、しかも虚弱だった由。とてもこのように勇敢な働きをするとは見えない。それなのに、逃げもせず親の危急を救ったのは珍しく殊勝なことだ、と孝行記の筆者は結んでいる。記録として残っているということは、藩主を通じて幕府に申請したのであろう。以前紹介したとおり、孝子と認定されれば、幕府から褒美が出たのである。
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (140)唐物は永遠の輝き 2015/08/25
  

   正倉院の宝物のひとつに「螺鈿紫檀五絃琵琶」があります。唐からの伝来品で、現存する五絃の琵琶(五絃琵琶はインド起源)としては、世界で唯一です。この琵琶には美しい螺鈿細工が施されていますが、駱駝に乗り四絃琵琶(四絃琵琶はペルシャ起源)を弾く胡人の文様がひときわ目を引きます。「胡人」とは西域の諸民族のことで、特にペルシャ人を指すこともあります。エキゾチックな胡人の文様が、シルクロードや中国を経て日本にもたらされ、聖武天皇遺愛の品の中に損なわれることなく現在まで伝わったということは、奇跡と言ってもよいかもしれません。正倉院には、他にも白瑠璃碗や漆胡瓶など西域由来の宝物が収められています。
  
   『うつほ物語』にも、煌びやかな楽器や調度品など夥しい数の舶来品が登場します。例えば、「秘色の杯(=中国の越州窯で作られた青磁の高級品)」(藤原の君・①184頁)、「瑠璃の杯」(蔵開上・②377頁)、「大きなる瑠璃の壺」(国譲下・③384頁)、「白瑠璃の衝重」(蔵開上・②377頁)、「唐の紫の薄様」(蔵開上・②378頁)、「高麗の幄」(吹上下・①521頁)・「高麗錦」(楼の上上・③459頁)・「唐綾」(楼の上上・③460頁)などの織物、紫檀(楼の上上・③460頁)などの香木、沈香(藤原の君・①143頁)・白檀(楼の上上・③460頁)といった香料など、いわゆる「唐物」と言われる高級品が多数描かれています。
  
   藤原明衡の『新猿楽記』(11世紀半ば頃)には、香料、薬品類、顔料類、皮革類、陶磁器、唐織物類など53品目の唐物を載せていますが、『うつほ物語』の唐物とほぼ一致することから、どちらも平安時代の唐物を知る手がかりになると言えます。
  
  >沈・麝香・衣比・丁子・甘松・薫陸・青木・竜脳・牛頭・雞舌・白檀・赤木・紫檀・蘇芳・陶砂・紅雪・紫雪・金益丹・紫金膏・巴豆・雄黄・可梨勒・檳榔子・銅黄・緑青・燕脂・空青・丹・朱砂・胡粉・豹虎皮・藤茶碗・籠子・犀生角・水牛如意・瑪瑙帯・瑠璃壺・綾・錦・羅・縠・緋の襟・象眼・繧繝・高麗軟錦・浮線綾・呉竹・甘竹・吹玉等
  
  さて、冒頭で示した『うつほ物語』の「瑠璃の杯」や「大きなる瑠璃の壺」の「瑠璃」は、ラピスラズリではなくガラスの意です。河添房江氏によると、瑠璃の製品で大型であることが強調されているものは、繊細な中国のガラス器ではなく、イスラムグラスであった可能性が高いそうです。
  
  >藤壺より、大きやかなる酒台のほどなる瑠璃の甕に、御膳一盛、同じ皿杯に、生物、乾物、窪杯に、菓物盛りて、同じ瓶の大きなるに、御酒入れて、(蔵開中・②四七〇頁)
  
   源正頼邸には「胡瓶」もありました。胡瓶はその名の通り、ペルシャ起源の水瓶で、口は鳳凰の頭の形を象っています。
  
  >御前の池に網下ろし、鵜下ろして、鯉、鮒取らせ、よき菱、大きなる水蕗取り出でさせ、いかめしき山桃、姫桃など、中島より取り出でて、をかしき胡瓶ども、水に拾ひ立てなどして、涼み遊びたまひて、(祭の使・①四六五頁)
  
   胡瓶は正倉院の「漆胡瓶」が有名ですが、『延喜式』「酒造式・諸節会供御酒器」に「金銅胡瓶一口」とあり、実際に節会で胡瓶が使用されたことが『中右記』(承徳元年一月七日条・白馬節会・「中門立胡瓶二口」)から分かります。
  
   平安時代に日本人がペルシャまで行ったという記録は残っていませんが、唐物や文献によって、シルクロードの西の果ての国々を知ることができたのです。それらは、今を生きる我々の目をも楽しませてくれます。
  
   先日、シリアのパルミラ遺跡の一部(世界遺産)が過激派組織ISによって破壊されたことをニュースで知りました。パルミラは紀元前1世紀~紀元3世紀にシルクロードの交易で栄えた都市で、古代ローマ時代の神殿や円形劇場の跡があることで有名です。破壊されたのは、1世紀に建てられた「バールシャミン神殿」だそうです。
  
   さらに痛ましいニュースも伝わっています。50年以上にわたりパルミラの遺跡や博物館の統括に当たっていた考古学者のカリド・アサード氏が、ISによって殺害されたそうです。今年5月にISがパルミラを制圧した際、ISによる爆破を逃れるため多くの文化財が運び出されたそうですが、その在り処をカリド・アサード氏が明かさなかったため殺害されたと見られています。
  
   カリド・アサード氏のように命がけで文化財を守ってくださった人々のおかげで、西域から遠く離れた日本でも美しい唐物を知ることができましたし、唐物は平安の物語の中にも豪奢な輝きを湛えて残りました。
  
   カリド・アサード氏の生きる姿勢と考古学への情熱を忘れません。
  
  ※唐物について詳しく知りたい方は、河添房江『光源氏が愛した王朝ブランド品』角川選書 二〇〇八年)、山口博『平安貴族のシルクロード』(角川選書 二〇〇六年)をご覧ください。
  
  

  (し)
  

  
  

  ### (139)江戸の珍談・奇談(18) 2015/08/15
  

   大田南畝『仮名世説』(文政8年-1825-刊)に、奇妙な夫婦別れの話がある。
  
  >上州大原に、惣左衛門という鋳物師がいた。若い時から読書を好み、物覚えが大変よい。ある時、にわか雨が降り、道行く人が足早に駆けて行く中で、菰(こも)を被って頭だけ少し出して走って行く者がいた。その姿を見て、惣左衛門の妻が、「枕草子に『蓑虫のやうなるわらは』と書いてあるのも、こんな恰好かしら」と言ったところ、惣左衛門がこれを聞いて、「いや、それは間違いだ。源氏物語須磨の巻にある『ひぢがさ雨とか降り来て』という箇所に出ていることで、枕草子ではない」と反論し、二人が言い争う。とうとう、二書を取り出して確認すると、枕草子の「一条院の御乳母(めのと)に御ふみ賜はる」段にあって、須磨の巻にはない。そこで、惣左衛門は、枕草子を妻に投げ付け、そのままぷいと家を出てしまう。同国鳥山村の聟の所へ行ったまま帰らない。それから、妻は度々鳥山村を訪れて、色々言葉を尽くして詫びたけれども、惣左衛門は一言も返事をせず、そっぽを向いて妻の顔も見ない。聟の方でも、ほんの一日二日の滞在だと思っていたところが、年を重ねても帰る気配がない。周囲の心遣いに感謝を述べることすらせず、自若として我が家同前に振る舞っている。毎日、夕暮れになると、鍬を携えて裏の畑へ行き、いくつも穴を掘っておく。夜明けに至ってこれを埋める。これが変わらぬ日課となっていた。この穴は、夏は少なく、冬に多くなる。それは何かと問えば、夜中に起き出して小便をする穴だと答えたという。〈『日本随筆大成』第2期 2、293ページ〉
  
   ほんのわずかの期間だと聟は思っていたろうが、惣左衛門は、何と24年も同所にあって、寛政元年-1789-に85歳で亡くなった。
  
   南畝は、この話に「忿狷(ふんけん)」(すぐに怒り出し、人と妥協しない頑固者)という表題を付けて分類している。惣左衛門の性格とその行動に焦点を当てたものだ。出典の争いに負けただけで腹を立てて家出したばかりか、妻の謝罪にも耳を貸さず、聟の所で生を終わるまで過ごしてしまうのだから、確かに狷介そのものである。
  
   だが、この話から、江戸庶民の持っていた教養の程度が垣間見られよう。南畝の分類から見ても、鋳物師という職人及びその妻が源氏物語や枕草子に親しむこと自体、何の不思議もなかった。町人の間で俳諧が大流行し、茶道や歌舞音曲を嗜んでいた時代である。遊女ですら、太夫ともなれば、琴棋書画の心得がなくては務まらなかった。登楼する粋な客の教養に応じて接遇しなくてはならなかったからだ。
  
   平成27年6月8日、文系学部の廃止や削減などの組織改革を進めるよう文部科学省が国立大へ通達した。実用に供される知能、すなわち素早く物事を処理し結論を出す力が役に立ち、中長期的・客観的・相対的に物事を捉える知性を育てるはずの教養は役に立たないとされたのである。
  
   明治維新以来、西洋の学問を摂取するのに忙しく、江戸時代に培われてきた豊かな教養を育む風土を浸食した。短期間に成果を求めることのみに汲々としてきた我々は、ここで明治のお雇い外国人の残した日本人への警句を今一度服膺する必要があろう。明治34年、ドイツの医学者エルウィン・ベルツが日本を去る一年前に行った講演の一節である。
  
  >私のみるところでは、日本人は科学をひとつの機械とみなし、一年にこれこれの仕事をした上で簡単にどこでも運搬し、そこで働かし得るものと考えております。それは誤りです。西欧の科学は決して機械ではなく、一つの有機体で、他のすべての有機体と同様、それが成長して行くためには、一定の気候、一定の雰囲気を必要とします。……諸君、この三十年間に西欧諸国は諸君に幾人もの教師を送りました。しかし、世の人は彼らを誤解し、学問の果実を売る商人とみなしたのです。外人教師から、今日の科学の新しい結実だけを取ろうとしたのです。教師はまず種子をまこうと考えたのに、日本人はこの未来の収穫を得る根元の精神を学ぶことをせず、教師からもっとも新しい成果を受けとることだけで満足してしまったのです。〈NHK特別取材班『ドキュメンタリー 明治百年』-昭和43年刊-214ページ〉
  
   日本が近代国家として歩み始めてからまだ150年。江戸時代は270年も続いた。現在、教育の施設・方法・教師の能力等が格段に向上したとはいうものの、学問や教養に対する根本的な捉え方は、明治人とさして変わらない。ベルツの言うように学問が有機体なら、教養は有機体を生きて働かせる栄養分である。今のままでも、江戸時代の文化や教養の成熟に比肩するには、あと100年はかかるであろう。詰まらぬ妨害によって栄養補給を止め、有機体そのものを枯死させないことだ。
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (138)『源氏物語』を読もう 2015/08/06
  

   『更級日記』の作者・菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)は、少女時代、かねてから続きを読みたいと思っていた『源氏物語』を、「をばなる人」から「源氏の五十余巻、櫃に入りながら」贈られた時の嬉しさは天にも昇る心地だったと日記に記しています。『源氏物語』を手に入れた作者は、一心不乱に読みます。
  
  >はしるはしるわづかに見つつ、心も得ず、心もとなく思ふ源氏を、一の巻よりして、人も交じらず、几帳の内にうち伏して、引き出でつつ見る心地、后の位も何にかはせむ。昼は日暮らし、夜は目の覚めたる限り、灯を近くともして、これを見るよりほかのことなければ、おのづからなどは、そらにおぼえ浮かぶを、いみじきことに思ふに、
  
   一日中、『源氏物語』を読むのに没頭し、文章を暗記するまでになり、后の位も読書する喜びに比べたらどうってことないわ、と思う作者に共感を覚えた方も多いのではないでしょうか。
  
   作者は、後に、光源氏ほどの男性なんてこの世にはいないと思い至り、もっと仏道修行に励んでおけばよかったと後悔しますが、それでも物語に耽溺した少女時代は、彼女にとって宝石のようにキラキラと輝く、幸福な時代だったと思われます。
  
   『源氏物語』は、千年以上にわたって読み継がれてきました。応仁の乱や太平洋戦争の時も、戦争のなかった江戸時代も…。
  
   生活評論家の吉沢久子氏(97歳)は、戦時中も密かに『源氏物語』を読んでいたそうです(『読売新聞』2015年8月3日朝刊)。1944年末~1945年頃のことです。
  
  >夜、空襲警報があると、明かりが漏れないように家の窓に覆いをした後、私は鉄かぶとを着け、布団をかぶり、懐中電灯の光で源氏物語を読んでいました。庭に簡素な防空壕がありましたが、直撃を受ければひとたまりもない。途中からは逃げ込むのもやめました。
  
   松永茂雄(1913~1938)・龍樹(1916~1944)兄弟は、『源氏物語』や『新古今和歌集』等の古典を愛読し、学徒兵として戦地に赴いた後も、「重機関銃を握り締めながら新古今の歌を語って」(兄・茂雄氏)いたそうです。茂雄・龍樹兄弟はともに大陸で、しかも20代の若さで亡くなりますが、戦場にあって彼らを支え続けたのは古典でした(『戦争・文学・愛―学徒兵兄弟の遺稿』)。
  
   ドナルド・キーン氏(93歳)も、1940年(昭和15年)18歳の時に、ニューヨーク市内の本屋でアーサー・ウェイリー訳の『源氏物語』を49セントで購入しますが、読み始めるとすぐに『源氏物語』に夢中になったと言います。
  
  >第二次世界大戦の足音が聞こえていた頃。戦争の怖さから逃れるように、その晩から夢中で読みました。「源氏物語」には日本の美意識が凝縮されています。源氏は女性に手紙を贈るにも紙を選んだり、和歌を引用したり…。このような物語を原文で読める日本人は幸せだと感じ、「源氏物語」の舞台である京都にいつか行きたいと心に決めました。(『毎日新聞』2014年1月22日夕刊)
  
   戦後、キーン氏が研究のために日本と米国を行き来する生活を経て、東日本大震災を機に日本に永住することを決意し、日本国籍を取得されたことは記憶に新しいところです。キーン氏は、「源氏物語に出合わなければ、今の私は存在しなかった」とも仰っています。
  
   『源氏物語』は教訓書ではありませんし、人生これこそが正解ということも書かれていません。でも、戦争の時代、絶望的な状況下で、少年少女を支え続けたものの一つに『源氏物語』がありました。
  
   すぐに役に立つとか、お金儲けになるとか、そんなこととは関係ないけれど――『源氏物語』を読もう…
  
  

  (し)
  

  
  

  ### (137)江戸の珍談・奇談(17) 2015/07/18
  

   梟(ふくろう)は卵から生まれるのではない。土をこねて子をつくるのである。などと言えば、現代なら誰も信ずる者はない。江戸時代とて、まるまる信用したわけでもなかろうが、次のような話が伝わっている。
  
  >支唐禅師が諸国行脚をしていた折のこと。出羽の国から禅宗の寺のある所へ移り、しばし逗留した。寺の庭前に、朽ちて半ばから折れ残った椎の巨木がある。ある日、住持(=住職)が人を使ってこの木を掘り取らせたところ、朽ちた空洞の中から、番(つが)いの梟が二羽飛び去った。その跡を開いてみると、土で造った梟の形が三つある。その中の一つには、すでに羽毛が生えて、喙(くちばし)と足とが揃っていたのである。少し生気も感じられるようだ。三つともに大きさは親鳥ほどである。住持はしきりに不思議がる。そこで、禅師が「以前に聞いたことがあるが、目の当たりに見るのは大変珍しい。梟は、すべて土をこねて子を造り出すものだ」と言うと、住持も禅師の博学に感動した。〈大田南畝(おおたなんぽ)『仮名世説(かなせせつ)』―『日本随筆大成』第2期 2、267ページ〉
  
   このような一種の怪異にどう反応するかによって、当時の人々の考え方が知られるのだが、残念ながら、インテリ大田南畝は、これについて感想も意見も述べていない。
  
   次の話は、いかにも実話らしく見える。あるいは信用してもよいかもしれない。
  
  >江戸浅草阿部川町にある商家の土蔵の雨よけが破損したため、修理しようとその経費を計算した。大して費用はかからないものの、儲けの少ない仕事であるから、「釘を多めに打って少し手を入れておけば、しばらくは雨を防げるはずだ。そうして改めて作り直すのがいいだろう」という大工の意見に従って、釘を打ち加え、あちこち補修して済ませた。その後三年して、再び破れたので、今度はいよいよ作り直すしかないと、大工に下見のための板を剝がして見させると、その板と壁との間に、一匹の蝙蝠(こうもり)が、飛び去りもせずそこにいた。よく見ると、蝙蝠の翼が釘に打ち貫かれて、ひたすらくるくると釘の周りを回るのである。このせいで、土蔵の壁も輪のように窪んでいた。釘に貫かれた箇所は、翼の肉が盛り上がっている。大工はこれを見て嘆息した。「こうして蝙蝠を苦しめたのは、俺の罪だ。しかし、年月が経つのに、この蝙蝠は何を食って生きていたのだろう」と思って気を付けて見れば、蝙蝠の棲む所の下に糞がある。聞き付けて近所の者たちが、この不思議を見に集まった。その中の一人が「その蝙蝠は雌か雄かは知らぬが、その片割れが餌を運んで養っているに違いない」と言った。人々は、蝙蝠夫婦の厚情に感じ入り、皆涙を落として憐れんだという。〈山崎美成『提醒紀談』に引く「天然訓」の一節―同上、162ページ〉
  
   その後、慈悲心を諭され、善智識(=高徳の僧)と同じだと大工を感激させた蝙蝠を追い出すに忍びず、釘を抜いてやると、商家の主人は、雨よけを改築せずそのままにした。蝙蝠は元の通り棲み続け、夕暮れになると土蔵に出入りしたそうであるから、ご安心いただきたい。
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (136)限りある命の物語 2015/07/07
  

   古事記の世界で、神の子孫とされる天皇の寿命に限りがあるようになったのは、ニニギノミコトの結婚に原因があるとしています。天孫降臨神話で知られるニニギノミコト(太陽神アマテラスの孫)は、笠沙の岬で美しいコノハナノサクヤビメに出会い求婚します。彼女の父オオヤマツミは大変喜び、姉のイワナガヒメも添えてコノハナノサクヤビメをさし出しました。ところが、ニニギノミコトはイワナガヒメが醜かったので、父のもとに送り返してしまいます。父のオオヤマツミは大変恥じて、「娘を二人一緒に奉ったのは、イワナガヒメは石の如く磐石であるように、コノハナノサクヤビメは木の花が咲き誇るが如く栄えるようにと願ってのこと」と言い、「イワナガヒメを送り返したので、ニニギノミコトの寿命は木の花のようにはかないものとなるだろう」と言いました。古事記では、そういう次第で、今日に至るまで天皇の寿命が長くないとしています。
  
   もし、ニニギノミコトがイワナガヒメも喜んで娶っていたら…。今頃、神も人間も死ななくて地球が大変なことになっていたかもしれません。それはさておき、神といえども、限りある命を選択したことになります。
  
   これまた古事記に載る伝説ですが、垂仁天皇は、「時じくの香の木の実」を求めて、タジマモリを常世国に遣わします。しかし、タジマモリが常世国から戻った時、既に天皇は崩御していました。時じくの香の木の実は不老不死の実で、もし垂仁天皇が口にできたら永遠の命が得られたかもしれませんが、口にすることなく亡くなっています。
  
   タジマモリは、持ち帰った時じくの香の木の実の半分を大后に献上し、残りは垂仁天皇の陵に供えて哭泣し、殉死したそうです。大后もタジマモリも、天皇が亡くなったので、時じくの香の木の実を食べても仕方がないと思ったのでしょう。やはりここでも天皇を始め人間の命は有限です。
  
   『竹取物語』でも、かぐや姫は月に還る前、帝に不死薬を置いてゆきますが、帝はかぐや姫から貰った手紙と不死薬を富士山で燃やさせてしまいます。かぐや姫のいないこの世で永遠の命が得られても何の価値もないと思ったのです。不老不死になれるチャンスを帝は自ら放棄しています。
  
   浦島太郎も玉手箱を開けてしまい、たちまちおじいさんになりました。その後、浦島神社に祀られたかもしれませんが、浦島太郎もこの世で永遠の生命が得られたという設定にはなっていません。
  
   限りある命の物語は切なくて美しい。千年以上にわたって語り継がれてきた魅力は、きっとそんなところにあるのでしょう。
  
  

  (し)
  

  
  

  ### (135)江戸の珍談・奇談(16) 2015/05/30
  

   怪事があると必ずといっていいほど付会の説が行われる。例えば、平家蟹という鬼の顔を甲羅に刻んだ蟹がある。これを平家蟹と称するのは、源平合戦の折、讃岐八島において溺死した平家方の武士の冤魂が化したことによると伝えられている。
  
   ところが、同種の蟹を所によっては島村蟹とも武文蟹とも呼ぶ。島村蟹は、細川武蔵入道高国が生害された時、その家人島村弾正左衛門貴範が主の後を追ったが、間に合わなかった。無念に思った島村は、向かう敵二人を摑んで引き寄せ、もろともに川底深く沈んでしまった。その霊が化して蟹となっているという。
  
   また、摂津の国尼崎兵庫の浦にある蟹は、怒った顔をして兜を着している有様が甲羅に見える。これは秦武が文松浦五郎のために、海中に入って死んだその霊だという。
  
   『三養雑記』の筆者山崎美成は、「すべて品物の形状、あるひは産所によりて、付会の説あること、和漢そのためしいと多かり」と冷静に受け止めている(『日本随筆大成』第2期6、122ページ)。
  
   たまたま鬼面のような模様をした甲羅を持つ蟹を恐れて、人が獲ることをしない。すると、害する者がないのだから、そのまま子孫が生き残る。現代なら人為淘汰として片づけられることでも、何らか意味づけを行わないと気が済まないのが人間の性質だ。
  
  >近江の国志賀郡別保にある西念寺の寺境に住む人のない廃屋がある。たまたまここにいる人は、必ずその身に禍があるという。俗に常元屋敷と呼んでいた。その由来と言えば、蒲生家の侍である南蛇井源太左衛門という者が、天正の兵乱に無頼の徒となり、強盗をよすぎとして諸州に横行した。その徒輩は数百人にも及ぶ。南蛇井は、老いて別保へ帰っても、なお悪行をほしいままにしていたが、人の勧めによって出家剃髪し、常元と称した。慶長5年、諸国の盗賊を召し捕えた時、長年に亙って悪行をした罪人だからというので、常元も柿の木に縛り付けられる。人々の見懲らしとしてついに斬殺されたが、死に臨んで様々な悪口雑言を吐き、一層人々の憎しみを受けてしまう。梟首され、遺骸は村の庄屋が引き取り、柿の木の下に埋めた。数日後、墳の上に不思議な虫がぞろぞろと這い出る。その形は人を捕縛したようで、後に蝶に羽化して飛び去った。その殻が毎年木に残っている。人々はこれを常元虫と呼んだ。顔・目・口・鼻が備わり、手は後ろへ回し、縛られているようでもある。足は縮めたような恰好で、段々の襞(ひだ)がある。蝶に化する時は黒い糸を吐く。まるで柿の木に縛り付けられた常元のようだ。〈同、121ページ〉
  
   この奇妙な虫を物産家(=博物学者)に問い質すと、「縊女(いじょ)」という虫で、俗には「おきく虫」というものだと教えられた。ここからが山崎の本領発揮で、常元が埋められた墳の上の樹にそんな虫が生じたのは偶然であるとし、「自ら罪業の報によりて、彼が名を虫にまで負せて、常元が悪事いひつたへて、話柄とするも因果のことわりおそるべし」と結んでいる。
  
   因果応報に付会することが悪いというのではない。事の本質を巧妙に外して、中途半端な説明によって納得しようとするところが不満なのだ。
  
   近世の江戸でも河童の噂は絶えなかったらしい。山崎は「江戸にては川水に浴する童などの、時として、かのかつぱにひかるることありし。などいふをきけどいと稀にて、そのかつぱといふものを、たしかに見たるものなし」と、ひとまず疑念を抱いているが、さらに、実際に耳にした話を次のように挙げている。
  
  >畠の茄子の一つ一つに歯型三四枚ずつ、残らず付いていたことがあると畠の主から聞いた。河童の執念は恐ろしく、筑紫の仇を江戸へ来ても果たされたようで、怪しいことが起きるとも聞いたことがある。また、越後の国蠣崎の辺りでのことだとか、ある夏のころ、農家の子供が家の中で遊んでいたところ、その友だちの子が来て、川辺へ出て水浴びをしようと誘う。一緒について行くと、その誘いに来た子の親がほどなく入って来た。家主が、「ちょっと前にそちらのお子さんが遊びに来たよ」と言ったので、「いや、息子は風邪を引いて今朝から家で寝ている。不思議なことだ」と言い合ったという。後で聞くと、河童が子供に化けて誘い出したらしいというのだ。さらに、上総の国でも、ある家の子供を、友だちが来て川辺で遊ぼうと呼び出しに来た。そこで、その母が「川辺に行くなら、仏壇に供えた飯をまじないに食って行け」と言い付けたところ、友だちは「そんならいやだ」と言いながら、走って逃げたという。〈同、122~123ページ〉
  
   山崎は、上総の例を「これもかつぱにてやあらん」と一旦は認めながらも、「先祖まつりは厚くすべきことといへるとかや」と、俗習の背景に河童を結び付けて理解しようとした。それで、河童自体をどう考えているの、と突っ込みたくなるが、今でも解決されているとはいえないのだから、当時の知的水準として無理もないであろう。
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (134)王朝物語の「御簾」 2015/05/18
  

   平安貴族社会では、成人した男女は御簾(みす)で隔てられ、直接顔を見ることができませんでした。『源氏物語』桐壺巻で、光源氏の成人後、義理の母・藤壺とは御簾越しにしか会えなくなってしまい、とても悲しく残念に思う場面があることはご存じでしょう。
  
  >(光源氏が)大人になりたまひて後は、ありしやうに、御簾の内にも入れたまはず、御遊びのをりをり、琴笛の音に聞こえ通ひ、ほのかなる御声を慰めにて、…(桐壺巻)
  
   成人前は御簾の中に入れてもらい、亡き母そっくりの藤壺に慣れ親しむことができたのに、成人後は藤壺の弾く琴に自分の笛の音を通わせたり、かすかに漏れてくる藤壺の声を日々の慰めとしたとあり、光源氏のもどかしい気持ちがよく伝わってきますね。
  
   『伊勢物語』64段に、「吹く風に わが身をなさば 玉すだれ ひま求めつつ 入るべきものを」という歌があります。男がある女に対して贈った歌で、自分が風だったら御簾の隙間を探して入ることができるでしょうに、という意味の歌です。御簾の端から入るということでしょうが、風に変身して、御簾の小さな編目から透明人間のように入り込めたらいいなと願う男の姿を想像してしまいます。
  
   風が御簾を捲し上げるという場面が『うつほ物語』にあります。
  
  >(いぬ宮が)簾のもとに何心なく立ちたまへるに、風の簾を吹き上げたる、立てたる几帳のそばより、傍ら顔の透きて見えたまへる様体、顔、いとはなやかにうつくしげに、あなめでたのものやと見えたまふを、(楼の上上巻)
  
   御簾が捲れあがり、物語最終巻のヒロイン・いぬ宮の美しさが露わになります。風のちょっとした悪戯で、物語は更なる展開を見せそうですが、これ以上話は進展しません。『源氏物語』若菜上巻では、六条院での蹴鞠遊びの折、光源氏の正妻・女三の宮の飼っていた唐猫の首紐が絡まって御簾を引き上げ、端近にいた女三の宮が、貴公子・柏木によって垣間見されます。もともと女三の宮に好意を抱いていた柏木は、その後約六年にわたって女三の宮を想い続け、密通に至るのです。
  
   さて、『うつほ物語』のいぬ宮にまつわる表現で、御簾が関わる例がもう一例あります。楼の上下巻に「いぬ宮、玉虫の簾より透きたるやうに、あなめでたと見えたり」とあります。いぬ宮の美しさを単に光り輝くという表現にせず、玉虫が御簾から透けて見えているようで美しいと表現しました。「玉虫厨子」で有名な玉虫ですが、「玉虫」の文献上の初出は、『新撰字鏡』(9世紀末~10世紀初頃)の「〈虫+憂〉 玉虫」で、王朝物語では、『うつほ物語』にこの場面を含めて2例あるだけです。
  
  >いかめしき木の陰、花紅葉など、さし離れてたまむしの多く棲む榎二木あり(国譲中巻)
  
   「玉虫の簾より透きたるやうに」――翡翠色や金色を核としながら色々に、それこそ玉虫色に輝くような美しさのいぬ宮。そのいぬ宮が御簾から透けてほのかに見える様は、本当に美しいですね。
  
   御簾の文化は、本質を内に隠す、あるいは包むという日本文化の特質に合致したものと言えましょう。電飾で昼夜を問わず明るい世界で、露出の多いファッションが流行る現代には、御簾越しに相対する男女のドラマはありえない設定に感じられるかもしれません。
  
  

  (し)
  

  
  

  ### (133)江戸の珍談・奇談-(15) 2015/04/30
  

   前回の字謎の正解は、「一」という漢字である。なぞなぞの文言どおりに書いてみればすぐに知られよう。
  
   話頭を転じて、かのヘレン・ケラーも私淑していたという盲目の大学者塙保己一(はなわほきいち)の畢生の大事業『群書類従』1273種530巻666冊が完成したのは、文政2年-1819-保己一74歳の時であった。編纂・刊行を決意してから実に41年後のことである。
  
   さらに、保己一は『続群書類従』1885冊を編纂したものの、生前には世に出ることはなかった。保己一の死後100年余を経た1922年、国書刊行会を前身とする続群書類従完成会が設立され、『続群書類従』の出版事業がようやく始まる。続群書類従完成会が2006年9月に倒産した後、2007年6月からは八木書店に引き継がれ、現在も継続している。まさに、出版界のサグラダ・ファミリアだ。
  
   保己一にまつわる逸話は数多い。自身が設立した和学講談所で『源氏物語』の講義をしている折、突然吹き込んだ涼風に蝋燭の火が消えたことがあった。辺りが暗くなったことを知らない保己一はそのまま講義を続ける。弟子たちがあわてて中断を申し入れたところ、保己一は「目あきというのは不自由なものじゃ」と冗談を言ったという。尋常小学読本にも採録されたこの有名な話はどなたもご存じだろう。
  
   ここでは、山崎美成『三養雑記』中にある「塙検校小伝」から一話を紹介しよう。
  
   保己一は延享3年-1746-5月5日の生まれである。当時、5月5日に生まれた子は親に祟ると言い伝えられていた。『史記』孟嘗君の故事である。この日に生まれた子は背丈が戸口の高さに等しく、父母に利あらずという。また、他書にも5月5日に生まれた男子は父を殺し、女子は母を害するという俗説が見られる。だが、保己一は盲人ながら家を興し、子孫が栄えたのだから、それが単なる迷信であることを証明したのだ、と山崎はある人の談を挙げている。
  また、以下は、保己一がいかに博覧強記であったかを如実に示すもので、山崎が屋代輪池(弘賢)から親しく聞いた実話である。因みに、屋代は保己一から国学を学び、『群書類従』の編纂に携わるとともに、和学講談所の会頭をも勤めていた。
  
  >浅草に山岡明阿(みょうあ)の門人で、片山足水(たるみ)という人があった。足水はかつて宸翰の御願文を一葉蔵していたが、太上天皇とだけ署名があり、花押がない。それで、長年来どの御代の天皇なのか定めかねつつも、端正な書風だから模写して人にも配っていた。ある時、輪池翁の講席上のこと、例の宸翰を話題にしたところ、同席していた塙検校が、「どのような文体なのか」と問うた。そこで、輪池翁が座右にあった摸本を取り出して、初めから読み下していくと、「廷禁(ていきん)の闕(けつ)宸居(しんきょ)動くことなく、姑射(こや)の山万寿(ばんじゅ)騫(か)けず」という文に至って、検校ははたと手を打ち、「分った」と笑みを含む。「これは、花園帝の宸翰である。その理由は、花園院が上皇になられた時、伏見院がまだ仙洞御所にいらしたので、伏見院を姑射と称し、当今を廷禁の闕と記されたのだ」と、こともなげに解説したという。〈『日本随筆大成』第2期6「三養雑記」巻之三、115ページ〉
  
   『源氏物語』講読中の逸話より地味で一般受けはしそうにない。だが、こちらの方がずっと真実味があり、こんなことが日常茶飯事だったのであろうと想像させる。保己一は7歳の時失明した。和尚や家族の話を一語一句誤りなく再現したほど抜群の記憶力を持っていたとはいえ、耳からの情報だけで万巻の書に目を曝したに等しい学識を備えるに至ったのだから驚嘆するほかない。
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (132)樹下で泣く女性 2015/04/20
  

   『丹後国風土記(逸文)』では、「奈具(なぐ)の社(やしろ)」にまつわる羽衣伝承を伝えています。
  
   昔、丹波の郡にある比治山の頂に「真奈井」という泉があり、そこに八人の天女が舞い降りて水浴びをしていましたが、一人だけ和奈佐の老夫婦に衣装を隠され、天に戻ることができませんでした。子どものいない老夫婦に娘になってほしいと懇願され、天女は人間界に留まり、老夫婦と暮らします。一緒に暮らすこと十年余、天女は、一杯飲んだけで万病が癒えるという酒を醸して、老夫婦の家を豊かにしましたが、老夫婦は「汝は吾が兒にあらず。(お前は私の子ではない)」と言って追い出してしまいました。このあたりは、小川未明の「赤い蝋燭と人魚」(大正10年)を思い起こさせますね。
  
   さて、人間界に長くいたため、天女はもはや天に戻ることができません。天女は比治の里を出てゆき、彼方此方の村々を流離いますが、哭木(なきき)の村に行き、「槻の木に據りて哭きき」――槻の木に凭れて泣きます。その後、舟木の里の奈具の村に至り、「我が心なぐしく成りぬ(安らかになりました)」と言って、この村に留まったそうです。最後は天女が村人たちによって豊宇賀能売命(とようかのめのみこと)として祀られたという、奈具神社の縁起となっています。
  
   天女は槻の木によりかかり泣いた後、心に平穏を取り戻し、奈具神社の祭神となったのですから、「槻の木」には心を癒す力がありそうです。
  
   樹の下で嘆く女性で思い起こされるのが、『源氏物語』の浮舟です。自死を決意した浮舟は、宇治川に身を投げようと決意しますが、死ぬことができず、宇治院の「森かと見ゆる木の下」でうずくまっているところを、横川の僧都らによって発見されました。
  
  >(浮舟の)髪は長く艶々として、大きなる木の根のいと荒々しきに寄りゐて、いみじう泣く。
  
   その後、浮舟は横川の僧都や妹尼によって助けられ、出家します。出家によって心の平安が得られたとは言い難いのですが、浮舟は死ぬことなく生きたまま物語が終わります。
  
   樹下にうずくまり泣く浮舟が、「奈具の社」の天女と重なります。どちらも樹木に凭れかかって泣く姿が印象的です。一方は天女で神として神社に祀られ、一方は生身の人間で出家し仏道修行に励みました。
  
   樹木は、ミルチャ・エリアーデが言うように、天・地・地下を結びつけていることから、他界との交通が可能になる場所であり、境界を示すものです。また、「死と再生」の象徴ともされます。
  
   仏教の世界では、無憂樹・菩提樹・沙羅双樹など樹木は釈迦の生涯と関わります。

  ・無憂樹――釈迦の母摩耶夫人が藍毘尼園においてこの木の花を摘もうとしたとき、釈迦が右脇から生まれました。

  ・菩提樹――釈迦がその木の下で悟りを開いたとされる樹木です。

  ・沙羅双樹――沙羅双樹の下で、釈迦は八十歳の生涯を終え涅槃に入ります。沙羅双樹は、釈迦の横たわる四方に植えられた二股の樹で、釈迦が亡くなるといっせいに白く枯れてその遺骸を覆ったそうです。
  
   天女も浮舟も樹下で生きていく力を得たのかもしれませんね。
  
  

  (し)
  

  
  

  ### (131)江戸の珍談・奇談(14) 2015/03/31
  

   『徒然草』第135段に古来意味不明とされる個所を含む文章がある。
  
  >資季(すけすえ)大納言入道が若い具氏(ともうじ)宰相中将に会って、「何でも答えてやるから言ってみろ」と挑発する。具氏は、「専門的な事柄は学んでいませんから、伺うまでに至りません。つまらないことの中で分からないことをお尋ねしましょう」と謙虚に言った。資季は図に乗って「卑近なことならなおさらだ。どんなことでもお答えしよう」と胸をそらす。周囲で聞いていた女房たちが、「どうせなら御前で決着をつけたらいいでしょう。負けたほうが奢るのですよ」と、火に油を注いだため、事が大きくなってしまう。具氏が幼い時から耳にして意味の分からない謎を問いかけると、資季は答えに窮し、「そんなくだらないことは取り上げるまでもないことだ」と強弁したものの、具氏が「学問上のことではなく、こういうくだらないことをお尋ねしてよいとお約束しました」と畳みかけた。資季の負けは言うまでもない。ご馳走をたっぷり振る舞う羽目になったという。
  
   さて、その謎であるが、「むまのきつりやうきつにのをかなかくぼれいりくれんとう」というものだ。この解について、様々な説が古来出されている。中でも出色の説を紹介しよう。
  
   『徒然草』から約450年後の享和元年-1801-に成った『閑田耕筆』(伴蒿蹊著)では、こう説明している。まず、「馬のきつ」を「馬」の語を取り除く「除きつ」の意とする。次いで「りやうきつにのをか」の9文字のうち、「り」と「か」を除く中の7文字を取り除けるのが「中くぼれいり」である。末尾の「ぐれんどう」とは顚倒のことだから、残った「りか」を逆さまにして「かり(雁)」となるというものだ。
  
   「中くぼれいり」を中にある文字を除去するという意味に解したのだが、ここがちょっと引っかかる。伴自身も「いひまぎらはしたるなり」と苦しい説明をした。だが、『山海経』だの何だのと難しい漢籍を引いて解こうとするものに比べれば、よほどすっきりしている。山崎美成『三養雑記』にも「閑田耕筆に解きたるを併せて明解といふべし」(巻之一、『日本随筆大成』第Ⅱ期6所収、81ページ)と評価し、江戸期の児童が弄ぶなぞなぞから同趣の例を引いてくれている。すなわち、「厠(かわや)のわきにて、狐こんと啼く、それは空言(そらごと)よ。耳のなきみみづくがもんどりをうつ」というものだが、「厠のわきにて、狐こんと啼く」までは「空言よ」とある通り、意味がないというのだから略してよい。「耳のなきみみづく」は「みみづく」から「みみ」を引き去る。すると「づく」となるから、それを「もんどりをうつ」、つまり顚倒すれば「くづ(屑)」となるというわけだ。
  
   安良岡康作『徒然草全注釈』には、伴説の驥尾に付して、「中くぼ」を「きつにのをか」のうち「つにのを」4文字を除くことだとし、残る「きか」2文字に、「れいり」を「れ入り」として「きれか」とする。それがひっくり返れば「かれき(枯木)」となるという新説が紹介されている。この妙案は、安良岡の助手を務めていた妻女が発案したものだという(全注釈上巻564ページ下段)。
  
   具氏宰相中将の時代から意味が分からなくなっていた謎である。現代人に解明しようもなかろうが、挑戦してみるのも面白いだろう。
  山崎はまた、かつて聞いたことがあるとしながら、「こばたひつくりかへして七月半」を「たばこぼん」、「雀が利を持ちながら目をぬかれ、されども子をば羽の下にあり」を「硯ばこ」などの例を挙げてくれた。「こばた」をひっくり返して「たばこ」、「七月半」だから盆である。「雀」が「利」を持つと「すずめり」、「目」を抜かれて「すずり」、さらに「子をば羽の下」に置けば「ばこ」だから、合わせて「硯箱」となる。
  
   いかにも時間の流れがゆったりとした時代の悠長な言葉遊びである。それでは、ここで『後奈良院御撰何曾』(永正13年-1561-)から一つ問題を差し上げよう。「上をみれば下にあり、下をみれば上にあり、母の腹を通りて子の肩にあり」これ何だ。答えは次回に。
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (130)『琴操』「別鶴操」と歌徳説話 2015/03/13
  

   古代中国の琴曲に「別鶴操」という曲があります。後漢の蔡邕(さいよう)の撰と伝えられる『琴操』(きんそう)の中に、「別鶴操」の曲の由来が載っているので、ご紹介しましょう。
  
  >「別鶴操」は、商陵の牧子の作る所なり。牧子妻を娶ること五年、子無し。父兄、爲(ため)に改め娶らんと欲す。妻之(これ)を聞き、中夜驚き起く。戸に倚(よ)り悲嘯(ひせう)す。牧子之を聞く。琴を援(ひ)き之を鼓して云(い)はく、「恩愛の永く離れることを痛む。別鶴を歎き、以(もつ)て情を舒(の)ぶ。」と。故(ゆゑ)に「別鶴操」と曰(い)ふ。後に仍(すなは)ち夫婦と爲(な)る。
  
   牧子は妻を娶って五年経ちましたが、子どもがいませんでした。そこで、牧子の父母が新たに妻を娶らせようとしたのをこの妻が聞き、夜中に起きて鶴の鳴き声を聞いて、戸に倚りかかって悲しみます。牧子は妻の泣き声を聞いて悲しみ、琴を弾いてうたったのが「別鶴操」という曲です。お話の最後に、牧子がこの曲を歌ったことで、「後に仍ち夫婦と爲る。」とあり、どうやら別れなくても済んだようです。
  
   両親が、息子・牧子の深い悲しみを目の当たりにし、許してくれたのでしょうか。その辺のことが書かれていないのが、残念です。妻と引き裂かれる哀しみをうたった歌は、親の頑なな心を軟化させます。歌の力ってすごい、ですね。
  
   さて、『琴操』にしては、珍しくハッピーエンドになっていることが注目されます。『琴操』には、約50の古琴曲の作者や由来、歌辞(歌詞)が記されていますが、たいていの場合、悲劇的な結末になっています。もしかしたら、「別鶴操」の最後の一文は、後世の付け足しで、子のない妻と別れさせられて、牧子は悲嘆にくれ哀しみの歌をうたったというのが原型かもしれません。
  
   崔豹(さいひょう)の『古今注』(『楽府詩集』巻五十八「琴曲歌辞」所収)では、「別鶴操」について『琴操』とほぼ同じ内容を紹介し、歌辞「將(まさ)に比翼に乖(そむ)き天の端を隔て、山川悠遠、路漫漫、衣を攬(と)り寢(いね)ず、食飱(くら)ふを忘れんとす」を載せていますが、「後に仍ち夫婦と爲る。」はありません。哀しみの歌で終わっているのです。
  
   歌を詠むことによって、問題が解決したり、置かれた状況がよくなる話を「歌徳説話」と言いますが、『伊勢物語』第5段(関守)や第23段(筒井筒)が有名ですね。第5段では男が歌を詠んだことで、女との交際を女親が許してくれますし、第23段では女が歌を詠んだことで、夫は新しい女のところへ通うのをやめて戻ってきてくれますよね。
  
   『琴操』「別鶴操」の「後に仍ち夫婦と爲る。」の直前に、歌辞「將乘比翼隔天端。山川悠遠路漫漫。攬衣不寢食忘飱。」があると、完璧な歌徳説話と言えましょう。
  

  (し)
  

  
  

  ### (129)江戸の珍談・奇談(13)―5 2015/02/16
  

   鶯は宮中のような高貴な場所には訪れない。『枕草子』の作者清少納言はそう言っている。宮中で鳴かないと言われてから十年ほど宮仕えを経ても、やはり一向に聞こえなかった。だが、一方でみすぼらしい家の何の見どころもない梅の木にはうるさいくらい鳴くと言って、少々癇癪を起している。
  
   梅に鶯という取合せがいつから始まったか知らない。花札のような典型が人間の身勝手によって野生動物に通用すると思ったら大きな間違いだ。第一、花札にあるような梅の枝にとまる鳥は本来メジロだともいうではないか。
  
  >穂積氏の老母昌貞尼は、京の高台寺に隠居していた。風流心が世に勝れ、文人墨客が門に満ちている。前庭を柴の生えたまま置き、世人は「取り残しの柴」と呼んだ。蝶の来るのを待つのである。その庭園に毎日鶯が訪れるのを喜び、梅がなくてはならぬと言って、洛東に求めたけれども、思い通りの古木が見つからない。ようやく嵯峨に老いた巨木を探し当て、多額の費用を投じて庭園に移植したところ、梅を植えたその日から鶯は来ずじまいになってしまった。〈『雲萍雑志』巻之一、『名家随筆集 下』123ページ〉
  
   伊勢神宮の祭主を勤めた大中臣輔親は、天橋立を模して池の中島に小松を植え並べるなど、邸の庭に数奇を凝らした風流人であった。ある初春のことである。毎日決まった時にやって来てさえずる鶯を愛で、当代の歌人を誘う。宿直の伊勢武者には音を立てて鶯を逃がさないよう言いつけておいた。人々は鶯の声を今や遅しと待つが、一向に鳴き声が聞こえない。そこで、輔親が武者を呼び出して事情を問うと、ご命令通り逃がさないように射落して枝に結び付けてあると言って、得意げに見せる。風流を解さない興ざめな田舎武士の愚行には一同言葉を失った。
  
   『十訓抄』〈七ノ三十〉にある話である。昌貞尼は、腕づくで鶯を捕えようとはしなかったものの、梅の古木に誘導してとまらせようとした。風流心があるようで欠けている点では伊勢武者と何ら変わりがない。
  
   『雲萍雑志』には、茶道を題材にした話がしばしば登場する。当時の風流人といえば、茶人にまず指を屈したのであろう。
  
  >茶道を好む者が、他流派の手前をも弁え知らず、自分の学んだ流儀だけを心得、これこそわが流派になくてはならぬ品だと、無益な茶器を高額で求めて飾っておくのは、古道具屋に等しい。見るも煩わしいだけだ。利休居士も「高額の器物を愛玩するのは、心が利欲に走っているためだ。欠けた擂鉢だって一時の間に合う物とするのが茶道の本意である」と言っている。「数奇屋咄」という書にもこんな話がある。主人が住居と道具を自負し、客に頼んで言うには、「私の好む数奇屋の中で、何でもかまわないから、無粋な物があれば、仰せに従って省くつもりです。少しも遠慮されず、言ってください」と自慢げに言ったので、客は阿諛することのない人だったから、「家といい器といい、行き届かない物はありませんが、ただこの中でそなたお一人なかったなら、風流雅境これに過ぎたことはありますまい」と言った。〈同巻之二、155ページ〉
  
   作者が「こはいとおもしろき諷諫なり」と結んだとおり、風流人を自認する者に対する痛烈な皮肉である。主人が不要だと言ったのは、これ見よがしに置かれた器物に風流はないと暗に当てこすったのに相違ない。本当の風流は、具眼の士にだけ察知してもらえばよいのだ。
  
  >藪内紹智(やぶのうちじょうち)がかつて士明(しめい)という名高い香炉を手に入れていた。朗干(ろうかん)法師が訪れた際、それを火活けとして出した。朗干師は撫でたりさすったりして香炉のすばらしさを褒めちぎる。ある時、再び来訪した朗干師が香炉をつくづくと見て、これほどの名器をなぜ火活けなんかに使っているのか、と問うと、紹智は笑って、「この器は火活けとして使っておりますから、貴僧の目に付いて惜しまれたのでございます。香炉として床の間に置いたら、それほどには思って下さらないでしょうに」と言った。〈同巻之三、180ページ〉
  
   藪内紹智は、織豊時代から江戸時代初期に活躍した者を初代とする茶道の師匠の名で、ここは何代目か不明。話中、朗干法師がわざわざ手に取って見るに違いない火活けとして香炉を用いていた。朗干が本物の風流人なら、床の間にあろうと香炉の価値に気付くはずだ。紹智には人を試そうという底意が見え透く。ただし、この話の結びは「この詞、人のうへにも通ひて、いとおもしろし」としている。さらに人世への省察を促そうというのだから、風流と人心との関係からは外れよう。ともあれ、作者は、形ばかりを繕う似非(えせ)風流人を嫌い、事あるごとにこうして批判の矛先を向けるのである。
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (128)江戸の珍談・奇談(13)―4 2015/01/30
  

  >比叡山飯室谷(いいむろだに)にある松禅院に、一人の老爺があった。坂本の生まれで、農夫の子であったが、父母に先立たれ、14歳の時以来この寺に住居し、今年96歳だという。実際会ってみると、背が高く、耳も目も衰えず、歯も欠けていない。大変たくましい偉丈夫である。他所へ出る時には、必ず握り飯を持参し、他所の物を食べない。通常2日かかる用事を1日で済ませてしまう。この寺では余人をもって代えがたい人物である。時に、院主に300貫(1貫が960文、江戸後期で30両に相当)の借財があったため、移転することができないでいた。すると、この老爺が笑いながら、働いて借財を解消してみせるから2年辛抱してくれと言う。院主は、老人の言葉だから、表面上は有難がって見せたが、内心は侮っていた。それから老爺は、不毛の地には物を植え、山林の下草を刈っては市場に売り、夜は縄を綯(な)って莚(むしろ)を織る。こうして昼夜別なく働くと、3年後、300貫の借財はきれいに清算され、院主を太秦へ移転させることができた。院主は移転に伴い、かの老爺の多大な貢献に謝するため、一緒に伴おうとしたが、この山に80年も住み慣れているから、他所へ行くつもりはないと老爺は頑として承知しない。仕方なく院主は多くの謝礼を贈ったにもかかわらず、それも謝絶して言うには、「院主様は物がなければ人を済度することはできません。だが、わしは財を持っていたって、人の教化もできない。不用の財はあっても益がないのです。身を終えるまで食料以外何を望みましょうぞ」と言って、さらに後任の院主にも篤実に仕えたという。〈「雲萍雑志」巻之四、『名家随筆集 下』210~211ページ〉
  
   まさに地に足の着いた生き方だ。院主の借財がどこから来たかには全く関心がない。原因はどうあれ、その解決に邁進する。さらに、その働きに対して何らの報酬も受けない。受けてしまえば自分の生き方や哲学を自ら否定することになるからだ。
  
  >昔、和泉国に豪商がいた。囲碁を好んだため、その道で世を渡る者が諸所から出入りする。中に近江国で諸侯に仕えていた某は、人の讒言によって身を退くと、国を去って堺で手習いの師匠をしながら口に糊していた。折ごとに豪商の家へ来ては囲碁の相手をしていたが、ある時、その家の手代が金50両を紙に包み、得意先から利金として得たものだと言って、碁を囲んでいる主人に渡した。ところが、主人は、「そこへ置け。あとで確かめる」と生返事をするだけで、碁に熱中している。碁敵が帰った後、再び手代が金のことを申し出ると、主人は受け取った覚えはないと言う。手代は確かに渡したと言って争いになる。金はどこにあるかわからない。手代が持って来たところまでは覚えがあるが、手に取っていないからいよいよ不審である。「あの時にやって来た者はない。居合わせたのは手習いの師匠猪飼(いかい)某だけだ。あの人は金に目が眩むような人ではないが、人間は貧困に陥ればふと過ちを犯すこともあるかもしれない」と言うと、手代も同意し、それとなく某に聞いてみることとなった。主人と碁を打った時に傍らに置いた金が紛失したこと、ひょっとして取り違えでもして、持ち帰られたのではないか、と用心深く尋ねる。すると、某はうなだれて、「流浪の身の悲しさ、大金に目が眩んで、人知れず持ち帰った。申し訳ないが、表沙汰にはしないでくれ。夜が明けたらその金を調えて返すつもりだ。今しばらく待ってほしい」と言うので、帰参した手代がその旨報ずると、やはりそうだったかと主人も一驚する。それから10日後、金50両を持参して詫びに来た某は、帰宅すると一人娘を連れていずこともなく失踪した。豪商宅では、人は見かけによらないものだと爪はじきをして某を謗っている。そして、その年の暮れ、煤払いをしていると、座敷の長押(なげし)から反古に包んだ金50両が落ちて来た。改め見るに、手習いの師匠を疑った時の金に間違いなかったから、皆顔を見合わせて訝しがる。だが、師匠の行方は知れない。是非なくそのままで年月が過ぎて行く。5年経た頃、尾張から来た商人が堺の問屋の店先で猪飼某の行方を尋ねる。金を盗んで逐電した由を問屋が伝えると、その商人は、「その金は某が盗んだのではない。私はその師匠の娘に会って詳しく事情を聞いた」と言う。さらに、京の島原へ行った時、江口という太夫を呼んだが、それが某の娘で、豪商へ返す金のために身売りをしたのだと語った。傍らで聞いていた豪商の手代が主人に報告すると、喜んだ主人は、京へ出向き、江口を身受けするとともに、師匠に丁重な詫びをいれるよう手代に命じる。娘から父は郡村という所で小作をしながら生計を立てていると聞いた手代が某の許を訪れる。鋤を携えて野に立っている某に主人から託された詫びを述べ、あの時どうして盗んだのではないと言わなかったのか、と問う。猪飼が言うには、「人の疑心は言葉で解くことはできない。自分が疑いを受けた上は、どんなことを言っても許されないのが人情というものだ。その時の疑心は後に晴れるに違いなかろう。だが、当面の心持はどうすることもできない。だから、娘を売って調達したのだ。士は不義の物を受けず。況や金銭に於いてをや。その方、私に会ったなどと言ってくれるな。早く立ち去るがいい」と言い遺し、再び畑に向かう。あれこれと詫びの言葉を尽くして金を返そうとするが、某は一切受け付けない。京へ戻り、人を介してさらに詫びを入れたものの、「娘の身受けも、豪商らのような卑しい志の輩には許しがたい」として聞き入れなかった。返された金には一指も触れず、生涯この村に老いを養って終わったという。〈同巻之二、130~134ページ〉
  
   「士は不義の物を受けず」とは心地よい。手習いの師匠となる前の猪飼某が私心なく廉潔な志をもって諸侯に仕えていたことがこれで知られる。不義の金を懐にしていながら、次の選挙で直ちに当選してしまうような輩に猪飼の爪の垢でも煎じて呑ませてやりたいものだ。
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (127)江戸の珍談・奇談(13)―3 2015/01/13
  

  >淇園の交際していた人の子に兄弟が常に争う者があった。兄は砂糖を商い、衣食に奢って懈怠したため、儲けもなく貧しかったが、弟は塩を商い、粗衣粗食に甘んじながら勤勉であったため、家が富み栄え、何不自由なかった。弟の富裕を頼み、その兄が常に金の無心をする。だが、倹約などどこ吹く風、すぐに費消してしまい、弟に借財を乞うが、とうとう弟も承知しなくなった。そこで、兄が淇園を訪れ、「貧しい兄を助けてくれないなんて、赤の他人にも劣る奴だ。もう商人はやめて武士になりたい」と言う。そんな卑しい根性で武士になったら、どんな危難に遭うか知れたものでないと考え、淇園は工夫をめぐらす。「弟の支援が欲しいのなら、私に秘密の芸がある。能の狂言のようなものだ。教えに従う気があるなら、一家を立てられるにちがいない。もし稽古に怠ったら、身を亡ぼすことになろう。師弟の約を契って、この芸を習ってみないか」と持ちかけると、兄は承知し、そのまま師弟となった。翌日約束通りやって来たため、温袍を取り出して兄の着ていた小袖と着替えさせた。「装束が身に慣れるまでその姿で過ごすように。板に付いたら授ける芸がある」と言って、布衣(ふい)の姿に整える。ところが、月日が過ぎても、衣類がまだ身に付いていないと言って、芸を授けない。一年過ぎたころ、兄が粗衣のまま過ごしているのを弟が喜んで、これで家を保つことができると賞美し、淇園のもとにその旨を報じる。そこで兄に「質素な生活をし、しばらく贅沢を止めていれば、求めなくとも財はやって来るものだ。出精せよ」と戒めた。兄を憐れんだ弟が多くの財を贈ってやると、ますます固く倹約したから、家を再興することが出来、弟にも劣らぬ富裕者となった。〈『名家随筆集 下』、152~154ページ〉
  
   人を更生へと導くのに、その人の持つ力を内発的に発揮させられるというのは、優れた教育者の資質を備えているといってよい。淇園の用いた方法は見事なものだ。
  
  >淇園が江戸にいたころ、親しく交わる友があった。雞黍(けいしょ)の約を結ぼうと求めて来たので、承諾してから、その志が本物かどうか見ようと思い、ある時、食客を養うことを口実に25両の借財を申し込んだ。その人は快く引き受け、自ら持参した。さらに年末に至って、手許不如意につき25両貸してくれと頼むと、何も言わずに貸してくれた。そのまま3年過ぎたが、金のことは一言も言わず、以前と変わりなく親しく交わっている。その人は、病気となって多額の金が必要となった時にも、少しも顔色に出さない。妻が50両の金を借りておきながら7年も返さないとは、騙すつもりなのだとなじっても、その人は「あの人に人を欺く心はない。乏しいから返せないのだ。刎頸の交情は婦女子の知ったことか。二度とそんなことを言ったら離縁する」と憤ったので、その後妻も口に出さなくなった。このことを聞いて、ないものはないのだから、返すことのできないことを悔いていると人づてにその人の耳に入れる。しかし、その人は「人が不実をなしたからといって、絶交するのは知己親友とは言えない。欺くのも不実もその時の是非なき次第である。世の中に初めから虚偽を構えて人に交わろうという者はない。その偽ることと欺くこととを許さなかったら、知己親友と言えないではないか」と淇園の言葉に応じた。それを聞いて直ちに、借りたまま封を解かずにおいた金をその人に返し、「私は君の心を試したのだ」と言って、ますます厚く交わるようになった。〈同、201~201ページ〉
  
   管鮑貧時の交わりを地で行くような話だ。現代では、金がからめば、親友といえどもなかなかこうはいくまい。それにしても、金によって人心を試そうというのだから、人が悪い。淇園は食えない男である。先程優れた教育者と評したが、こちらの評価と両立するだろうか。
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (126)江戸の珍談・奇談(13)―2 2014/12/30
  

   『雲萍雑志』の冒頭、序に次ぐ「柳沢淇園伝」によれば、淇園は「文学武術を始めて、人の師たるに足る芸十六に及ぶ」という。中でも絵に長じ、殊に人物の彩色に優れ、水に浸し力を込めてもみ洗いをしても落ちないと賞された。
  
  それほどであるから、絵に関して人から問われることもある。「絵に魂を入れるということは、どんな方法で描けばよいのですか」と問われたことがあった。これに対して淇園は次のように答えている。
  
  >すべて絵に限らず何事においても誠心を込めて行えば、魂が入らないということはない。絵に魂が入ったという例としては、諸国に名画の多い中で、泉州堺にある一国寺の絵が挙げられよう。この寺は利休もしばらく滞在し、数寄を凝らして庭園座敷五間ほどを造った。一間には檜一本を描き、一間には臥した鶴25羽ばかり描いてある。いずれも彩色され、狩野元信の筆と伝えられる。昔、この絵を描いた画師が寺に寓居すること3年、何一つ描かず毎日碁を打ってばかりいた。ある時住持が言う。「そなたは画師として一家をなすといいながら、筆を取ったこともなく、囲碁にばかり日を送っているではないか。衣食の費用を惜しむというのではないが、私も所用があって京へ上り、事によっては一年以上在京しなければならぬかもしれん」かの画師これを聞いて、「それは名残惜しいことです。それなら年来の感謝のしるしとして何か絵を残しましょう」と言ったが、筆を取らぬまま4・5日が過ぎてしまう。ある夜、画師の部屋を覗いた小坊主が住持に何事か告げに来る。小坊主の後について画師の居室を窺うと、明かり障子の腰板に身を寄せて様々な姿態を演じている。翌朝早く起き出した画師が一間に描いた物は、みな臥した鶴であった。筆の勢いは凡庸でなく、丹青の妙は筆舌に尽くしがたい。次の夜はどうかと覗き見ると、こうしようか、ああしようかと、独り言を終夜呟いている。10日余りで、その鶴が34・5羽に及んだ。また夜が更けて窺うと、今度は肘を張り、脚を伸ばし、手を口に当てて臥す鶴の姿を見た。翌朝画師のもとへ至り、今日描こうという鶴はこうでしょうと言って、昨晩見た画師の姿を真似て見せる。今日描こうとする意匠を言い当てられてぎょっとする画師にこっそり覗いた由を告げると、画師はそれ以上鶴を描かず、檜一樹の絵を残して立ち去った。ところが、この檜を描いた後、東海道箱根の山中で、意に適った木の枝が見つかったため、東国へ下らないまま引き返し、再び一国寺へ戻った。画師の姿を見て驚いた住持に、先に描いた檜の枝に一枝足らぬ所があったが、箱根で恰好の枝を見つけたから、わざわざ立ち戻ったと言いつつ、画師は一枝書き添えて立去ったという。絵に魂を入れるとはこういうことだ。〈有朋堂文庫『名家随筆集 下』197~199ページ〉
  
   絵師が鶴の姿態を真似し、覗かれて立ち去るという取り合せが、鶴の恩返しのようで面白い。しかも、箱根から堺まで戻って檜の枝を書き添えたというのだから、まさに入魂の芸術だ。この手の伝説には逆転が必要で、必ずといっていいほど始めに怠惰な芸術家が登場する。周囲からばかにされ、そろそろ危機に陥るといったところで、優れた絵などを残して飄然と立ち去る。これで爽やかさとともに痛快な印象を残すことになる。
  
   ところで、文中の一国寺は現在大安寺と称する。また、画師は元信でなく、その孫である永徳だと伝えられる。透き見をされて描かずに去ったという伝説も、実際には全部描いたらしい。絵に適う檜の枝を見出したのも箱根ではなく、木曾の山中だと一般に伝わっているが、事実は寺の正面にある松の木だという。桶狭間の今川義元の墓に差しかかっていた松を永徳が心覚えに描いたもので、書き上げてから後に桶狭間へ行ってみると、根方の小枝が一本足らないため、戻って来て書き加えたと伝えている由。これは五十嵐力『甲鳥園(かもぞの)随筆』〈大正13年4月、銀鈴社〉によって知った。五十嵐が当地を訪れ、大安寺住職の奥さんから直接聞いた話である。
  
   この随筆には、同じ寺の本堂にある刀疵の付いた柱にまつわる逸話があるから追加しておこう。
  
  寺の普請が出来上がった時、普請があまりに備わって何一つ欠点のないのを見て、名茶器平蜘蛛とともに爆死したと伝えられるかの松永弾正久秀が、十全は却って不吉だから、まじないに少し疵を付けようと言って、一太刀見舞ったのだという。「すべてなにもみな、ことのととのほりたるは、あしきことなり」〈『徒然草』第82段〉と兼好法師も言っている。
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (125)江戸の珍談・奇談(13)―1 2014/12/15
  

   「犬猫をふかく愛するものは、大かた人には情愛のうすきものなり」
  
  『近世畸人伝』の項で既に紹介した、柳里恭こと柳沢淇園の著とされる『雲萍雑志(うんぴょうざっし)』(天明14年-1843-)にこうある。
  
   貴人は分別があるからそんなことはないが、下衆には多い、と『徒然草』ばりに、上から目線で始まり、「飼ふものに不便(ふびん)を加ふるほどならば、人にも情(なさけ)はふかかるべき理(ことわり)なるを、かへりて左(さ)もなきは、心底世にもいとうたてし」と、犬猫を溺愛する者に対して唾棄するがごとくである。
  
   ここまで言い切ったには、それなりの根拠があった。淇園は次のような実見した例を掲げている。
  
  >東海道を通っていた頃、定宿としていた旅宿の店主の妻が、狆(ちん)をこの上なく可愛がっていた。食べ物を口移しで与えるばかりでない。到来物も主人より先に狆に食わせ、人には後回しとする。その主人も愚昧で、妻の行動を許しているから、狆に対して物を言うことがまるで人間に対するのと同様であった。犬へのこんな溺愛ぶりに近隣の者は、妻を「狆のかか(嬶)」と呼んだほどである。この妻には子がなかったため、甥(おい)を養子として迎えたが、狆と仲が良くないと言い立て、讒言を設けて追い出してしまう。甥は、自分より狆の方が大事かと怒り、詫びも入れないどころか、再び家に戻らなかった。そんな噂が広まれば、養子に入ろうという者などありはしない。とうとうその家は断絶してしまった。〈有朋堂文庫『名家随筆集 下』216ページ〉
  
   さらに、「この妻養子を愛すること狆の如くせば、その家ながくさかえたらんを、愚夫愚婦の所為(しょゐ)、邪路におもむく、かかる類(たぐ)ひ世にいと多かり」と淇園は結んでいる。
  
   現代なら、犬を可愛がって家が滅びようとその人の勝手だという意見もあろう。だが、あの破天荒な奇行で知られる淇園にしてこの道徳家ぶりはどうだ。衆愚の蒙を啓こうという道学先生の有難い講話を承っているような気さえしてくるではないか。
  
   『雲萍雑志』は、様々な逸話を紹介しながら、一貫して倫理道徳をテーマとしているように見えるのは確かで、本当かねと首をかしげたくなるような話もある。だが、頭から否定せず虚心に読めば、それなりに感動しないわけでもない。そんな例を一つ紹介しよう。
  
  >丹波の国と丹後の国との境を隔てる毘沙門山(びしゃもんざん)の麓に貧農が住んでいた。二人の娘のうち、先妻の子である姉は17歳、妹は10歳である。姉が10歳の時父を失うと、その後は二人して孝行いよいよ深切に母に仕えていた。妹は果物を商い、姉は山野に入って薪を採り、また雇われ仕事でわずかの金を稼ぐ。だが、娘二人の働き程度では、母も含めて三人の身過ぎはままならない。そこで、ある時姉は、自分を人買いに身売りし、その代価で母を養いたい、お前はまだ幼いが母を十分に養うように、と涙を流して妹に持ちかける。その日から夜ごとに妹の姿が見えなくなった。こっそり行方を母に尋ねると、山の毘沙門堂へ詣でているとの答えである。雨のひどく降る日、「雨が激しいうえ、道も暗い。険しい坂を登って怪我でもして母を嘆かせるようなことをしてはいけない。今夜は止めなさい」と姉が止めたにもかかわらず、七日の満願だからと振り切って、妹は大雨の中を出て行った。一里余りの道のりを辿り、やっと峠の堂に至ると、堂の中から火影が洩れてくる。不審に思って中を覗くと、二人の盗賊が雨に濡れた衣服を焚火で乾かしていた。旅人が雨宿りをしているものとばかり思った妹は、そっと中に入る。賊はぎょっとして女の子を誰何する。御堂の本尊に祈願することがあり、今宵が満願だから詣でたのだ、と事情を語れば、遠い道をどんな祈願があって来たのだ、とさらに賊が問う。そこで妹は、姉と自分の二人で母を養っているが、生活の手立てが乏しく、ついに姉が身売りすることにした、母も養い姉も身売りさせないために、自分の命を引き換えとして神仏に祈っているのだ、と言ってさめざめと泣いた。貰い泣きした二人の賊は、盗み取った金銀に衣服を添えて妹に与えながら、「私らは旅の商人だ。お前が不憫だから褒美をやる。これから母にもっと孝養を尽くせよ」と蓑笠を着せて帰してやったという。〈同書158~161ページ〉
  
   この話の結びには「至孝の心に感じてや、毘沙門天の利益にて得さしめ給ふにも異ならずと、その頃人のかたり伝へし」とある。孝子に神仏が感応する話は昔話や漢籍にも多くあり、このエッセイでもすでに取り上げた。特に漢籍にある物は、神仏が直接手を下すため、宣長が批判するようにおよそ現実的とはいえない。しかし、妹の誠心に感じて賊が金品を施したというのなら、実際にあったと思わせるに十分であるし、心悪しき盗賊でも持ち合わせていた憐憫の情という道徳的方向にも繋がる。万事めでたく収まるというものだ。
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (124)江戸の珍談・奇談(12)-3 2014/11/04
  

   猫にはあって犬にはない性質を挙げるなら、女性的な執心・嫉妬といえようか。勿論、現実の動物のことではなく、風聞や説話の上での話である。
  
  >室町一丁目の町屋で、長年猫を好んで飼っていたが、年数を経て格別に大きくなったため、鼠も取らずにいた。その家の女房が、最近子猫を飼い、かの古猫を厭わしく思うようなると、古猫を虐待するようになる。ある日女房が二階で昼寝をしていると、古猫が喉笛に食いつく。声を立てるが、誰も聞き付ける者がない。向かいの家の者が異変を感じて駆けつけると、すばやく猫は逃げ去ってしまう。女房は間もなく死んだが、猫は奥の部屋に入り自殺したという。〈『耳嚢』巻之九〉
  
   猫にも自決とは、いかにも武士社会らしい始末の付け方である。
  犬にはなさそうな猫の嫉妬はいかにもそれらしい。さらに、猫には執心もある。
  
  >文化11年-1814-、日光東照宮の修復工事が行われた。江戸から役人が大勢派遣されたが、御徒目付(おかちめつけ)であった梶川平次郎から当地日光の知音へ言って寄越した話。日光奉行組同心山中佐四郎の妻は、常々3・4匹の猫を飼っていた。一両年前から病気を患い、昨冬以来甚だ重い。猫の真似をすることが募り、この春は食事も猫同様となった。病人とは思えないほど大食するため、看病人も困り果て、何か取り憑いているのではないかと疑い、加持祈禱をしたものの、その効験は全くない。ある時、8年前に死んだ猫が取り憑いていると病人が口走った。佐四郎は憤り、「死ぬまで飼ってやった猫が取り憑くなどということがあるものか」と叱ったのだが、「余りに愛してくださったから離れがたいのです。今飼っていらっしゃる猫も、その猫の子であるから、一層離れられない」と病人の口を借りて猫が言う。そこで、日光の神職を頼んで祈禱すると、猫は病人から離れたが、3日目に病人も死んでしまった。祈禱の最中、病人が「この猫の死骸は庭に生けてある。犬に咬まれて死んだのを菰(こも)に包んで庭に埋めたから、掘り出して川へ捨ててください」と言うので、掘り出して見ると、8年以前に埋めたはずの猫の死骸が、全く腐りもせずそのまま残っていた。佐四郎の許に残った猫の子も、あるいは貰って飼っていた猫も残らず川へ捨てたと、目の当りに目撃した者が語ったという。〈同、巻之九〉
  
   これは、表面上猫が飼い主に執心する話となっているが、実は、逆に飼い主が猫に執心していることが原因かとも考えられよう。それでは、飼い主と猫の双方が執心すればどうなるか。次の話はそれを暗示している。
  
  >本所割下水に住む諏訪源太夫の母〝きた〟は当年70歳。猫を深く愛玩し、常に数十匹を飼っていた。その猫が死ねば、死骸を長持に入れて捨てずに置く。月々の猫の命日には魚を調え、料理して長持に入れてやる。すると、翌日にはすっかり食べてある。本所の猫婆と称せられたこの老母、宝暦12年-1762-の秋8月、台風が吹き荒れた夜、飼い猫とともにどこへともなく失踪した。家の者が不審に思い、例の長持を開けて見ると、猫の死骸は一つも残っていなかった。〈「江戸塵拾」巻之五、『燕石十種』第5巻406ページ〉
  
   猫は、こうして神秘的・幻想的な雰囲気まで醸し出すに至る。だが、怪異ばかりに目を向けては猫に可哀そうだし、猫好きの方も不愉快であろうから、次のような忠義を貫いた猫の話を紹介し、名誉を回復しておくとしよう。
  
  >安永か天明頃の話。大阪農人(のうにん)橋に河内屋惣兵衛という町人に器量良しの一人娘があった。この娘は、自分から片時も離れないぶち猫を可愛がっていた。猫は、常住坐臥、娘が便所へ立つにも付きまとう。それほどであるから、「あの娘は猫に魅入られているのだ」と評判され、縁談にも差し支えるようになる。そこで、しばらく猫を離れた場所へ追い放つのだが、間もなく帰って来てしまう。猫は怖ろしい、殺して捨てるに限る、と内談していると、猫は行方をくらます。やはりそうだと祈禱や魔除けの札をもらって慎んでいたところ、ある夜惣兵衛の夢枕に猫が立ち、「娘に執心するから私を殺そうというので、身を隠しました。だが、よくお考えください。私はこの家先代から養われておよそ40年厚恩を蒙って来ました。どうして主人のために悪さをするでしょうか。私が娘の側を離れないのは、この家に年を経た妖鼠があり、娘に執心しているため、それを防ごうとして片時も離れまいと思っているからです。鼠を捕えるのは猫の義務ですが、なかなかこの鼠は私一人で太刀打ちできる物ではありません。普通の猫では2・3匹寄っても無理でしょう。島の内河内屋市兵衛方に優れた虎猫がいますから、これを借りて私と一緒にかかれば征伐することは可能です」と言って姿を消した。妻も同じ夢を見たが、たかが夢だと、その日は手を打たないでいたところ、その晩の夢に猫が現われ、再び訴える。そこで島の内へ立ち寄れば、夢の通り体格抜群の虎猫が庭に蹲っていた。主人に事情を話して借りて来ると、すでにぶち猫と通じ合っていたらしく、まるで人間の友達同士が話し合うようである。ぶち猫は、明後日鼠を成敗するから、日が暮れたら虎猫と自分を二階に上げて置いてくれるよう、夢で主人に念を押す。さて、その当日ご馳走をたっぷり食べた二匹の猫は、二階で鼠とすさまじい格闘に及んだ。騒動が静まって、主人らが二階へ上がって見ると、ぶち猫は、自身の体にも勝る大鼠の喉笛に食らいついたものの、鼠に脳を掻き破られ、鼠とともに息絶えている。虎猫は、気力を使い果たして瀕死の状態であったが、療養の甲斐あって命拾いをした。ぶち猫はその忠心に感じ手厚く葬られ、墓まで建てられたという。〈『耳嚢』巻之十〉
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (123)江戸の珍談・奇談(12)-2 2014/10/22
  

   すでに紹介した根岸鎮衛(ねぎしやすもり)『耳嚢(みみぶくろ)』には、動物の奇談が多く拾われている。予想通り狐狸の話が突出して多い中で、猫を主人公とした話が9話ほど取り上げられている。そのほとんどが怪異譚であり、狐狸に等しい存在感を示すところが面白い。
  
   例えば、年老いた猫が老母を食い殺し、その老母に化けていた話がある(巻之二)。
  
   ある時猫の正体を現したため、妖怪に相違なしと息子が切り殺してしまう。すると、猫が母の姿に変わった。親を殺した大罪ゆえに息子は切腹しようとする。周囲が、猫や狐が化けた場合、命を落としてもしばらくは形を現さないものだ、待つがよい、と軽挙を諫めたその夜になって、しだいに古猫の死骸と変わったという。
  
   この話では、息子が切腹せずに済んだが、別の話では母に化けた猫を切り殺したものの、母の姿のままであったため、自殺を余儀なくされている(同上)。
  
   猫は、狐と同様人に取り憑くばかりではない。人語も解するし、物も言う。
  
  >石川某の親族の者に長年飼っていた猫がある。ある時、その猫について来客に「この猫は襖(ふすま)を自分で開けて出ると、その後立ち上がってまた閉めて行く。このままだと何かに化けるかもしれん」と言う主人の顔を猫がじっと見てその場を去ったが、そのまま行方知れずとなってしまった。〈巻之七〉
  
   「亭主の言葉的中故なるべしと語りぬ」と根岸は結ぶ。主人が自分を怖れる何気ない呟きが図星を指したため、猫が行方をくらましたというのである。
  
  >ある武家ではいくら鼠が増えても猫を飼わない。その理由は、祖父の代に飼った妖猫のせいであった。ある時、縁側の端にいた2・3羽の雀をかの猫が狙って飛びかかったものの、雀は飛び去ってしまう。その時、猫が小児のような声で「残念也」と呟いた。それを聞きつけた主人が取り押さえ、火箸を持って「貴様、畜類の身として物を言うとは怪しい」と怒って殺そうとした。すると、猫が再び声を発し、「物を言ったことはないのに」と言ったため、驚いた主人が手を弛めた隙に飛び出して行方知れずになったという。それ以降その家では猫は飼ってはならないと堅く戒めている由。〈巻之六〉
  
   人語を発する猫の話はもう一つある。
  
  >寛政七年-1795-の春、牛込山伏町の某寺院に秘蔵して飼っていた猫が、庭に下り、鳩を狙う様子を見せたため、和尚が声を出して鳩を逃がしたところ、その猫が「残念也」と言葉を発した。驚いた和尚が逃げる猫を取り押さえ、小刀を持って「畜生のくせに物を言うとは奇怪至極。人間をたぶらかすかもしれん。人語を解するなら、そう有り体に申せ。もし拒否したら、殺生戒を破ってでも貴様を殺すぞ」と憤ったところ、かの猫は「どの猫でも十年余生きていれば物は申すものです。それから4・5年過ぎれば神変を得ますが、そこまで命を保つ猫はありません」と言うものだから、「それは分った。だが、貴様はまだ十年に至っていないではないか」と問い返す。すると猫は、狐と交わって生まれた猫は、その年功なくとも物を言うのだ、と答えた。そこで、「猫が人語を発する現場に接したのは自分一人である。今まで飼ってきたのだから、物を言おうと別に支障はない。これまで通りにいるがいい」と言って解放してやると、猫は三拝をなして立ち去ったが、その後の行方は杳として知れないと近所に住む人が語った由。〈巻之四〉
  
   後者の猫の方は、和尚に対する応答が論理的で組織立っている上、礼儀正しく振舞ってもいる。恐らく、素朴な前者の話に基づいて脚色したものであろう。
  
   狐なら人間に化けて人語を操ることくらい何でもないのだが、猫にも共通した属性のあることをこれらの風説は示してくれる。ただ、狐の狡猾さに比して猫には直線的な趣があるようだ。上記某寺院に飼った猫にしても、主人をたぶらかしたり、はぐらかしたりすることは決してない。だが、狐の場合はさらに上手を行き、単なる応答にも一捻りが加わるのである。
  
  >故事を話して人間のためになることなどを説いてくれた老狐に向かって、ある人が「畜類でありながら、これほど理に敏く、吉凶や危福をあらかじめ悟って人にも告げるほどの術があるのだから、名獣といっても過言でない。なのに、どうして人をたぶらかし欺くような真似をするのか、合点がいかない」と言ったところ、老狐が「そんな悪行は、全ての狐がするのではない。悪さをするのは、多くの人間の中にも不届き者がいるのと同じことだ」と答えて笑っていたという。〈巻之四〉
  
   狐ながら世故にたけた名言といってよかろう。
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (122)江戸の珍談・奇談(12)-1 2014/10/11
  

   西郷隆盛の犬好きは有名である。周知のとおり、犬といっても単なるペットではなく、兎狩りに使った猟犬だ。仁科邦男『犬たちの明治維新 ポチの誕生』(2014年7月、草思社)では、西郷の犬に関して一章を設け、各種の資料を博捜している。中でも、池田米男編『南洲先生新逸話集』に採られた次の話は、西郷と犬の関わりを端的に物語るばかりでなく、西郷のひととなりまで彷彿するように思う。
  
   以下、祇園花街の名妓君尾の談として紹介された逸話を引こう。
  
  >明治の御一新前、京都は諸藩の勤皇志士が屯(たむろ)して、夜な夜な紅灯花街の巷(ちまた)に出入りし、鋭気を養われました。多数の粋人も居られ、中にも木戸様(=木戸孝允)の御愛妓は有名なお松さんで、後(の)ちは夫人にご出世なさいました。大久保様(=利通)にも御愛妓がいました。西郷様の愛妓は風変わりのお愛犬二疋でした。西郷様はよく愛犬とともに御入来になって、鰻の蒲焼を犬の分まで御注文をして愉快相(そう)に愛犬とご一所にこれを食われ、犬の頭を撫でられたりして、四方山(よもやま)のお話に興じて帰られました。妾(わた)しは西郷様こそ、粋人中の粋人様と思いました。色や恋などという方は、ほんとうの粋人ではありませぬと…〈同書220ページ〉
  
   記者は、これを「流石(さすが)は京都の名老妓の真粋を解した哲言ではある」と評している。犬を傍らに座らせて一緒に鰻を食うだけで、商売であるはずの芸妓の方には金を落としてくれないことが「粋人」かどうかについては意見が分かれるだろう。だが、西郷が犬を人並みに扱ったことだけは窺い知られる。
  
   西郷は、西南戦争のさなかにあっても犬を連れて狩に出ていた。だが、敗色濃い明治10年8月16日、解軍の布告を出した後、陸軍大将の軍服を焼くと、陣中に連れて来た犬もそこでついに手放してしまう。そのうちの一頭は、西郷が貰い受ける前の飼い主の許へ200キロの道のりを38日かけて戻ったという(同書252ページ)。
  
   犬という動物は、表面上は主従であるが、むしろ主人とは相互に信頼し助け合う関係を作るようである。
  
   明治6年4月、「畜犬規則」なる法律が東京府から布達され、名札を付けない犬は邏卒(=今の巡査)がその場で打ち殺しても構わないこととなった。ここで飼い犬と野犬とが区別されるようになる。それまでは犬といえば里犬のことを指し、飼い主の定まらない多くの犬が町中をうろついていたのである。だが、道にねそべっている犬でも、町や村の縄張りに侵入する外敵があれば、猛烈に吠えて威嚇した。特定の飼い主がないことは、逆に言えば誰の犬でもあり得たのであった。
  
   次に紹介するのは、人と里犬との相互扶助関係がまだ残っていた時代の佳話である。
  
   名札を付けていなければ殺されるとあって、里犬に名札を付けてやったところ、それが伊勢参りまでして帰ってきたという、仁科の同書に引かれた新聞記事を紹介しよう。
  
  >犬の伊勢宮に参る事は古くより多くいい伝えたるが、この頃聞きしは最(いと)珍しきものというべし。東京新泉町(=新和泉町)七番地に古道具屋渡世、角田嘉七という者あり。去る九月中、府令ありて、無主の犬は打殺さるる事有りし頃、嘉七が家の前に一頭の白犬来たりしを見てあわれに思い、己が名と町名を書きたる札をかの白犬の頸に付けやりしが、その後何人(なんぴと)か連れ行きけん、東海道の駅に出たるが、伊勢参宮の犬なりという者有しに、人々珍しき事におもいて、銭を与え首に結び付けしかば、次第に銭多く成りしを以て之を金にかえ、好事のもの更に一冊の帳面を作り、白犬参宮の由を記し、施与(ほどこし)の金をつけて宿々に継ぎ送る。是を奇とする者、銭を与え、宿賃食料を取らずして、人を付け、件(くだん)の帳面を持し、是を送りしかば、桑名の渡しは更なり、その余、山川滞る所なく行き過ぎ、十一月九日、終(つい)に神宮に至りしかば、神宮の人々大いに奇とし、即ち神前に拝せしめ、途中にて施されし金銭を以て神宮に献じ、大麻(=御礼)を受け、剣先御祓(おはらい)三十二枚を授くるもあり。又一書を付けて参宮終りし由を記し、帰路におもむかしむ。〈明治7年12月18日横浜毎日新聞による-同書196ページ〉
  
   犬の伊勢参宮は江戸時代からしばしばあった。松浦静山も本居内遠もそうした犬を目撃している(同書197ページ)。
  さて、この犬、三重県度会郡に至ると、恵比須・大黒の像四体を与えられたが、土地の者が新泉町を知らなかったため、埼玉県熊谷にまで送られてしまう。ところがそこに名札の角田がいるはずがなく、東京だということになり、宿場を順次送り継いで12月13日にようやく古道具屋へ帰着した。この時犬が持って来た行李(こうり)には例の像を始め、様々な施し物とともに金六円余りもあったというから驚く(同書198ページ)。
  
   いい時代だった。こんな醇風美俗がいつの頃からか失われて久しい。
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (121)江戸の珍談・奇談(11) 2014/09/29
  

   『江戸塵拾(えどちりひろい)』は、江戸市中で見聞した奇物や怪異を集めたもので、余計な修飾語や粉飾を廃して、事柄のみを淡々と並べてある。それだけに却ってその記し方は真に迫るものを感じないわけにいかない。
  
   『燕石十種』には5巻本が収録されているが、もと2巻本だったらしい。明和4年-1767-に成立した2巻本を改稿・増補したのが5巻本と推測されている(同書後記)。その成立年代は明らかでない。ただし、この書を蔵していた柳亭種彦が文政6年-1823-に記した識語によれば、それより60年前にはすでに入手していたことが知られる。
  
   さて、この書には、小豆洗いや狐の嫁入り行列など、今でもよく知られた怪異が紹介されているが、それでは珍しくもない。ここでは『江戸塵拾』ならではの怪異譚をいくつか紹介しよう。
  
  >松平美濃守の下屋敷が本所にあった。ある年、敷地内にある3町(=約324メートル)四方の沼を埋め立てようという話が持ち上がる。その時、上屋敷に憲法小紋(けんぼうこもん)の裃を着けた老人が一人現れ、取り次ぎの武士に「私は御下屋敷に住む蟇(がま)でございます。この度私どもの住む沼を埋め立てなさると伺い、参上いたしました。なにとぞその儀はお取り止めいただきたい旨、殿様のお耳に入れてほしい」と言う。退座した武士がそっと覗くと、憲法小紋の裃と見えたのは、蟇の背中にある斑紋であった。体はまるで人間の大きさで、両眼が鏡のように炯々としている。早速その旨を美濃守へ伝えると、聞き届けられ、埋め立ては沙汰やみとなった。元文3年-1738-のことである。〈『燕石十種』第五巻「江戸塵拾」巻之二、394ページ〉
  
   以前紹介した松の巨木の精霊と同趣の話である。
  
  >外桜田に住む永井伊賀守の屋敷前に、元文4年六月、雷が落ちた。次第に雲が切れ、一頭のけだものが雲に昇ろうとするところを、大勢が寄って打ち殺した。それは今当家の什物として毎年土用干し(=虫干し)の折に家臣等に見せているという。その形は犬のようで、牙は狼と同じく、毛色が薄赤い。〈同書巻之一、391ページ〉
  
   本物の雷は、鬼の姿をして虎の褌をしているようなものではなかったらしい。
  
  >御典医塙(はなわ)宗悦家から解毒丸を出したが、これはその由来。塙氏の先祖は肥前唐津で、名医の聞こえがあり、江戸へ召された時のことである。妻子と家来一両人を連れて乗船した。順風に恵まれ、すでに筑紫から遠く漕ぎ出したその時、突如蒼海が荒れ始め、暴風に帆柱を折られてしまう。船頭らの努力も甲斐がない。こうした危難の例として、船中の男女が衣類や手拭をそれぞれ海に投げ入れると、塙氏の娘が、着ている小袖とともに白波にまつわり海へ吸い込まれてしまった。嘆く父母に対して、17歳になる美貌の娘は、両親に暇乞いをし、竜神がわが命と引き換えに父母を江戸へ下してくださるはずだ、と気丈に言いながら、荒波うずまく海底へと沈み入った。ようやく風波が静まり、船を漕ぎ出そうとすると、沈んだはずの娘が波を踏みながら海中に立ち上がり、父母を拝して言う。自分は仮に人間界に生まれた身であり、実は竜女である、今再び竜宮へ帰る時を得た、父母の厚恩を謝して一薬を与えたい、この薬を持つ人は勿論、船中の積荷にも塙宗悦の名を記したらば、海難に遭うことはないはずだ、と言う声とともに姿は白波に消え失せた。こうして江戸へ着いた塙氏の作り出した解毒丸は諸病を治すこと、神のごとしといわれる。〈同書巻之三、396ページ〉
  
   かぐや姫を海神の娘豊玉姫へと移し替えたことは明らかであって、解毒丸を売り出した薬屋の創作にかかる宣伝文に相違なかろう。
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (120)江戸の珍談・奇談(10) 2014/09/17
  

   江戸深川住民の奇行を集めた『深川珍者録』(『続燕石十種』第一巻所収)という珍書がある。序文にある宝暦10年-1760-に成立したと見られ(同書後記)、その自筆本を文化5年-1808-に曲亭馬琴が入手した。巻末には馬琴による以下の識語が付されている。
  
  >此の書、何人の作れるを知らず、深川は余が出生の地なるに、いとけなき時、見もし聞きもしつる事の、この記のうちにあるがいとなつかしくぞおぼゆる、文辞の拙きはさらにもいはず、事みな実録にて、しかも作者の自筆なるべくぞ見ゆるかし〈『続燕石十種』第一巻403ページ〉
  
   ここに収載された話は実録だと馬琴先生のお墨付きを得たのだから、自信を持ってその中から毒婦の話を一つ紹介しよう。タイトルは「冨吉屋おむめ婆々が事」という。
  
   小名木川に邸宅を構える真野某は、書院番勤めの旗本である。近江の国に300石の知行地を領する大層裕福な家であったが、それまで無暗に金銀を浪費せず、倹約に努めていた。堅実な使用人に屋敷の管理を万事任せていたところ、病死したため、後任として只右衛門という者を抱えることにしたのだが、その女房お梅がこの話の主人公である。
  
   お梅は「不敵の似非者(えせもの)」で、自身の生国を名乗らない。ただ井伊殿の落胤だと戯言を弄し、声高に吹聴していた。主人をたぶらかして馬鹿者にし、屋敷一切を我が思いのままにしたいと腹の底で企んでいたお梅は、当初そんなそぶりを毛筋ほども見せず、主人に金が入る算段ばかりを勧める。例えば、広大な土地をそのままにしても無益であるから、町人相手に一年5両の賃貸しをすれば儲かるはずだ、と流れるように弁じ、隣家の主人と相談して、早速その手配をしてしまう。主人も働き者だと感心し、心置きなく用事を言い付けるようになったから、好機到来とばかり、女郎遊びの面白さ、間夫(まぶ=遊女の情人)となる楽しみを得意の弁舌をもって朝に夕に吹き込む。
  
   お梅に唆された真野は、新吉原江戸町二丁目兵庫屋の女郎錦木(にしきぎ)に「捨て情けの尻目(=秋波)」を使われ、すっかり「魂鼻の先を廻」るようになってしまったから、自邸にも帰らない。知らぬが仏とばかり、お梅が屋敷内を揚屋のように設えると、義太夫節やら豊後節やら、同類が蝟集する。今では真野自身も「小袖のしわ延ばすに隙なく」、長い袖下は塗下駄をこするほどになっていた。
  
   ある年、小伝馬町へ行き、帰りに油町辺を通ったお梅が、伊勢屋市兵衛という糸類を商う、真野邸へも出入りする店へ立寄った。忌中の札が下がっていたにもかかわらず、麻を買おうと大声を立てると、奥から手代が現われる。お梅の身なりがあまりむさくるしいため、物もらいと勘違いし、米を摑み出したから大変だ。烈火のごとく怒ったお梅は、武士たるべき者の妻が乞食扱いされて一分が立つものか、と息巻き、平身低頭する店の者が差し出す金三分を不承不承に巾着へねじ込んでようやく帰った。
  
   お梅はまた、屋敷内の草履取七平と密通したばかりか、自分の定紋の付いた着物を愛人に着せ、「厚き面の皮へ、霜降りたるごとく白粉(おしろい)を塗り、霜がれの薄(すすき)ほどなる髪へ、油したたに付け」ては、夫只右衛門の前をも憚らず、七平の手を引いて通り過ぎたという。
  
   このお梅婆さんのために「新たわけ」となったものは数知れない。だが、とうとう悪事や不行跡が真野一家に知れ、夫とともに追放された。しかし、その後どう世を欺いたものか、本所二つ目弥勒寺前に釜屋という暖簾をかけ、「面の皮の洗濯」をしていたが、近ごろは永代寺御旅所に女郎屋を出し、抱え子を虐待しながら今も存命だ、とこの話を作者に紹介した者は、語り終えるや、尻に帆かけて東へ飛ぶように走り去ったという。
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (119)江戸の珍談・奇談(9)-2 2014/09/06
  

   まず、次の文章をお読みいただこう。
  
  >市村芝居へ、去る霜月より出る斎藤甚五兵衛といふ役者、前かたは、米河岸(こめがし)にてきざみ煙草売りなり。とっと軽口、器量もよき男なれば、「とかく役者よかるべし」と人も言ふ、我も思ふなれば、竹之丞太夫のもとへ、つてを頼み出けり。明日より顔見世に出ると言うて、米河岸の若き者ども頼みて申しけるは、「初めてなるに、なにとぞ花を出してくだされかし」と頼みける。目をかけし人々二、三十人言ひ合せて、蒸籠(せいろう)四十、また一間の台に唐辛子を積みて、上に三尺ほどなる造り物の蛸(たこ)載せ、「甚五兵衛殿へ」と張り紙して、芝居の前に積みけるぞおびただし。甚五兵衛大きに喜び、「さてさて、恐らくは伊藤庄太夫とわたくし花が一番なり。とてものことに見物にお出で」と申しければ、大勢見物に参りける。されども、初めての役者なれば、人らしき芸はならず、切狂言(きりきょうげん)の馬になりて、それも頭(かしら)は働くなれば、尻の方になり、かの馬出るより、「この馬が甚五兵衛」と言ふほどに、芝居一同に、「いよ、馬様、馬様」としばらく鳴りも静まらず褒めけり。甚五兵衛すごすごともならじと思ひ、「いいん、いいん」と言ひながら、舞台内を跳ね回つた。〈『鹿の巻筆』第三「堺町馬のかほみせ」、『燕石十種』第六巻233ページ〉
  
   役者として初めて舞台に立った嬉しさの余り、客席から声をかけられると、馬の後足を担当していた者が、「いいん、いいん」と声を立てて応答してしまったというのである。恐らく、大方の読者が他愛のない笑話としか受け取れまい。事実、貞享3年-1686-に刊行された『鹿の巻筆』は、仕方話の名手鹿野武左衛門(しかのぶざえもん)の手になる咄本(はなしぼん)であって、落語のようなものだ。
  
   ところが、刊行後9年も経った元禄7年-1694-になって、板木は焼却、著者武左衛門は伊豆大島へ流罪という厳しい処罰が突如として下った。人の演じた馬が「いいん、いいん」と答えたという話が遠因とされたのである。そこで、宮武外骨『筆禍史』の引く関根正直『落語源流談』他によって知られる経緯を要約しながら紹介しよう。
  
   元禄6年4月下旬、ある所の馬が人語を発し、「本年ソロリソロリという悪疫が流行する。これを予防するには南天の実と梅干を煎じて呑め」と警告したという噂から事件は始まる。この流言飛語が江戸中に拡大し、南天の実と梅干の値が二十倍に高騰すると、手に入れるために生業も手に着かない者まで出た。奉行所から噂の出所を探索するよう厳重に通達まで出される事態となる。やがて八百屋総右衛門、浪人筑紫園右衛門の両名が梅干呪い等の書物を作り、暴利を貪っていたことが判明した。その着想は鹿の巻筆にあるこの話から得たというのである。
  
   首謀者である筑紫は市中引き回しの上斬罪、総右衛門は流罪となるところ、牢死した。それは当然として、この詐欺事件に全く関係のない鹿野武左衛門がなぜ罪に問われたかというと、出版取締令第1条「猥(みだ)りなる儀、異説等を取り交ぜ作り出し候ふ儀、堅く無用たるべき事」に違反したと見なされたらしい。
  
   とんでもない言いがかりである。傷心の武左衛門は大島で6年間謫居した後、江戸へ帰ったものの、身体の衰弱が激しく、元禄12年に没している。
  
   『鹿の巻筆』を翻刻発行した経験のある宮武外骨は、例言中に以下のような評言を付し、その理不尽を大いに慨嘆した。
  
  >詐欺漢が落語本を見て、奸策を案出したりと云ひしとて、其奸策に何等の関係なき滑稽落語の作者及び版元をも罰するは、古来法典の一原則とせる「遠因は罰せず」と云ふに背反したる愚盲の苛虐と云ふべきなり〈『筆禍史』39ページ〉
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (118)江戸の珍談・奇談(9)-1 2014/08/23
  

   本エッセイ「江戸の珍談・奇談」の(3)と(4)に取り上げた『当世武野俗談』は、馬場文耕(享保3年-1718-~ 宝暦8年-1759-)という講釈師の作品である。他にも『近世江都著聞集』が『燕石十種』に収められている。いずれも、当世見聞した逸話を集めた実録小説で、大名や幕臣の艶聞・醜聞を取り上げるなど、きわどい内容を含むため、「世に容れられない不満を皮肉と諷刺の中に吐きだして、どの書にもちくちくと人を刺す毒が仕込まれていた」(諏訪春雄『出版事始―江戸の本』昭和53年、毎日新聞社)とも評される。
  
   馬場は、「政事物」と呼ばれる時事問題を講釈したり作物としたりしていたため、普段から幕府に目を付けられていたのだろう。宝暦8年-1758-9月、江戸日本橋榑正(くれまさ)町小間物屋文蔵方で講釈し、高座を下りたところを遂に逮捕された。
  
   その頃幕府で審議中の案件であった郡上(ぐじょう)一揆の経緯を高座で述べ、仮想の判決まで下したばかりでなく、さらに小冊子を編んで『平仮名森の雫』と題し、景品として頒布したというのが、その罪状である。どうやら幕政批判と受け取られたらしい。
  
   幕府側は、この一件だけで逮捕に踏み切ったわけでもなさそうだ。馬場は『近世江都著聞集』などの中で、平気な顔をして徳川将軍に触れている。これは、当時れっきとした犯罪行為に当たり、享保7年-1722-に発布された出版取締令(「御条目」と呼ばれる)第5条にはこうある。
  
  >「権現様の御儀は勿論、惣(すべ)て御当家の御事、板行・書き本、自今無用に仕るべく候ふ。拠(よんどころ)無き子細もこれあらば、奉行所に訴え出、差図(さしず)請け申すべく候ふ事」(前掲、『出版事始-江戸の本』164ページ。ただし、適宜送り仮名を付した)
  
   要するに、徳川家のことを筆にするだけで禁に触れるように解釈できる。例えば、元禄11年-1698-の春、江戸書肆鱗形屋から『太閤記』7巻を刊行したところ、その年8月、南町奉行松前伊豆守により絶版を命ぜられた。この事件に対して、宮武外骨は、「徳川家康が譎作(詐)権謀(けっさけんぼう)を以て、豊臣家を亡ぼし、而して自己が大将軍職に就きし事は、家康子孫の脳裏にも、其忘恩破徳の暴挙たるを認識せるがため、それだけ、豊臣家の事蹟を衆人に普知せしむるを欲せず、随つて其戦況伝記の出版をも禁止するの暴圧手段を執りしなり」と舌鋒鋭く非難している(『筆禍史』(明治44年初版、大正15年改訂増補版39ページ)。
  
   どこからでも責める糸口を見出すのが為政者のやり方である。合巻の最高傑作とされる柳亭種彦『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』(文政12年-1829-~天保13年-1842-)も、いわれのない理由によって絶版の憂き目に遭った。舞台を平安朝から足利将軍の東山御所に移し、光源氏に準えられた足利光氏が好色に耽るとみせかけながら将軍家のお家騒動を見事に解決するという話である。ところが、これが数十人の妻妾を養っていた11代将軍家斉の大奥を諷刺しているという噂が流れるや、奢侈禁止、風俗粛清を唱えた天保の改革を推進する水野忠邦らによって、取締りの対象となったのである(前掲『出版事始-江戸の本』)。無論板木は没収とされたが、版元の鶴屋喜右衛門は、手許不如意のため質入れしていた板木をやっとの思いで受け出して奉行所に提出したという。加えて、著者である種彦はこの事件の衝撃によって病勢が悪化し、吟味を受けた年に病没した。
  
   禁書を作成しただけのことなら、重くても遠島程度で済んだはずだが、馬場文耕はその口舌が災いし、奉行所でも役人を論難したため、同年12月25日、哀れにも浅草刑場の露と消えてしまった。
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (117) 江戸の珍談・奇談(8)-3 2014/08/03
  

   忠臣尾崎富右衛門の逸話はまだ続く。尾崎は、榊原家の娘が南部大膳大夫利雄(としかつ)に輿入れした際の付き人となり、南部藩に留守居役(=幕府と自藩との連絡調整役)として抱えられた。
  
  >堀田相模守正亮(まさすけ)が老中を勤めていた時分、南部家から何か所望したらしい。その望みはとうとう叶わなかったのだが、その間献上物を呈し続けていた。数年来老中が献上物を閲していたのに、ある年、老中が多用だと言って、奏者番へ回して済ませた。翌年も同じ状態であったため、尾崎はこのままでは家格にかかわると思い、こう申し出る。先代から老中に目を通していただいていたにもかかわらず、昨年、一昨年と老中多用のためとはどういうことか、どうしても老中に閲してもらいたい、と言うと、奏者番が取り扱うのは老中からの指図だとの一点張りだ。老中が忙しいと言うのなら、お手すきの折に指図を待って献上することにしよう、と言い捨て、尾崎は献上物を持ち返ってしまう。当然、陪臣の身として違背の言葉が甚だしい、厳重な処分を、と老中による評定が行われる。そこで、老中連の末座にあった西尾隠岐守忠尚(ただなお)が異議を唱えた。尾崎への御咎めは不当である。臣下たる者、おのが主人を大切に思うのは当たり前だ。主君のために身命を賭していささかも厭わないのが忠義というものだろう。もしこの者に御咎めを仰せつけたなら、今後陪臣も御家人も忠義に励む者はいなくなる。今一度の詮議を求めたい、と主張したのである。老中連はその意見を受け入れ、違背の言葉は不埒であるが忠心に免じて幕府から処分は言い渡さない、当家の処分に従え、献上物は旧に復して老中が目を通す、と処断した。〈同書、183ページ〉
  
   南部家では、尾崎を一旦国元へ返し、一両年経て再び江戸へ呼び戻した。
  
   だが、尾崎は主君に恵まれない。黒田家(=筑前守継高(つぐたか))から婚姻の申し出があった時、奥方の付添いの女の中に、南部の殿様の心に叶う者があったため、召し使いたい旨申し入れたところ、その女の母が永の暇を申し出て、娘を呼び戻してしまった。馬鹿にされたと立腹した南部の殿様、何を思ったか、京橋辺で町芸者をしている女を召し抱え、正妻同様に扱った。尾崎は頭が痛い。病気療養のための湯治を偽って願い出、密かに重役と相談する。その結果、殿様は国元に隠居、その跡は別家の舎弟に譲ることを取り決めた。
  
   因みにこの殿様は、南部信濃守利謹(としのり)といい、上記の不行跡によって廃嫡されている。ただ、利謹は文武両道で覇気のある人物であり、田沼意次に取り入り幕閣にのし上がろうと野望を抱いていた。ところが、本藩に知らせず独断で政界工作を行っていた事実が露見したため、廃嫡の憂き目に遭ったともいわれる。
  
   いずれにしても、放埓に近い殿様の所行を上手に治めた功績によって、300石加増しようとしたが、尾崎は、お家大事と存じて行ったことながら、もったいなくも御主君に難儀をおかけしてしまった、禄は先代から続いて300石頂いているから十分である、と受け付けない。なおも妻を娶って血筋を遺すように勧めても拒絶する。母が不心得者で、嫁を貰っても意に染まなければ不孝になるばかりだと言う。それなら、別宅に妾を置けばよいと言っても、何分御免を蒙ると首を振るばかり。果てには、養子を迎え、自分は隠居してしまう。殿様から隠居生活のために15人扶持を与えようとしても、即座に辞退してしまった。困った家老に説得されてようやく受け取ることにしたが、その扶持はそっくり母へ渡し、自分は母からのあてがい扶持によって暮らしていた。母の死後は国元へ帰り、ご先祖代々の墓掃除役をしたいと数度に亙って願い出たものの、聞き入れられず、江戸屋敷で隠棲していたという。
  
   「君君たらずといふとも、臣もって臣たらずんばあるべからず」〈古文孝経・孔安国序〉を身を持って示した潔い生き方である。江戸も中期に入り、官僚と化しつつあった武士のあるべき精神を覚醒させるに十分であったろう。
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (116) 『うつほ物語』の源実忠と真砂子君 2014/07/28
  

   『うつほ物語』の源実忠は、源正頼の娘・あて宮(実忠のいとこ)に懸想してからというもの、長年契った妻と二人の子を棄て、何年も正頼邸に泊まりこみます(菊の宴巻)。あて宮を知る前は、実忠と北の方は仲睦まじく、「この世にはさらにもいはず、行く末にも、草、木、鳥、獣となるとも、友だちとこそならめ」――来世、どのように身に生まれ変わっても友だちになろう、と約束していたそうで、以前ご紹介した源仲頼とそっくりです。
  
   とうとう実忠は、三條堀川の北の方が待つ家には帰らなくなり、家は荒れ果てますが、それでも北の方と二人の子は、実忠の帰りを待ち続けます。特に、息子の真砂子君は父を恋い慕っていました。その真砂子君に対して、実忠は「真砂子は数知らむ時にや」(浜の真砂を数えつくした時に帰る)と言ってよこしました。砂浜の砂をどうやって数え尽くせと言うのでしょう。つまり、もう戻ってこないということでしょう。
  
   真砂子君は父・実忠を恋い慕いながら、十三歳で亡くなります。昔は、遊んでいて、ちょっと父のそばを離れただけでも心配してくれたのに…。真砂子君は父が可愛がってくれた時のことばかりが思い出され、食事もとらないで嘆き続けた結果、「つひに父君を恋ひつつ亡くなりたまひぬ」――衰弱死したのでした。
  
   真砂子君が亡くなったとも知らず、あて宮との恋愛成就祈願のため、比叡山東麓の日吉神社に参詣した実忠は、偶然、同じ比叡で北の方が営む真砂子君の四十九日の法要に出くわします。「源宰相(実忠)、驚きて泣き惑ひ、臥しまろびたまへどかひなし」、実忠は息子の死を悲しみますが、あて宮への気持ちのほうが大きかったので、北の方のもとに戻ることはありませんでした。
  
   さて、その後、北の方と娘・袖君は俗世間を逃れて「志賀の山もと」に居を移します。実忠は、まだあて宮のことが諦めきれず、奈良の七大寺をはじめ、菩提寺や比叡の延暦寺、高雄の神護寺に出かけ祈願します。比叡山の根本中堂で七日間加持の潔斎をした実忠は、これまた志賀の山寺に参籠していた藤原仲忠と比叡の辻で行き合い、偶然それとは気づかずに北の方の隠れ家を訪れます。でも、実忠は北の方の住まいだと最後まで気づきませんでした。いい大人が、人を好きになったら、妻子のことなどどうでもよくなり、自分の願いを成就させることしか考えなくなる――人間は、どこまでも愚かです。
  
   幼子が親に見捨てられ衰弱死するという悲劇は、現代でも繰り返されています。真砂子君の「父君(ててき)」と父を求める姿は、ろくな食事も与えられず放置され亡くなった男の子が、最後まで「パパ、パパ」とか細い声で父を求めたという姿に重なります。
  
   父が帰ってくるのをひたすら待ち、永遠に数え終わることのない真砂を数え続ける絶望の歌ではなく、なぜ希望の数え歌が衰弱死した子らに響かなかったのか、無念でなりません。
  
  

  (し)
  

  
  

  ### (115)江戸の珍談・奇談(8)-2 2014/07/14
  

   姫路藩15万石の領主榊原式部大輔政岑(まさみね)は、新吉原町の遊女薄雲(一般には高尾とされ、その記録の方が多い。しかし、今、『続燕石十種』第1巻所収「過眼録」に従っておく)を身請けし、側室とした唯一の大名である。
  もともと一族の旗本榊原勝治の二男として生まれたが、本家7代当主政祐に男子がなかったため、従兄弟に当る政岑が養子として入り、享保17年(1732)19歳で本家を相続したのである。
  
   本家の榊原は名家として名高い。初代康政は、家康に仕え、長篠の戦い、小牧・長久手の戦いなどを歴戦して勲功を上げたため、家康の幕府創業期の大功臣である本多忠勝・井伊直政・酒井忠次とともに徳川四天王と呼ばれた。
  3代忠次の時、姫路藩へ転封されて以来、一時他藩へ移る時期があったものの、7代政祐まで名君に恵まれ、領内もよく治まっていたという。ところが、政岑に至ってとんでもない事態が出来する。
  
   政岑は吉原で放蕩を繰り返した挙句、寛保元年(1741)、大夫(たゆう―最高位の遊女、前述の薄雲あるいは高尾)を2千5百両かけて落籍すると、参勤交代にも同伴したばかりか、姫路城の西の丸に住まわせた。要するに正妻扱いをしたのである。
  
   質素倹約・華美厳禁を掲げる吉宗将軍の代だったから、幕府も黙ってはいられない。家臣もこんな殿様を頭に戴いたら大変だ。以下、「過眼録」に従ってその顚末を記そう。
  
  >政岑の大夫落籍を耳にした公儀から事情聴取を受けることとなった。家老尾崎富右衛門が老中の評定席へ呼び出され、事実認否が質される。諸侯の身分として遊女を請け出すとは放埓至極、申し開きできるか、と問い詰められ、尾崎はこう抗弁する。実は、調査したところ、遊女薄雲は式部大輔の乳母の娘であり、殿と乳兄弟である旨を世間に吹聴するおそれがある。それではお家の疵ともなりかねないから、身請けをし、引き取って世話をしているのである。決して放埓などと非難される謂われはない、と陳弁した。老中は事実に間違いないと思っていたが、尾崎の器量に感じ、一応その弁解を聞き届けた。しかし、そのまま捨て置けるはずもない。結局、政岑は隠居、さらに越後高田への御国替え(=転封)という処分が下った。〈『続燕石十種』第1巻、182ページ〉
  
   本来なら改易(=取り潰し)のところ、幕府は先祖康政の功績に免じて転封で済ませたのであった。この時まだ29歳であった政岑は、越後へ移って2年後に病死している。あるいは、これ以上散財されてはたまらないという家臣によって始末されたのかとも疑われる。変死を病死と公表した例は枚挙にいとまがないからだ。
  
   姫路15万石は実収20万7千石以上だったのに、高田は15万2千石、しかも頸城郡に6万石と陸奥国内に9万石という風に分割されていた。殿様の放蕩三昧の結果30万両の借金を抱えていた藩財政は、転封によっていよいよ窮迫し、火の車どころの話ではなかったという。
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (114)醍醐天皇とティンゴッチョ 2014/07/06
  

   『道賢上人冥土記(どうけんしょうにんめいどき)』(『扶桑略記』所収)には、道賢(905~85)が、天慶4年(941)に冥界に行き戻ってきた話を載せています。いわゆる臨死体験談でしょうか。道賢は、金峰山(きんぷせん)で修行中、息が絶え、冥界に行きますが、そこで日本太政威徳天となった菅原道真に会います。その後、道真を左遷した醍醐天皇と三人の君臣が地獄の責め苦にあえいでいる姿も目にします。鐵窟の茅屋で、醍醐天皇は僅かばかりの衣をまとい、その姿はまるで灰燼のようでした。
  
  >…復至鐵窟、有一茅屋。其中居四箇人、其形如灰燼。一人有衣、僅覆背上。三人裸袒、蹲踞赤灰。獄領曰「有衣一人、上人本國延喜帝王也。餘裸三人、其臣也。君臣共受苦。」…
  
   醍醐天皇は「我が苦しみを救済すべく、一万の卒塔婆を立てるよう、藤原忠平に告げてほしい」と道賢に訴えるのでした。十三日目に道賢は蘇生し、これらの話を伝えたということです。道真が政治的に失脚し失意のまま亡くなったことによって、その原因を作った醍醐天皇が地獄に堕ちたとする話は人の怨みの強さや恐ろしさを感じさせると同時に、このような話から地獄の風景が人々に浸透していったのだと思われます。修行僧の臨死体験なら当時の人々も信用したのではないでしょうか。
  
   さて、『デカメロン』の第7日第10話にも、やはり地獄を見た男の話が載っています。ティンゴッチョという男は、アンブルオージョとミータ夫人の間に生まれた子どもの名付親となったことがきっかけで、ミータ夫人と懇ろになります。ティンゴッチョは、あまりにもミータ夫人のところに頻繁に通い詰めたせいか、体力を使い果たしてしまい、あっけなく死んでしまいます。死後三日ほどたった夜、ティンゴッチョは仲間のメウッチョの寝室に現われ、あの世の様子を語ります。
  
   あの世に着いた後、ティンゴッチョは地獄の苦しみを体験しますが、名付子の母親(ミータ夫人)としでかしたことを思い出して、これまで受けた罰よりももっと厳しい罰を受けるのではないかと、恐怖にがたがた震えたと言います。隣で火に焼かれている男に、震えている理由を尋ねられ、「俺は自分の名付子の母親と寝てしまった。あんまり何度も同衾したものだから、皮がこすれてすっかり剝けてしまった」と答えます。するとその男は嘲りながら、「おい、馬鹿みたいな事をいうな。名付子の母親と通じたくらいの事をここで一々勘定に入れるものか。余計な気苦労はよせ」と言ったので、ティンゴッチョはすっかり安心したそうです。
  
   冥界の様子を伝えていることや、ティンゴッチョがメウッチョに「俺のためにミサをあげ、お祈りを唱えてもらいたい。また喜捨をしてくれればあの世の人たちはたいへん助かる」と言っていることも、『道賢上人冥土記』とよく似ています。しかし、醍醐天皇が地獄に堕ちたのは政治的な事柄が原因であるのに対し、ティンゴッチョは不倫によって地獄の責め苦を受けるのではないかと恐怖したとあります。しかも、名付子の母親と通じたくらいでは罪の勘定に入らないと。同じ地獄に行った話でも、その内容は大きく異なります。
  
   小さい頃から、「悪いことをしたら地獄に堕ちる」と親や祖父母に言われて育ちました。未だに地獄は怖いものとして、自分の行動を規制するものになっています。最近の若い皆さんはどうですか?
  
  

  (し)
  

  
  

  ### (113)江戸の珍談・奇談(8)-1 2014/06/22
  

   千葉県は、猫の捕獲・引き取り及び殺処分の数が2010年まで全国1位だった。翌年殺処分が3位に下がったものの、今も全国ワーストレベルであることに変わりない。犬も、2011年に殺処分が14位と低かっただけで、常にベストテン入りしている。
  
   因みにどのくらいの数かというと、殺処分のみ挙げれば、2008年に猫5971匹、犬3972頭であったものが、2012年に猫3166匹(全国5位)、犬1331頭(同8位)である(5月25日付「毎日新聞」千葉版による)。
  
   これは大変だ。徳川五代将軍綱吉(在位1680~1709)なら、卒倒しているに違いない。綱吉が発布したかの名高い「生類憐みの令」なる悪法の影響はかなり甚大で、決して誇張ではなくこんな悲話まで残している。
  
  >八丁堀同心町に秋田淡路守という、五千石を領する旗本がいた。ある時、12・3歳になる若殿が、庭へ飛んできて塀の上に留まった雀一羽を吹き矢で射落し、殺してしまう。生類憐みの時分、見捨てがたいため、奉行所へ届け出た。吹き矢の紙反古を調べると秋田の名が確かに記してある。これが動かぬ証拠となり、秋田殿の知行所は召し上げられ、親子ともに八丈島へ遠流となってしまった。〈『江戸真砂六十帖』巻の三、『燕石十種』第1巻144ページ〉
  
   現代なら、馬鹿馬鹿しいと一笑に付されるであろう。しかし、この種の事件が数多く伝わるところにこの法令自体というより、その運用に異常さを認めないわけにいかない。
  
   そもそもこの法令が全国に公布されたのは、貞享4年(1709)である。第一条に捨て子の養育を謳ったとおり、犬猫ばかりが対象ではなく、有難くもその撫育は人類にまで及んでいた。続く第二条で、鳥類・畜類を人が傷つけた場合は届け出を義務付け、野犬に食物を与えるよう第三条で規定している。
  
   実は、重要な点は第五条にあり、「犬斗(ばかり)にかぎらず、惣而(そうじて)生類人々慈悲之心を元といたし、あわれみ候ふ儀、肝要候ふ事」と、倫理規定としたのであった。
  
   つまり、仁政を施すことを目指した綱吉は、万人に仁心を育めば世が治まるのだから、生類を憐れむ精神を養おうと考えたわけである。四書五経を自ら講ずるほど儒教に心酔していたように、その高邁な理想はよしとして、その方法に問題があった。だが、これには、綱吉の精神論を下々が理解できず、臣下が厳罰を以て対処したためだという捉え方がある。
  
   臣下とは柳沢美濃守吉保と松平右京大夫輝貞を指す。荻生徂徠(おぎゅうそらい)『憲廟実録(けんびょうじつろく)』(正徳3年-1713-、「憲廟」は綱吉の諡号)には、「吉保輝貞が奉行の宜しきを失ひけるにや」と両者を批判的に書いてある(佐藤雅美『知の巨人 荻生徂徠伝』-2014年4月、角川書店)。しかし、これは徂徠の真意ではなく、『蘐園雑話(けんえんざつわ)』によると「君の過ちは臣下の受くべきことなり」とある由(同書)。要するに、生類憐みは将軍の失政だというのである。
  
   どんな弊害があろうと、理想は変えない。綱吉は、病の床に儲嗣(ちょし)家宣のほか吉保・輝貞らを呼んで、生類憐みが100年後まで行われるよう必ず守り通せ、と遺言した。ところが、綱吉が死ぬと直ちに、人民の苦しみを憐れんだ家宣がこの禁を解いてしまう。正確には、宝永6年(1709)に犬小屋を廃止してから順次規制が廃止されて行った。
  
   綱吉が将軍となった翌年からの三年間を「天和(てんな)の治」と称する。意欲的に政治改革に取り組み、古例を廃した。そればかりでなく、綱紀粛正・風紀矯正・賞罰厳明を標榜したため、次々に役人の改易・免職・処罰・削減が断行された。
  
   先に紹介した荻生徂徠の一家もその煽りを食った口で、父方庵54歳、徂徠14歳の時に江戸御構(おかまい)を命じられている。つまり、江戸から退去しろということだ。正当な理由はない。医者であった方庵のお覚えを同僚が妬み、将軍につまらぬ告げ口をしたためだという。方庵が江戸に戻れたのは、ようやく71歳を迎える年になってからであった。しかも、御番医師に登用された上、200俵を付され、翌年に奥医師に上がるや、直ちに法眼(ほうげん)の位を授けられている。
  
   晩年に至って福を得たのだからよいようなものの、将軍がこんな気紛れでは臣下の身が持たない。
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (112)菟原処女と海 2014/06/11
  

   「墓に生ふる木」で、菟原処女(うないおとめ)伝説についてご紹介しました。重複するところもありますが、改めてご紹介します。二人の男性から求愛された菟原処女がどちらか一方を選びきれず、自らの命を絶ってしまうというのがこの伝説の大筋で、様々に詠われ語り継がれました。
  
   菟原処女伝説を最も分かりやすく伝えているのが、『大和物語』(平安時代)の「生田川」です。『大和物語』では、菟原処女は「津の国にすむ女」、男は津の国の「うばら(菟原)」と和泉の国の「ちぬ(血沼)」となっています。うばらとちぬは、年齢・容姿・人柄・女への愛情が同程度だったそうです。
  
   娘が決めかねて苦しんでいる様子に心を痛めた女の親は、うばらとちぬに「水鳥を射当てた方に娘をさしあげましょう」と言います。男の一人が水鳥の頭、もう一人が尾を射当て決着がつきません。とうとう女は、「すみわびぬ わが身投げてむ 津の国の 生田の川は 名のみなりけり」という歌を詠み、生田川に「づぶりとおち入りぬ」―-命を絶ったのでした。
  
   うばらもちぬも後を追い、一人は女の手をとらえ、一人は足をとらえて亡くなったとか。女の塚の左右にうばらとちぬの塚が築かれ、三人が並んで埋葬されることとなりました。
  
   『大和物語』の「生田川」では、女が生田川に入水したことが明確です。水面に豊かな黒髪を漂わせている女の亡骸は、ミレイの「オフィーリア」を思い起こさせます。現実の世界では凄惨な入水も、文学の世界では美しく描かれます。『大和物語』では若い女が思いつめて入水し、二人の男も入水することで女に対する永遠の愛を示していることから、「生田川」の前半部分は男女それぞれの純粋さがストレートに伝わってきます。
  
   ところで、菟原処女伝説は古くからあり、奈良時代の歌人、田辺福麻呂(『万葉集』巻9・1801~1803番歌)や高橋虫麻呂(同・1809~1811番歌)、大伴家持(巻19・4211~4212番歌)も菟原処女を歌に詠んでいます。田辺福麻呂と高橋虫麻呂は菟原処女の墓を見て作歌し、大伴家持は前者のいずれかに追同し、天平勝宝2年(750)5月6日、「興に依りて」作っています。
  
   これらの万葉歌には、入水の場面は全く詠みこまれていません。菟原処女が入水したという伝説がいつから広まったのかは分かりませんし、もしかしたら歌を詠む際に三者とも「入水」というモチーフに関心がなかったのかもしれません。分からないことばかりですが、大伴家持に、菟原処女の入水を思わせるような表現がわずかにあります。
  
  >…父母に 申し別れて 家離り 海辺に出で立ち 朝夕に 満ち来る潮の 八重波に なびく玉藻の 節の間も 惜しき命を 露霜の 過ぎましにけれ…
  
   死に場所を求めてさすらう菟原処女の目には海が映っていました。この歌は、家持が越中にいる時に詠んだ歌ですので、もしかしたらが越中の海を眺めていた家持が、菟原処女の彷徨する姿を幻視したのかもしれません。
  
   菟原処女の墓は神戸市東灘区御影町東明にある「処女塚」だとされています。彼女が目にしたとしたら、おそらくそれは灘の海でしょう。たとえそうであっても、家持が日本海を眺めて、その海に菟原処女の死を思い起こしたとしたのなら、それだけで富山生まれの私としては十分ロマンチックですし、死を決めた若い女性が海辺に佇む姿を歌の世界に持ち込んだ家持はやっぱりすごいとも思うのです。
  
  

  (し)
  

  
  

  ### (111)江戸の珍談・奇談(7)-2 2014/05/28
  

   石出帯刀という名は、牢屋預りに就いた者が代々襲名するものである。明暦の大火の際、囚人の切り放ち(=解放)を敢行した石出帯刀は、本名を吉深(よしふか)といい、常軒と号する。元和元年(1615)の生まれだから、明暦3年(1657)には42歳の分別盛りであった。
  
   一体、江戸は火事が多い。明暦以後享保5年(1720)までのわずか60年余りの間に、都合6回の大火により、牢屋敷が類焼している(三田村鳶魚『江戸の珍物』160ページ)。その度に囚人の牢払いが行われたのであり、無論、吉深の前例に倣ったものであった。
  
   三田村鳶魚によれば、吉深は中山道嘉門宿(=現在の北千住)に住む石出家の次男佐兵衛と称した人で、それが幕府へ召し出されて牢屋預りとなった。石出の本家は、三田村の執筆した大正2年当時でも北千住で紙屋をしていて、地方随一の旧家だという(同書159ページ)。
  
   だが、吉深の出自には別伝もある。三河の譜代本多某の子として下総香取郡に生まれ、後に江戸小伝馬町の牢屋奉行石出家の2代帯刀義長の養子となる。養父の死後、寛永15年(1638)、牢屋奉行を継いだ(『国学者伝記集成』第1巻)。
  
   吉深は、常軒という号を有するだけあって、風流韻事を解した。連歌を好み、『春雨抄』なる著述もある。寛文7年(1667)52歳で致仕するまでに連歌集、歴史記録文、紀行文、日記などを残し、さらに隠居後、『源氏物語』の注釈を完成している。
  
   この注釈書は、『窺原抄(きげんしょう)』と題された全62巻にも及ぶ大部のもので、延宝7年(1679)から貞享2年(1685)までの6年間を費やした労作である。亡くなったのはその4年後の元禄2年(1689)3月2日であった。
  
   吉深が源氏物語注釈の執筆に取り掛かる6年前に、北村季吟『湖月抄』60巻が成立していた。『湖月抄』はいわゆる旧注(=国学以前の注釈)の最高峰とされる。だが、ほぼ同時代といってよい時期に『湖月抄』に匹敵する規模の注釈書が、牢屋預りであった幕府役人の手で著述されたという事実が大いに興味を惹く。
  
   全巻揃った写本は、東北大学図書館にある。今一つ、国立公文書館に蔵されている13巻本(桐壺から須磨まで)を見ると、端正な筆づかいで記され、誤った箇所には紙片を貼るなど、丁寧な処理を施してある。もしこれが単なる浄書でなく、読解・考察しながらの執筆であったとすると、かなりのハイペースで書いたことは確かだ。
  
   例えば、桐壺を終えたのが延宝7年9月15日であり、帚木上を同年10月5日、帚木下を10月20日には記し終えている。続く夕顔などは80丁(=160ページ)近くある。それを11月4日から12月12日までのわずか1カ月強で仕上げているのだから驚く。1ページ15行と字数が少ないことは問題にならないだろう。
  
   明暦の大火において自らの命を顧みず囚人を解き放ったというだけでも、十分に感銘に値する逸事であるはずだが、後半生において、『源氏物語』の注釈に没頭し完成したというのだから、もはや感服の域を超えた羨むべき人生だといっていい。
  
   だが、残念なことに、『窺原抄』はいまだ活字化されておらず、江湖にその名すら知られていない。吉深が季吟の影響をどこまで受けたかを含め、その評価については、今後の調査研究が俟たれるところである。
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (110)江戸の珍談・奇談(7)-1 2014/05/16
  

   刑務所が地震や火災などの災害に見舞われた場合、収監されている囚人はどうなるか。現在では「刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律」によって、避難できる適当な場所へ護送できない時は刑務所から「解放することができる」(第83条第2項)とされている。併せて、解放されたまま囚人が逃亡してはいけないから、「避難を必要とする状況がなくなった後速やかに、刑事施設又は刑事施設の長が指定した場所に出頭しなければならない」(同条第3項)と規定されていることは言うまでもない。
  
   この法律の背景は、もとを糺(ただ)せば江戸時代に実際に起きた事件がその淵源となっている。
  
   享保3年(1718)、大岡越前を含む時の町奉行3名(当時は北町・南町の他、中町に奉行を置いていた)が老中水野和泉守忠之へ差し出した書面に、明暦3年(1657)1月18日に発生した大火の際、牢屋預り(=牢屋敷の番を務める役人)であった石出帯刀(いしでたてわき)が以下のような行動に出たと報告している(適宜送り仮名等を付す)。
  
  >帯刀、大勢の囚人焼き殺し候ふ儀、不便(ふびん)に存じ、牢の手前打ち破り、囚人ども差し出だし、其の方ども存じの通り、鎰(かぎ)の儀は御番所にこれあり候へば、焼き殺し候ふ外これなく候へども、我ら一命に掛け追ひ払ひ候ふ間、随分欠落も仕らず、浅草新寺町善慶寺に参り候ふ儀に申し付け、百二十人余の囚人、翌十九日まで残らず参り申し候ふ。〈三田村鳶魚『江戸の珍物』156ページの引用文による〉
  
   猛火により牢屋敷も類焼を免れなくなったため、石出帯刀が牢屋の格子を破壊して囚人を逃がしてやった。百二十人を超える囚人らは翌日一人残らず指定の場所へ集合したというのである。
  
   自らの身命を賭して牢払いを行った石出の専断に対して、幕府は咎めるどころか、その臨機応変の判断を十分に評価した上、以後の火災にはこれを先例とするに至り、現在までそれが続いているのである。なお、戻って来た囚人らは特赦され、これも先例となった。
  
   「鎰は御番所にこれあり候へば」とある通り、牢屋預りは牢の鍵を管理する立場にない。鍵はすべて町奉行の許にある。従って、囚人が牢舎を出入りする場合には、その都度奉行の許可を得て遣わされた同心によって開閉されなければならなかった。だから、緊急事態に際して鍵のお伺いを立てている暇はない。格子を破壊するしか方法はなかったのである。因みに、時代劇などで見る牢屋の四面格子の構えは、石出自身の考案によるものであった(三田村同書159ページ)。太陽光の取り入れや換気などに配慮し、しかも監視しやすい設計としてよく知られている。
  
   恐らく石出は、囚人を逃がした時点で、切腹を覚悟していたろう。牢屋預りとは、幕府の役人とはいえ、牢屋の番人でしかない。三田村の引く『武鑑』(=大名や幕府役人の氏名・石高・俸給・家紋などの情報を記した一種の紳士録)には「石出帯刀、三百俵、小伝馬町、同心五十人」とあり、江戸役人の一番末に出て来る由(同書157ページ)。町奉行に属する吏員で、不浄役人とさえ言われていた。死罪人の処刑を執り行なっていたからである。そんな下級役人が独断で囚人の解放など出来るわけがない。
  
   しかも、収監されている者は未決囚である。江戸時代には懲役や禁錮という刑罰はない。つまり、囚徒とはいえ、服役囚ではなく、死罪・遠島等の処刑・処罰を待つ身である。それを逃がさないようにするのが役目であるから、そんな者どもを、一時的にせよ逃がすことなどおよそ考えられない。これ幸いと戻って来るはずがないからだ。
  
   ところが、一人残らず善慶寺へ集ったと上記書面では伝えている。いや、実際には戻らなかった者もあったのではないか。浅井了以『むさしあぶみ』は、明暦の大火の取材記録といった趣を持つ仮名草子であるが、この石出帯刀の果断な行動も書き留めてくれている。浅井は、この事件の顚末を記し終えた後で、遠慮がちに以下のように加えた。
  
  >其中に一人の囚人(めしうと)、しかもいたりて科(とが)の重かりしが、よき事におもひて遠く逃げのび、我が古郷(ふるさと)にかへりしを、在所の人々、此ものはたすかるまじき科人なるに、のがれてかへりしこそあやしけれとて、つれて江戸へまいりければ、奉行がた大きににくませ給ひて、ころされしとなり。〈万治4年(1661)年刊、国立国会図書館本、16丁表〉
  
   三田村は、さらに『天和笑委集』(貞享年間-1684~88-に成立した、大火の見聞録)からも同趣の話を拾っている(同書156ページ)。遠く遁れた二人の囚人のうち、一人は帰ろうと言って江戸に戻り恩赦を得たものの、今一人は帰れば殺されると言って、逃げられるだけ逃げようと、故郷へ帰ったところが、土地の者に怪しまれ、江戸へ連行されて死罪に処せられたという。ここまで来ると、いかにも粉飾した跡がありありと見える。多分、浅井の方が真実に近いのであろう。
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (109)江戸の珍談・奇談(6) 2014/05/04
  

   先日、某市の職員が副業によって多額の副収入を得ていたことが報じられた。某市の給与水準は全国一だという。にもかかわらず、というのはひがみかもしれないが、不正でも副業が行えるほど職場での仕事に時間的余裕があったことは明白だ。
  
   世に没義道な悪吏の種は絶えない。人の世であるかぎり、廓清は不可能であるかもしれない。
  
   江戸時代といえば、時代劇に登場する遠山の金さんや大岡越前のような名奉行を思い浮かべるであろう。一方、悪徳商人から袖の下を受け取っては便宜を図ってやる悪代官というイメージもあるかもしれない。だが、ここに紹介する奉行は、むしろ職務に厳格を極めたため、却って逸脱してしまった例である。
  
   盗賊奉行山川安左衛門は、般若面の源七、鬼の子の儀兵衛という悪者を目明しとして使っていた。この両人のために江戸中どれだけ迷惑したかしれない。少しでも挙動不審を示す者、ぽっと出の田舎者などを捕えて牢舎に繋ぐ。さらに拷問にかけて、無理やり放火犯に仕立ててしまう。こうして仕置きされる者が、月に16、7人に及んだ。
  
   照りふり町の一隅に数珠屋があった。上総出身の者を雇い、小網町へ使いに出したところ、山川の目明しに捕えられた。上京間もない時期であるから、要領を得ない。怪しまれて牢へ入れられた上、拷問による苦しさの余り放火を白状してしまう。
  
   日本橋で晒し者になると聞き、数珠屋が確かめに行くと、盗みの目的で火付けをしたとある。ところが、上総から上京した月と制札の月とが食い違っていた。2月に江戸へ出たばかりなのに、火付けは去年の5月とある。これでは余り可哀そうだと思い、直ちに町奉行所へ訴え出た。犯行の月にはまだ上京していないはずだからと、再度の吟味を願い出る。すると仕置きは日延べとし、翌日の詮議となった。
  
   数珠屋は縷々事情を述べ、上総にいる両親を呼び出して問うてくれと訴える。そこで、件の下男を再度事情聴取したところ、放火の覚えは全くないが、拷問を加える役人が、苦しかったら火を付けたと言え、と言うので、余り辛いから自白したと申し立てた。
  
   これによって、儀兵衛及び源七は召し取られて磔に処せられ、山川も不首尾として奉行解任となった。〈『江戸真砂六十帖広本』巻之五、『燕石十種』第4巻74ページ〉
  
   山川のやり方も、治安維持を厳重に行おうとしたためであろうが、行き過ぎはやはりよくない。同じく盗賊奉行にあった赤井七郎兵衛も、職務に忠実であろうとした。
  
   赤井七郎兵衛は、盗賊奉行として博奕打ちを特別厳しく取り締まった。磨屋の勘兵衛という勝負師、博奕組合の名代を務める者などを残らず召し取り、千住で磔に処したことがある。勘兵衛は馬に乗りながら、赤井に対して悪口雑言を浴びせ、これまで博奕打ちにこんな仕置きをする掟はない、と千住までの道中、罵り通しだったという。さすがに前例のない厳しい処置であったため、不首尾として御役を召し上げられてしまった。〈『江戸真砂六十帖』巻の五、同第1巻154ページ〉
  
   余りに厳し過ぎれば、抑圧された民衆の怒りは爆発する。
  
   藤掛民部は盗賊方改を二度勤めた奉行であるが、厳格に過ぎて江戸中の者が難儀していた。御役御免となると同時に、誰が知らせるというわけでもなく、町々から人々が藤掛の所へ押し寄せた。その数およそ四・五百人。藤掛に対する悪口を発し、瓦や石を投げ付け、表門を打ち破り、玄関の戸障子も破壊したのだった。邸に居合せた藤掛は、この有様を見て、門から中へ入れば斬るぞと待ち構える。群衆は石を投げ、悪口を浴びせるだけで、中へは突入しないでいる。侍どもは恐れて群衆に立ち向かおうとしない。
  
   この騒動により、奉行所から捕り手が駆け付け、首謀者二・三人を捕えて遠島に処した。前代未聞の事件である。〈『江戸真砂六十帖広本』巻之七、同第4巻82ページ〉
  
   白州(=奉行所のお裁きの場)で、こちらがいくら無実であっても、吟味役など公辺の非を難じたりしただけで所払い(=追放)となった時代である。投石に器物損壊、それに名誉棄損を加えて島流しなら、江戸時代にしては軽い方だ。
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (108)江戸の珍談・奇談(5) 2014/04/25
  

   江戸の俗談を拾遺した書の中には、紅灯緑酒の間に流連荒亡する者が多く登場する。酒色、芸道、ギャンブルに耽溺して恒産を失うのは、今も昔も変わらない。自業自得と言えばその通りなのだが、人間の弱さを露呈して憐れさを誘う。
  
   江戸霊岸島に御用聞きの材木商を営む奈良屋茂左衛門という分限者(=金持ち)があった。日光東照宮の修復に必要な木曾檜を獲得するために才智を傾ける。材木は柏木太左衛門が独占していたため、そこから仕入れるしかない。入札希望者は柏木に相談のうえ値を決めたのだが、茂左衛門はそれらを斥けて入札に成功する。さらに、貯蔵していた材木の供出を出し渋った柏木を公辺へ訴えて引き出させると、柏木は不届きであるとして、伊豆の新島へ遠流されてしまう。
  
   こうして家財残らず闕所(=没収)となった柏木に材木の代金を支払うことなく、丸儲けとなった奈良屋は40万両という大資産を二人の息子に残した。
  
   さて、兄茂左衛門は、気質大いに豪気であったから、名代の幇間(たいこもち)を数多く引き連れては吉原へ繰り出す。あるいは堺町、葺屋町で昼夜を問わず遊蕩する。吉原で馴染みの芸妓玉菊が病死すると、新町加賀屋の女浦里を請け出す。幇間とともに上方へも遠征し、7か月余りも遊里に逗留する。だが、その道中から病が付き、わずか31歳で死んでしまった。
  
   弟安左衛門は、兄と異なり始末第一の堅実な性質だったが、古掛物、画賛、珍器等を金に任せて収集する趣味があった。幕府の役人が求めて得られないような珍物は、安左衛門の所に頼ったほどだという。安左衛門は代価を望まず、御用聞き格にしてくれるよう願ったため、兄の名跡をも取り込み、一段と店の格が上がった。
  
   ところが、ここからがよくない。堺町に遊ぶようになり、芝居小屋へ資金を投入すると、役者付き合いをし始める。高級料亭の二階で名月の催し、子供を大勢集めての大騒ぎ。三味線名人を一時(=2時間)一分(=1両の4分の1)で呼び寄せ、三日間の遊興で500両を使い果すことさえしたから、江戸中から芸者が集まり、奈良屋へ行かぬ者は世上の付き合いの恥だとさえ言われるようになった。
  
   こんな蕩尽を繰り返せば、いくら財産があっても足りるはずはない。満ちれば欠ける習い、金繰りに逼迫すれば、万事に亙って損金を出すばかり。箱崎町に構える一町四方の大名屋敷もとうとう利子が滞って人手に渡ってしまう。これを悲しみ、平井の聖天(燈明寺)へ断食して7日間参籠するが、今さら何をしても遅い。
  
   貯えた書画骨董を売り歩くものの、「如何ほど金を取ても、雪で造りし猿の如く」すっかり消失してしまった。〈『江戸真砂六十帖』巻の二、『燕石十種』第一巻139ページ〉
  
   1986年から91年にかけてバブル景気が盛行した。それがはじけた後には、似たような話を聞いたことがある。現在では、獅子文六『大番』を地で行く株式取引がパソコン上で容易に行えるようになった。無論、そこにも大なり小なり様々な哀歓が交錯しているに違いない。『江戸真砂六十帖』の編者は、「只一生長者とおもひ、蒔ちらしたる其体、口惜しき事なり」とこの話を結んでいる。放蕩三昧の末路を揶揄したり、過度に憐れんだり、また突き放したりしているのではない。一つ間違えば誰にでも起こりそうなことだと思っている。だから、「口惜しき事なり」と半ば同情に近い言葉が出て来るのである。
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (107)墓に生ふる木 2014/04/15
  

   二人の男性から求婚された女性が板挟みとなり、自らの命を絶つという伝説があります。菟原処女伝説もその一つです。菟原(今の兵庫県芦屋市の辺り)の処女(をとめ)をめぐって、千沼壮士(ちぬをとこ)と菟原壮士(うなひをとこ)が争いますが、それを苦にした処女が命を絶ちます。驚くべきことに、二人の男性も後追い自殺をしました。処女の墓を中心に二男性の墓も並び建てられたそうです。
  
   この伝説を田辺福麻呂と高橋虫麻呂が歌に詠みました(『万葉集』巻9、1801~1803番歌が田辺福麻呂歌、1809~1811番歌が高橋虫麻呂歌)。菟原処女伝説がよほどロマンチックだったのでしょうか、それとも福麻呂や虫麻呂の歌が非常に素晴らしかったのでしょうか。その後、天平勝宝2年(750)に、大伴家持も「処女墓の歌に追同」して歌に詠んでいます(巻19、4211~4212番歌)。
  
   歌の中で最も興味を惹かれるのは、生前処女が使っていた黄楊の小櫛を墓に刺しておいたら、それが木となって成長し風に靡いていたというところです。
  
  >……奥墓を 此処と定めて 後の代の 聞き継ぐ人も いや遠に 思ひにせよと 黄楊小櫛 しか刺しけらし 生ひて靡けり[巻19・4211の長歌]

   処女らが 後のしるしと 黄楊小櫛 生ひかはり生ひて 靡きけらしも[巻19・4212の反歌]
  
   櫛には霊が宿るそうですから(中西進氏『万葉集 全訳注原文付(四)』講談社文庫、4211番歌の注19)、黄楊小櫛には処女の魂が籠っていたのでしょう。それが成長して木となったとあることから、木は処女の生まれ変わりであり、処女の変身物語とも言えましょう。
  
   髙橋虫麻呂の歌には、処女の墓の上に木があり、千沼壮士の墓の方に靡いていたとありますが(1811番歌)、黄楊小櫛が木になったと詠ったのは大伴家持だけです。木の生命力と不思議な霊力を信じていたのかもしれません。
  
   六朝時代の志怪小説『捜神記』にも似たような話があります。巻11の「相思樹」の話です。宋の康王の侍従であった韓憑(びょう)は、妻を康王に奪われます。憑は自殺し、妻も後を追いました。妻は「私が死んだらせめて死体を憑と一緒に埋めてほしい」という遺言状をしたためていましたが、康王は怒り、二人を一緒には埋葬させず、墓を向きあうように造らせたそうです。
  
  >すると、幾晩もたたぬうちに、両方の塚の端から大きな梓の木が生えて来た。そして十日もたつとひと抱えにもあまるほどになり、幹を曲げて近づきあい、下の方では根が、上の方では枝が交錯し始めた。また雌雄一羽ずつの鴛鴦がいつもその木をねぐらにして、朝から晩まで枝を去らず、首をさし交えながら悲しげに鳴く。その声は人々を感動させたのであった。[東洋文庫226頁]
  
   宋の人々は哀れに思って、その木に「相思樹」と名づけたそうです。鴛鴦は韓憑夫婦の魂魄だという説もありますが、塚(墓)から生えた梓の木こそ韓憑夫婦の生まれ変わりでしょう。二本の木が合わさって「連理樹」となったのです。塚の木は夫婦愛の強さの象徴です。
  
   時代は下りますが、夏目漱石の『夢十夜』(1908年)にも、墓石の下から青い茎が伸び、真っ白な百合の花を咲かせるといった描写があります。第一夜で、「女」は「自分」に「死んだら、埋めて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ちて来る星の破片を墓標に置いて下さい。」と言います。女が亡くなった後、自分は、言われた通り真珠貝で穴を掘り女を埋めました。百年後、女の墓石の下から青い茎が伸び、真っ白な百合の花を咲かせます。女が白い百合となって自分に逢いにきてくれたのだと考えられます。
  
  >それでも百年がまだ来ない。しまいには、苔の生えた丸い石を眺めて、自分は女に欺されたのではなかろうかと思い出した。

   すると石の下から斜に自分の方へ向いて青い茎が伸びて来た。見る間に長くなってちょうど自分の胸のあたりまで来て留まった。と思うと、すらりと揺ぐ茎の頂に、心持首を傾けていた細長い一輪の蕾が、ふっくらと弁を開いた。真白な百合が鼻の先で骨に徹えるほど匂った。そこへ遥の上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。

   「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。
  
   木ではなく可憐な百合が長い年月を経て白い花を咲かせるという、とてもロマンチックな設定になっています。
  
   人間が木や花になって生まれ変わるという設定には、土葬や輪廻の思想の影響があったのでしょう。人が亡くなった後、埋葬すると、人は大地に還り養分となってそこに生える木々を繁茂させる、だから、墓に木々が生えてくるのは亡くなった人の生まれ変わりだと古代人は考えたのだと思われます。
  
   ラフカディオ・ハーンの小説『チータ』(Chita:A Memory of Last Island、1889年)にも、同様の表現があります。1856年8月10日、ニューオーリンズを襲った大津波で家族が行方不明となり、自分だけ救助されたジュリアンは、半年ぶりに故郷のニューオーリンズに戻ってみると、自分や妻、娘の墓が建っているのを目にしました。墓の蓋の隙間から生きのよい雑草が生えています。シュー・グラ「脂味のあるキャベツ」と呼ばれる植物です。ジュリアンはこう思うのです。
  
  >……ひょっとしてその植物は、暗黒の中で根を張る場所を求めて、思いもかけぬ滋養をその中に見つけたのではなかったか。土中に埋葬された故人の心臓のなにかが、この植物の茎を通って上にのぼり、紫色やエメラルド色の生命と化しているのではなかったか。そのなにかがあの透き通った光を帯びる若葉を流れる液や、野生の漿果の甘い汁と化しているのではなかったか。(『チータ』第2部の7)[『カリブの女』河出書房新社、平川祐(示+右)弘氏訳、77頁]
  
   ハーンは『チータ』で、墓地における盛んな生命活動を「大自然による復活」「肉体の不思議な変容」「霊魂の驚嘆すべき輪廻」と表現しています。
  
   ボッカッチョ『デカメロン』(14世紀)にも、女が彼女の兄弟によって殺された恋人の頭を鉢に埋めてサレルノ産の美しいバジリコを何株か植え、毎日その上で長いあいだ涙を流すと、その鉢の中の頭が腐って土が肥えてきたためか、バジリコがたいへん強く香り、まことに美しくなったとあります(第四日第五話)。こちらは少々不気味ですね。
  
   いろいろ見てきましたが、ハーンの言う「肉体の不思議な変容」「霊魂の驚嘆すべき輪廻」をロマンチックに表現したのが大伴家持の菟原処女の歌であり、夏目漱石の『夢十夜』ではなかったかと思うのです。どちらも亡くなった女性の生まれ変わりを信じて、美しく謳いあげています。
  
  

  (し)
  

  
  

  ### (106)江戸の珍談・奇談(4) 2014/04/05
  

   昔、甲斐の国の相撲取りに大井光遠(おおいのみつとお)という、背は低いが力が強く、めっぽう足の速い、容儀立派な男がいた。その偉丈夫に、26・7歳になる物腰も柔らかで姿もほっそりとした妹があった。ある時離れ家に住んでいた妹の所へ押し込み強盗が入り、妹を人質に取り、腹に刀を差し当てて脅す。
  
   兄の光遠に事件発生を人が伝えると、「天下無双の相撲取りである薩摩の氏長ででもなければ人質にはできまい」と答え、悠然として動じない。告げた者は、奇妙に思って妹の家へ取って返す。物蔭から覗けば、薄い一重に紅の袴を着けた妹が怖さからか袖で口を覆っている。その後ろから両足で腰を挟むようにして大男が大刀を逆手に持ち、妹の腹へ当てていた。
  
   妹は、左手で顔を塞いで泣きながら、作りかけの矢柄(=矢の幹)の節の部分を右手の指先で板敷に押し当ててこすり付けている。すると、柔らかい朽木を押し砕くように矢柄が微塵になってしまった。強盗はそれを見て仰天する。
  
   「どんな大力の男だって、金槌でなければこうはいかない。怖ろしい力だ。このままでは俺はひねりつぶされるに違いない。今のうちに逃げよう」と思い、隙を伺って逃走したが、その先に待ち受けていた人々に捕えられてしまった。
  連行されて来た強盗に光遠が逃げた理由を問うと、その力の恐ろしさの余り逃げた由を答える。光遠が笑って、「妹は刀に突かれはしない。突こうとする腕を取って、逆にひねり上げ、肩の骨が突き出るほどねじってしまう。お前は腕を抜かれなくて幸運だった。俺だってお前を素手で殺すことぐらいわけはないのだ。もし妹が腕をねじ上げて腹や胸を踏んだら、生きてはいられまい。妹は俺の倍の力を持っている。見かけは細いが、俺が戯れに捕えた腕をちょっと摑んだだけで、痛さにこちらが指を拡げて放してしまうほどだ。男子でなかったのがいかにも惜しい」と言って怯えさせ、さらに、妹が大鹿の角を膝に当てて、細い枯木を折るように折ってしまう、と畳みかけるように強盗の恐怖を煽った。〈『宇治拾遺物語』166、新大系329ページ〉
  
   『宇治拾遺物語』は周知のとおり、鎌倉時代の説話集である。平安末期に成立した『今昔物語集』にもこれと同じ話が載っており、大井光遠は一条天皇時代(在位986~1011)の人物であるから、話材はその辺りまで遡るのかもしれない。
  
   この妹は、自分の怪力に気付いていない風であるところがよい。美貌の裏に隠された意識せざる無双の腕力というのは、読者の意想外に出た魅力ある設定である。同趣の説話に、優男と侮った学生(がくしょう)に意外な怪力を示され、相撲取りが薪のように投げ飛ばされたばかりか、足首をもぎ取られてしまうという話もある〈同、31、新大系69ページ〉。
  
   さて、この種の話題は江戸時代にも受け継がれ、絶えることがない。華奢な美人が怪力を発揮する話を一つ紹介しよう。
  
  >江戸音羽町の茶屋石見屋(いわみや)の女房におしげという、物静かで優しい、器量よしの女がいた。石見屋の宝と称せられたこの女は、見かけと異なり怪力の持主であった。それまで他人の目に触れることは絶えてなかったのだが、相撲取りを軽くひねったことから、広く知られるようになる。その頃、同町内に音羽山峰右衛門という相撲の年寄がいた。若手を大勢引き連れて蓮光寺へ繰り出すと、参詣の男女が夥しい。相撲取りどもは若い女を見つけてはからかっている。ちょうどおしげもそこへ参詣していた。相撲取りが近づき、女の尻を撫でる。知らぬふりをしていると増長し、さらに戯れかかる。そこでおしげは相撲取りの手を捕えて膝の下に踏み敷き、力を加えて押さえてしまった。大男の相撲取りは、腕がひしげ、骨が砕けるかと思うほどの圧力に耐えきれない。見る見るうちに男の顔が蒼白となり、額には脂汗がにじむ。涙ぐんで顔をしかめながら苦しがっている。ところが、おしげは顔色一つ変えず、懐から水晶の数珠を取り出し、お題目を唱えて少しも騒がない。群集が男に代わって詫びたため、おしげはようやく解放してやった。〈『当世武野俗談』―『燕石十種』第4巻、117ページ〉
  
   力自慢を売り物にしない奥ゆかしさがこの手の話には必須の要素となる。その点、おしげはクールで恰好いいヒロインだ。
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (105)夢で逢える 2014/03/26
  

   『うつほ物語』楼の上・下巻で、俊蔭の娘は七夕に波斯風の琴を弾きます。波斯風の琴とは、父の俊蔭が亡くなる時、「幸ひあらば、その幸極めむとき、禍極まる身ならば、その禍限りになりて、命極まり、また、虎狼熊獣にまじりて、さすらへて、獣に身を施しつべくおぼえ、もしは伴の兵に身をあたへぬべく、もしは世の中に、いみじき目見たまひぬべからむときに、この琴をばかき鳴らしたまへ」――極限状態に置かれた時に弾きなさいと言って授けてくれた、大切な形見の琴です。波斯風の琴は俊蔭一族の危機を救い、一族に幸福をもたらしてくれるといった役割があります。
  
   さて、俊蔭の娘が波斯風の琴を弾いた時に奇跡が起きたことは、以前「『うつほ物語』の七夕」でお話しいたしましたが、それに引き続き、仲忠が俊蔭の遺文(漢詩)を誦しています。なんとこの後、俊蔭が俊蔭の娘の夢に登場します。
  
  >大将もうち臥したまひ、尚侍の殿も、琴に手をうちかけて、いささか寝入りたまふともなきほどに、見たまふやう、「むかしのものの声の、さもあはれにめづらしく聞きはべりつるかな。大将も、御楽の声も、あはれに愛しうなむ。…」と、治部卿の御声なり。[新編日本古典文学全集③553頁]
  
   俊蔭の娘や仲忠の演奏が心に深く染み入って面白い、と俊蔭は言います。俊蔭の娘は俊蔭が亡くなってからというもの、せめて夢の中だけでも会いたいと思ってきて、全く姿を現してくださらなかったのがようやく夢に出てきてくれた、と泣きました。
  
   俊蔭が亡くなってから30年以上過ぎている計算になります。それに、俊蔭の死後、仲忠が生まれていますから、俊蔭と仲忠は直接会ったことは一度もありません。つまり、亡くなった後も、俊蔭の娘のことを見守り続けていたからこそ、仲忠のことを話題に出せたということになります。
  
   ここで思い起こされるのが、『源氏物語』の夢です。光源氏が須磨で暴風雨や雷に見舞われた時、夢の中に父である故桐壺院が現れ、「などかくあやしき所にはものするぞ」と源氏の手を取り引き立て、「住吉の神の導きたまふままに」「はや舟出して、この浦を去りね」と告げます(明石巻)。この後、源氏は明石に導かれ、明石の君と出会って娘を儲けたり、政界復帰を果たすことになるので、桐壺院は息子の光源氏が心配で夢という形を借りて現れ、須磨をはやく去るように助言し、源氏を助けたと考えられます。やはり死後も、源氏を見守っていたことになります。
  
   生前、桐壺院は、光源氏と藤壺の密通を知らなかったのではないかと言われています。自分の妃である藤壺と息子の源氏が密通したことを咎めたり、悩んだりする場面が物語には描かれていないからです。死者にはすべてを見通す力があると考えたくなりますが、桐壺院は死後も密通の事実を知ることはなかったのでしょうか。知っていてそれでも息子を助けるべく姿を現したのか、生前のことまでは見透かせないまま姿を現したのかは、物語からはよく分かりません。
  
   さて、藤壺も死後、光源氏の夢に登場します。光源氏が紫の上に藤壺、朧月夜、明石の君といった女性たちの批評をした直後、藤壺が光源氏の夢枕に立ち、「いみじく恨みたまへる御気色」で「漏らさじとのたまひしかど、うき名の隠れなかりければ、恥づかしう。苦しき目を見るにつけても、つらくなむ」(朝顔巻)と恨み言を言いました。紫の上の前で、自分のことを話題に出した光源氏を藤壺は恨めしく思い、成仏できずに彷徨いでてきたのです。
  
   物語に描かれる夢は不思議です。故人が現れ残された者を助けたり、諭したり、非難したりします。現代人は、嘘だと分かっていても、家族が亡くなった時、向こうの世界で先に逝った家族と再会し、仲良く過ごしているのだろうと思うことがあります。でも、『源氏物語』では、死後、桐壺院と桐壺更衣、あるいは桐壺院と藤壺が「おなじ蓮」に住み、仲良く過ごしているといった夢は描かれません。それぞれ単独で登場し、光源氏に語りかけるところが興味深いですね。
  
  

  (し)
  

  
  

  ### (104) 江戸の珍談・奇談(3) 2014/03/15
  

   世に金持ちというだけで妬み嫉まれるのに、守銭奴となると憎悪の対象にしかならない。ダンテ『神曲』では、金貸しは神への冒瀆と同罪として扱われるほど重い地獄に位置づけられている。『ヴェニスの商人』や『金色夜叉』に見られるとおり、戯曲や小説では悪役として描かれることが多く、どうも良い印象は持ちにくい。
  
   江戸時代の人々も、当然のことながら悪徳金融業者に対しては同様の受け止め方をしていた。『当世武野俗談』(馬場文耕編、『燕石十種』第4巻)からその一話を拾って紹介しよう。
  
  下谷三崎町に車婆々(くるまばば)と呼ばれる高利貸しがいた。出自は決して卑しくなく、御徒士(おかち)として70俵5人扶持を受ける御奉公人を夫としていた。夫病死の後、息子郡次郎が家督を継いだが、身持ち不行跡のゆえ、浪人の身となった。だが、その際、養育金やら店賃やら150両余りを公儀から受け取っていたため、根津の女郎屋、浅草の茶屋、芝居小屋などへ1両、2両と貸しては高利を取っていた。1両につき1か月に銀12匁というから、金利20%の暴利である。そればかりではない。礼金として3匁徴収する。1両(銀60匁)借りたとすると、あらかじめ15匁を差し引き、45匁しか手渡されない。1か月を過ぎると、さらに延滞金が利息に加算される。ほんの二月三月放っておいただけで、とんでもない金額になる。因みに、江戸幕府は年利20%を上限としていた。無論、この婆々の取った利息は明らかな違法である。なお、原文では利息を「利足」と表記する。お金のことを「おあし」とも称したことによる宛て字に違いないが、面白い。
  
   借金の取り立てが苛烈を極めたことはいうまでもない。家を取り壊し、家財を押収する。風雨にも負けず、毎日貸し付けた所を催促して歩く。青茶の布子に上田縞、紺の帯を締めて、真鍮の矢立を腰に差し、ぐるぐると取り立てに回る姿は「いか成る鬼のやう成る者も動ぜぬ悪意地者なり、此婆々を見るとぞつとすると云」(139ページ)と評せられるほどであった。
  
   そうしているうちに、同類が現われる。同じ町の「渋紙婆々(しぶかみばば)」と呼ばれる同業者だ。気脈を通じたこの二人、連れ立って取り立てにわめき歩くことになった。まさに「三途川姥が分身したるか」(同ページ)と疑うほどである。車銭(=丸い硬貨)を貸すからか、両人が車の両輪のようだというわけか、雨の日も風の日もぐるりぐるりと回るというのか、人々が「車婆々」と呼ぶようになった。
  
   金貸しには借り手が自然と集まるものである。特に賭博に使う金はその日限りが多い。婆々の事業は拡大する一方だった。1両を1日貸して200文の利息を取る(5%)。明日までは待てない。もし翌日になってしまえば、利息は400文となる。1両が4000文だから、20日で元金の倍となる計算だ。
  
   この婆々の金はもともと公儀御徒士衆にあった。そこで烏金(からすがね)と揶揄された。御徒士が黒縮緬の羽織を着ていたからである。また、2、3年連れ立った渋紙婆々が死んだ後、車婆々一人になったため、片輪車と人々は呼んでからかった。さらに、茅屋町の茶屋の女たちは、この婆々のことを「高田婆々」とも呼んだ。越後高田の城主榊原氏が片輪車を紋所としていたからだという。
  
   この車婆々は、時代劇に登場する陰険な金貸しと違って、何となくユーモラスでさえある。渾名を付けてからかうくらいだから、人々も心底から憎んでいたわけでもなかろう。恐らく、この婆々は、ほとんどの場合、困窮を極めて貸しても返せないと判断した者には初めから貸さなかったのではないかと想像される。暴力に訴えてでも、あるいは草の根分けても捜索して取り立てるという峻烈を極めた姿勢がもしあったのなら、「車婆々」という程度の渾名で済むはずはないからだ。
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (103) 閨怨詩 2014/03/05
  

   王昌齢(盛唐の詩人)に「閨怨」(夫の帰りを待つ妻の嘆きの意)という漢詩があります。
  
  >閨中(けいちゅう)の少婦愁いを知らず

    春日妝(よそお)いを凝(こ)らして翠楼(すいろう)に上る

    忽(たちま)ち見る陌頭(はくとう)楊楊(ようりゅう)の色

    悔ゆらくは夫壻(ふせい)をして封候(ほうこう)を覓(もと)めしめしを

  
   王昌齢は、若妻の立場になって夫を戦場に送り出してしまったことを悔いる詩を詠んでいます。ある春の日、何の愁いもなかった若妻は美しくお化粧をして、楼に上ります。楼からは、大通りのほとりの柳が芽吹いているのが見えました。去年の今頃、「戦功をあげて大名になってね」と夫を送り出したことが悔やまれてならないと詠っています。生命が芽吹く春に、愛する夫がいない――何とも傷ましいですね。
  
   閨怨詩では、妻を残して夫が戦場に出かける姿が多く詠まれます。夫が赴くのは国境の辺り、つまり辺境の地です。
  
   閨怨詩は、平安貴族にも非常に好まれました。『文華秀麗集』中巻・艶情に、嵯峨天皇の「春閨怨」に唱和した詩「奉和春閨怨」が3首(作:菅原清公・朝野鹿取・巨勢識人)も並んでいます。菅原清公の「奉和春閨怨」には、「願はくは 君学ぶこと莫(なか)れ班定遠(はんていえん) 慊々にして徒(いたず)らに老ゆ白雲の端」とあり、長らく西域に滞在した班超の真似をして、いたずらにおじいさんにならないでと、夫の帰国を願う妻の気持ちが詠みこまれています。
  
   この詩には「桑乾(そうかん、河の名)を憶(おも)ふ」とあるので、夫は中国の北方地方に出征したことになっています。唐の玄宗の頃、北方の異民族突厥(とっけつ)との戦争が桑乾の源で行われました。平安時代の人々は、中国の北方地方など行ったことがないのに、まだ見ぬ辺境の地に想いを馳せ、閨怨詩を真似て、女の立場で漢詩を詠んだのです。
  
   清公の「願はくは 君学ぶこと莫れ班定遠 慊々にして徒らに老ゆ白雲の端」は、ちょうど湾岸戦争(1991年1月~)のさなか、恩師の最終講義で詠みました。鉛色の空と一面の雪景色で、とても寒い日だったことを覚えています。戦場に夫を送り出す妻の嘆きは、生涯忘れることのできない響きとなって、今でも時々口をついて出てきます。
  
   閨怨詩は愛の詩ですが、反戦の詩のようにも思われます。
  
  

  (し)
  

  
  

  ### (102) 江戸の珍談・奇談(2)  2014/02/25
  

   江戸本所吉田町にお梅という老女がいた。方々をほっつき歩き、どこでも商家の店先を借りて腰を掛ける。しばらくすると、急病を訴えて座敷へ上がらせてもらう。畳に座ったが最後、様々なゆすりを働きかけ、金を出さないうちは帰らない。深川、品川、両国付近では、お梅婆さんの姿を認めるや、すぐさま戸を立て、簾を下ろした。度々奉行所に召し取られ、牢獄にも入れられたのだが、さすがの大岡越前もこの婆さんには手を焼いたという。
  
   こんな話が江戸時代の随筆『江戸真砂六十帖広本』に載っている。これは戯作者岩本活東子の編んだ『燕石十種』に収録されたもので、この随筆集には、江戸時代の風俗、人情、珍談奇聞が満載されていて興味が尽きない。ほとんどが写本による稀書・珍書の類であるが、現在は中央公論社の活字版で読むことができる。ただし注釈は一切施されていない。因みに、「燕石」とは燕山から出る玉(ぎょく)に似るが玉でない石の意から、まがいものや価値のない物を指す言葉であり、言うまでもなく編者の謙遜である。
  
   大岡越前が出たついでに、同書から二話紹介しよう。講談などで粉飾された巷説ではなく、かなり実態に近い話のようである。
  
  >神田白壁町に丹波屋九郎兵衛という大酢屋があった。当時の亭主は伊勢出身の男で、音羽という吉原女郎に血道を上げた挙句、心中未遂をしてしまう。奉行所での吟味の後、両人とも日本橋で三日間晒し者にされた後、非人の手下として下された。丹波屋は品川の松右衛門、音羽は善七小屋へと引き渡されたのである。情死を図って生き残った場合の処置として、これが手本となった。〈江戸真砂六十帖広本 巻之六―『燕石十種』第四巻、80ページ〉
  
   心中して両人ともに死ねば、寺での供養は許されない。遺体は直ちに千住小塚原に棄てられた由。上記の処置は大岡越前が最初に行なったもので、「理屈よき仕置なり」と筆者による割注が付いている。
  
   次に、大岡越前が唯一扱ったという刑事裁判である「白子屋阿熊(おくま)」一件の概要を掲げよう。
  
  >新材木町に白子屋庄三郎という御用聞きの富裕な材木屋があった。二人娘のうち妹は「お熊」といい、大変な器量よしでしかも洒落者である。その母も劣らず美人の誉れ高く、両人とも着飾ることに余念がない。夫庄三郎は気が弱く、妻の言いなりである。お熊に婿を取ることとなった。大伝馬町川喜田の番頭で、五百両の持参金付きである。だが、小男で気質も卑しいため、気位の高いお熊の気に入るはずもない。この男を嫌忌するうち、少し才覚のある手代忠七とお熊が密通してしまう。婿を除きたいが、身代が傾くほど浪費していたのだから、五百両を返す当てはない。そこで、母と相談した上、年季奉公の小女に教唆して婿の殺害を依頼する。ある夜、泥酔して帰った婿が寝入った頃を見計らい、お熊から渡された小刀で小女が婿の咽を突く。ところが震えて思うように手が動かない。起き上がった婿が小女を取り押さえ、家人を呼び立てる。もはや内密に済ませることはできず、奉行所へ届け出る。小女は牢舎申し付けられた後に磔、お熊と手代は獄門にかかり、父庄三郎は監督不行届きにより所払い(=江戸追放)、母は三宅島へ遠流となった。〈同、80ページ〉
  
   『江戸真砂六十帖広本』によれば、「白子屋娘一ツ印籠の事」というタイトルに掲げてあるとおり、お熊は「一つ印籠」という異名をとっていた。「一つ印籠」とは、印籠一つだけを腰に下げる、江戸初期の伊達な身なりを指すという。ところが、講談本になると、これが母(常という)の渾名とされている。さらに、夫庄三郎の目を掠めて髪結清三郎と不義密通をしていたばかりか、婿を追い出すため、小女(きくという)を唆して、婿に不義を持ちかけさせたというおまけまで付く。講談本は恐らく、燕石十種本に収録される『近世江都著聞集』中の「新材木町白子屋お熊仇名の弁」「白子屋一族亡失の弁」に依拠したものであろう。同書での白子屋一件は詳細を極め、御仕置書(=判決文)まで掲載している。上記の刑罰の記事はこれに依った。また、どこまで本当か分らないが、ご丁寧にも、この事件を喧伝した当時の狂歌を載せてくれているので、一首紹介しておこう。
  
  >白子やを下からよめば親ころし聟(むこ)を殺さんたくみなりけり〈第五巻25ページ〉
  
   市中引き回しの際、お熊は白無垢の下に黄八丈を着していたという。それ以来、巷の婦女子は黄八丈の小袖を忌み嫌い、着る者がなかった。このような反応に対して『近世江都著聞集』の編者は大きな間違いだと言い、「何んぞかれに因て是を捨べけんや、惜ひかな」と嘆いたものの、「されども、不義の女着ける服なればとてきざる心は、善にもとづく処か、猶々後をよく慎むべき事也」と結局態度を保留したままにした。
  
  

  (G)
  

  
  

  ### (101) 異界からやってくる鳥 2014/02/15
  

  >世の中を 憂しとやさしと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば
  
   これは山上憶良の歌で、有名な「貧窮問答歌」に添えられた短歌(反歌)(『万葉集』巻5・893)です。「世の中はつらいもの、恥ずかしいものと思うけれども、飛び立つことができない。(人は)鳥ではないのだから」と、鳥のように自由に飛べない人間は、煩悩に満ちたこの世から逃れることができないと詠っています。もしも翼を持っていて、あの時、ここから飛び去れていたら、と思うこともあるでしょう。
  
   古代、鳥は死者の霊魂を運ぶものと考えられていました。珍敷塚古墳(福岡県、6世紀後半)の壁画に描かれた船には舳先に鳥がいます。鳥が先導役となり、船で被葬者の魂をあの世へと連れてゆく図だそうです。『古事記』には「天鳥船」という神(鳥之石楠船神の別名)が登場しますが、鳥や船には死者の霊魂をあの世に運ぶ役割がありました。
  
   時代が前後しますが、水鳥を模した鳥形埴輪(兵庫県朝来市・池田古墳〈5世紀前半〉出土など)も同様に、亡くなった人の魂を死者の世界に運ぶものと言われています。
  
   古くは、後氷期の狩猟採集民が、このような信仰を持っていたようです。デンマークのヴェドベックにある墓では、若い母親のそばに、白鳥の羽根の上に寝かされた新生児が埋葬されていたそうです(アリス・ロバーツ編著『人類の進化大図鑑』河出書房新社、2012年9月、203頁)。きっと赤ちゃんがちゃんと死者の世界に行けるよう、白鳥の羽根を敷いてあげたのでしょう。埋葬者の優しい心遣いと祈りが伝わってきます。
  
   また、佐倉市白銀の高岡新山遺跡から出土した骨壺(8世紀後半)からは、壮年の男性とみられる人骨と一緒に白鳥の翼の骨が見つかったそうです(読売新聞2011年2月22日朝刊)。新聞には、人が白鳥とともに埋葬されたケースは全国でも例がないということ、骨壺に入っていた白鳥の骨が少量であったことから、装飾品であった可能性もあるとあります。この出土例もおそらく、被葬者が無事あの世に行けるように、白鳥の翼を一緒に埋葬したのではないでしょうか。
  
   洋の東西を問わず、古代人が鳥を信仰し、死者を手厚く葬っていたことが窺えます。
  
   さて、この世とあの世を行き来する鳥としては、渡り鳥であるホトトギスや雁がよく知られています。例えば、ホトトギスは夏の鳥として和歌に詠まれますが、昔の人々は、異界(あの世)からやってくる鳥だとも考えました。
  
  >なき人の 宿戸に通はば ほととぎす かけて音にのみ 鳴くと告げなむ(『古今集』巻16・855)
  
  >死出の山 越えて来つらん ほととぎす 恋しき人の 上語らなん(『拾遺集』巻20・1307)
  
   『拾遺集』の歌は、宇多天皇に愛された歌人伊勢が幼い皇子を亡くした翌年に詠んだもので、皇子の死後の消息をほととぎすに問いかけています。ほととぎすは、山中の他界である「死出の山」を越えてやってくると考えられていました。
  
   鳥のように翼を持ち大空を駆け巡りたい、どこか知らないところへ行きたいという気持ちは、現代人にもあります。そして、もしあの世というものが存在するのなら、鳥よ、亡くなった人々の消息を知らせてほしい、そう思う気持ちも痛いほどわかります。
  
  

  (し)
  

  
  

  ### (100) 江戸の珍談・奇談(1) 2014/02/04
  

   『江戸真砂六十帖広本』から脱獄王の話を一つ。
  
   尾州九右衛門という盗賊の頭があった。日本左衛門に匹敵する大泥棒で、手下五六十人を率い、東海道は言うに及ばず、方々で押し込み強盗を働いていた。ある時、三河の国岡崎で召し捕えられ、牢屋に入れられたが、やすやすとその夜に抜け出す。また浜松の牢に入った折にも抜け出す。忍びの術を心得ていたらしく、並の盗賊ではなかった。
  
   脱獄の圧巻は、相模の国小田原で運が尽きて捕えられた時の方法にある。たまたま将軍が他界した直後であったため、仕置きが延引されていたところ、九右衛門は牢屋の番人に「長々お世話になりました。最期の名残に念仏を唱えたいがよろしいか」と許可を求めた。その分ならば苦しゅうない、勝手にいたせ、と番人が答える。九右衛門が高声に念仏を唱えると大変な上手である。退屈していた番人も声を合せて唱え始めた。
  
   番人たちは、煎り豆などを持参して茶を啜っている。それを九右衛門が所望すると、食べる振りをして豆を隠して貯え、茶を一杯下されと望む。遣わされた湯呑を取り落したふりをして割ってしまう。その欠片を手に入れるためである。
  
   さらに、蚊が多くて難儀するから、蚊帳が一張ほしいと願い出る。番人が目付の許可を得て蚊帳を吊ってやると、蚊帳の陰に隠れて、茶碗の欠片を竹の割れ目に並べて急ごしらえの鋸を作り、牢屋の格子を引き始めた。声高に唱える念仏に合せて引くから、誰も気付かない。そのうちに念仏の声が絶えたので、蚊帳の中を伺うと、もぬけの空である。
  
   小田原では追っ手を派したり、江戸へ飛脚を立てたりと大騒ぎである。ところが、足柄越えの手前で川普請を行なっていた百姓らが怪しい男を捕えたところ、九右衛門であった。長期間牢屋に入っていたため、足が思うように進まなかったのである。
  
   これに懲りた奉行所が、番人を増やし、油断なく警戒したため、九右衛門は遂に獄門に掛かり、刑場の露と消えた。〈中央公論社版『燕石十種』第四巻、87~88ページ〉
  
   江戸時代の牢屋の格子は木枠だったから、比較的切断しやすかったかもしれない。それが、近代以降は鉄格子となり、監視体制も格段に厳しくなった。だが、それをも突破し、生涯に4度の脱獄に成功した猛者が実在した。昭和の脱獄王と呼ばれた白鳥由栄(よしえ)である。
  
   白鳥の脱獄劇については、吉村昭『破獄』(昭和61年、新潮文庫)に詳しい(小説中、白鳥は佐久間清次郎という仮名を用いている)。1936年、独房の合鍵を巧妙な手段で造って青森刑務所を抜け出したのを皮切りに、1942年秋田刑務所、同44年に網走、47年には札幌と、看守や警察を嘲笑うかのように脱獄・逃走している。
  
   脱獄に至る計画性と頭脳の冴えは特別に優れていた。有名な例は、網走刑務所脱獄の方法だろう。食事として与えられる味噌汁を手錠のナットと視察窓の鉄枠に吹きかけ、腐食するのを待つという持久戦を採った。さらに、頭しか通らない孔から脱出するのに、肩の関節を外している。そんな特技ばかりでなく、身体能力は群を抜き、怪力無双であったらしい。
  
   秋田刑務所で収監された鎮静房は、明かり窓が天井についただけの独房で、稲荷房あるいはトーチカ房と呼ばれ、逃走不可能とされていた。にもかかわらず、3.2メートルもある天井まで昇り、その天窓を破って脱出している。道具が一切ないのにどうして昇ることができたか。ぜひ小説に当たっていただきたい。
  
   では、白鳥はなぜこれほど脱獄に執念を燃やしたのか。それは、人間的な扱いを受けなかったこと対するに抵抗だという。自分に対して酷薄に接した看守が当直する日をわざと狙って逃げていることからもそれは窺える。白鳥は、青森刑務所を抜け出た後、以前に小菅刑務所で世話になった看守長を訪れ、自首した。東京拘置所での訊問の際、なぜ小菅へ戻ったのかと尋ねると、「主任さん(=看守長)は、私を人間あつかいしてくれましたから……」と眼を潤ませて言った(『破獄』78ページ)。
  
   ところが、秋田刑務所では規定以上に苛酷な扱いを囚人に施しているという事実はなく、脱獄の動機は、妻子に会いたいという願望以外に看守に対する反感と寒気に対するおそれではないかと検事は推測した。また、小菅刑務所の所員のもとに自首して出たのは、戦局の悪化によって食糧事情が深刻さを増し、三食を約してくれる刑務所に入る方が賢明と思ったとも想像された(同、80ページ)。
  
   白鳥は、札幌刑務所を脱獄して半年後、札幌警察署管内琴似町で身柄を拘束されることになる。警察官が穏やかに煙草を差し出したことをきっかけとして、本人から名乗り出た。小説では、以下のように佐久間に語らせている。
  
  >「不審尋問された時、煙草をくれましたのでホロッとし、佐久間だと名乗ったのです。日本刀は持っていましたし、警察の旦那たちは私服で丸腰でしたから、オイッ、コラッ式でやられたら日本刀をふりまわして逃げましたよ。煙草一本で、気持がくじけました」〈『破獄』273ページ〉
  
   札幌から府中刑務所へ移送された佐久間を待っていたのは、脱獄計画など思い浮びそうにない肩すかしの待遇だった。所長の鈴江圭三郎は、まず四貫目もある佐久間の手錠・足錠を鉄鋸で切り外し、独房には花を置いた。囚人たちに競わせて栽培した花である。軽作業を与え、決して抵抗する対象を作らないよう扱っていると、ある日、花びらを掌に乗せて香をかいでいる佐久間の姿を看守が報告する。巡回しながら再び房の前へ行くと、床に落ちていた花びらが一片もない。花びらはどうしたのかという看守の問いに対して、佐久間は口を指差した。口をわずかに動かし、花びらを味わうように舌に乗せていたという(同、331ページ)。
  
   ところで、佐久間(白鳥)をどのように札幌から府中へ護送したか。吉村は、この小説を書くために、鶴羽菊蔵という元札幌刑務所長から聞き取り調査をした。鶴羽氏は、当時網走刑務所の看守長を務め、札幌では戒護課長の職にあった。佐久間の脱獄に二度遭遇するという貴重な体験を持つ最も重要な人物である。刑務所の所員も退官した者も口は極めて重い。受刑者についても出所者についても、プライバシーを徹底して守ることが義務付けられているからである。白鳥を仮名にする、事実を歪めない、白鳥はすでに物故者であるなどの理由から、ようやく体験談を話してくれた(吉村昭『人生の観察』―2014年 河出書房新書、119ページ)。
  
   札幌から府中への護送経過について吉村が「その記録はないのでしょうか」と尋ねると、鶴羽氏は、さあ?と首をかしげた。だが、その表情にはあるらしいと吉村は感じ取る。四度目に訪れた時、「物置にこんなものがありましたが……」と言って、数枚綴りの書類をテーブルに置き、鶴羽氏は庭に出て植木の手入れを始めた。それは、まさしく護送経過を記したものである。ノートに書き取る暇はない。吉村は、低い声でそれを読み、テープレコーダーに収める。しばらくして戻った鶴羽氏は、終始穏やかな眼で雑談をしていた(同書121ページ)。吉村の誠実な人柄と取材態度が齎した成果といっていい。
  
   なお、白鳥は府中刑務所で模範囚となり、1961年に釈放されている。
  
  

  (G)