Updated Date: 2019-03-13 16:42:28

エッセイ(文芸・編集)その1

高校生・短大生のための古典入門(99 〜 1)

(99) 紛るべき方なくその人の手なりけり… 2014/01/27

『源氏物語』胡蝶巻では、夕顔の遺児・玉鬘(22歳。父は昔の頭中将)を自分の子として六条院に住まわせている光源氏(36歳)が、彼女宛てに寄せられる多くの懸想文(恋文)を見て、期待通りになったと喜んでいます。多くの求婚者たちの中には、玉鬘が異母姉とも知らないで熱心に懸想文を贈って寄こす若君達・柏木(父は昔の頭中将で、母は四の君)もいました。

柏木の懸想文は、香を焚きしめた舶来品の薄藍色の紙に書かれ、それはそれは見事なものでした。

唐の縹の紙の、いとなつかしうしみ深う匂へるを、いと細く小さく結びたるあり。…手いとをかしうて、
  思ふとも 君は知らじな わきかへり 岩漏る水に 色し見えねば
 書きざまいまめかしうそぼれたり。[新編日本古典文学全集③177頁]

玉鬘の親代わりである光源氏は、勝手に中を開けて読みます。他のどれよりも柏木の手紙が気になったのか、光源氏は誰からの手紙であるか、右近(夕顔の乳母の娘)に尋ね、柏木の手紙であることを知りました。

源氏は柏木をいじらしく思い、まだ若いが「『見どころある文書きかな』など、とみにも置きたまはず」、その見事な書きぶりに、手紙をすぐには下に置こうともなさらなかったとあります。

光源氏は「いつか自然に姉弟とわかることもあろう」と言い、柏木をひどくからかうつもりはないことが分かります。しかし、一方で、玉鬘が他人の妻になるのはとても残念だと思い、時々父親らしからぬ意味ありげな態度をとったり、群がってくる求婚者を見て楽しんだり批評するあたり、いただけません。

さて、この柏木の素晴らしい筆跡が、11年後、柏木と光源氏の若妻・女三の宮との不義密通の場面で皮肉な結果をもたらすことになります。

光源氏47歳の時、女三の宮が懐妊しました。長年連れ添った女性たちとの間でさえ、久しく子どもが生まれなかったのにと、光源氏は不信に思いますが、体調不良の女三の宮を見舞います。突然やってきた光源氏に驚いた女三の宮は、柏木からの恋文を慌てて「御褥(しとね)の下」に隠したのでした。手紙はそのまま忘れられ、翌朝、光源氏によって発見されます。

皆さんもありませんか?家族に見られたくない物を自分の部屋に隠しておいたのに、いつの間にか発見されて勝手に使用されたり、日記を読まれたりしたことが…。女三の宮の場合は、不義密通の証拠となる柏木からの恋文ですから、とても深刻な事態です。光源氏が手紙を見つけた場面を原文で見てみましょう。

浅緑の薄様(うすやう)なる文(ふみ)の押しまきたる端(はし)見ゆるを、[光源氏が]何心もなく引き出でて御覧ずるに、男の手なり。紙の香などいと艶に、ことさらめきたる書きざまなり。二重ねにこまごまと書きたるを[光源氏が]見たまふに、紛るべき方なくその人(=柏木)の手なりけりと見たまひつ。[新編日本古典文学全集④250頁]

光源氏は、女三の宮のお腹の子が柏木との子であることを悟ります。一方、光源氏が柏木からの手紙を手にしているのを目にした小侍従(女三の宮に仕える女房)は、「いといみじく胸つぶつぶとなる心地す」、まったくもって胸がどきどきと高鳴るような心地がしたとあります。女三の宮も、事が露見したことが分かると、ただただ泣くばかりでした(「涙のただ出で来に出で来れば」、「ただ泣きにのみぞ泣きたまふ」)。

現代ならさしずめ夫が妻の携帯を見て、自分より若い男性との不倫メールを発見してしまうといった感じでしょうか。

筆跡は美しい字であれ、汚い字であれ、指紋と同じように、その人を特定できるものです。前途有望な貴公子・柏木の字は素晴らしく、折に触れ、宮中や貴族の間で絶賛されてきたことでしょう。見覚えのある美しい筆跡で、自分の妻への恋情が切々と綴られているのを目の当たりにした光源氏の驚きはいかばかりであったか。かつて、柏木の玉鬘への恋文を見てひとり楽しんだ光源氏は、手痛いしっぺ返しを受けたのです。

(し)

(98) 三遊亭圓朝『怪談牡丹燈籠』(11) 2014/01/15

圓朝は、前田備前守の江戸の留守居役勤めた出淵(いずぶち)太吉の兄である大五郎を祖父に持つ。本名を出淵次郎吉という。大五郎が妾腹の子であったため太吉が本家を相続し、自身は下総葛飾郡の一農民となっている。大五郎の長男長蔵は、太吉の養子となり、家督を継ぐべき身となったが、武道を嫌い、左官職を経て三遊亭圓生の門に入り、橘家圓太郎と称した。圓朝はその圓太郎の息である。芸人というだけでなく、武家の血が入っていたから、「普通の芸人には珍しき立派な品性見識を有ち、単なる落語家といふよりも勝れたる芸術家、自然に磨かれたる好紳士であった」(信夫淳平『反古草紙』昭和4年7月刊、有斐閣)と評せられるに至った。

安政2年(1855)、わずか17歳にして真打に昇進した圓朝が当初得意としていた演目は、芝居話であった。歌舞伎俳優などの声色を使い、話が進んで佳境に入ると後幕が落され、背景に芝居の道具建てが現れるという趣向である。

一流の寄席で真を打つことになった時、圓朝は、この機会に一挙に評判を取りたいと思った。そこで初代圓生の名を高からしめた芝居話を高座にかけることに決めた。初日、2日目と出し物を考え、仕度を整える。書割りを楽屋へ運び込むと、師匠である圓生が芝居道具を見て、今夜の出し物について確認する。前座が終り、自分の出番より前に出た師匠の高座を聞いて耳を疑った。圓朝が芝居話で演じることになっている演目を先にやってしまったのである。動顚したものの、何か演じなければならない。万策尽きて、書割りにこじつけられる話を急遽持ち出してその場を凌いだ。どう見ても意地悪としか思えない。楽屋へ下りて来ると、圓生の姿は見えなかったが、師匠のすわっていた楽屋蒲団から、嫉妬が黒い炎を上げているのが彼の目に見えた(小島政二郎『円朝』上)。

これは決して小説の上での誇張ではない。さらに、森銑三『新編明治人物夜話』(2001年8月刊、岩波文庫)に引く『漫談明治初年』から次のような逸話を紹介しよう。圓朝を師匠として親炙していた三遊亭一朝(いっちょう)の談話である。

円生からは、師匠もさんざんいじめられたのですが、その人がなくなってからは、子供を引取って世話していた。師匠はそういう情深い人でした。円生の子を世話した外にも、師匠がまだ小円太といって、円生の前座を勤めていた頃に、音曲師の勝蔵というのがあって、師匠をよく撥(ばち)でなぐったものだそうです。それだのに、後に勝蔵が病気で寝ついてからは、師匠は、「ワリを勝さんへ持ってお出」といって、届けさせました。これには勝公も涙を流してありがたがり、床から這出して、代地へ向って手を合せて、「相済みません。昔は大撥でなぐりこそすれ、眼を懸けたんじゃございませんに。それにこうして下さる」といって泣いたということです。(同書、286ページ)

師の恩には篤く報い、弟子を見ることもまた慈愛に満ちていたという。まさに人格者の名にふさわしい君子人であった。

圓朝の芸は、人情話において「平淡の物語と一本の扇子とで天下独特の声誉を博」し、「世態人情を説いて能く真に迫り、話中の人物を十人十色に描き出す所、宛然シヱクスピーアに彷彿たるものであつた」と信夫淳平は尊敬の念を持って評している。信夫の言うところは、現代のお笑い芸人には耳が痛いことであろう。以下にそれを引いて、圓朝の項を締めくくることとしたい。

同じ人を笑はせるにしても、他の鹿連はこちらで笑はねば無理にでも笑はせたがる。腋の下をくすぐつてゞも笑はせようとする。客がたゞ笑ひさへすれば落語の芸道は尽せりと考ふる風がある。が、流石に圓朝のみは、自然に人の頤を解かしめた。向ふを笑はせるものも自然であれば、こちらの笑ふのも自然である。彼と聴客とは、感じがぴたりと合致して自然に笑つたり泣いたりする。(『反古草紙』390ページ)

(G)

(97) 勉強を止むることなかれ 2014/01/05

いよいよ平成26年の始まりです。元日に今年の目標を立てたり、気持ちを新たに頑張ろうと思ったりした方も多いと思います。一方では、年賀状で友人の華々しい活躍を知り、どうして自分はだめなんだろうと思った方もいるかもしれません。

勉強や仕事が思うようにいかず落ち込むことは誰にでもありますし、昔の人も同じでした。『新撰朗詠集』には、高階積善(たかしなのもりよし 平安時代中期)の次のような句が載っています。

栄路遙かにして期し難し 春陽寒木の頂(いただき)に薄(せま)る
筆耕疲れて未だ獲らず 秋の風虚苗の畦(うね)に暮れぬ

私にとって、栄達の路は遙かに遠く期待するのが難しい。また、学問に努めるのにも疲れ果て、得るものが未だ何もなく、実をつけることのない苗が畑の畦で秋風に吹かれ夕暮れを迎えてしまったようなものだ、という句です。

この句は積善が亡くなる約10年前、寛弘元年(1004)九月尽日、北野天満宮での作だそうで、積善はおそらく40歳前後でしょうか。当時40歳と言えば「四十賀」という長寿のお祝いをしましたので、老齢の域に達していたと言えます。

若い日はあっという間に過ぎ去り、気がついた時には、すっかり年をとっていて、学問も仕事も成果をあげることができなかったと嘆く姿は、まるで私そのものです。学問の神・菅原道真にすがるように、どうにか大成したいと祈る高階積善の姿が思い浮かびます。『本朝麗藻』を編集した高階積善ですらこう思うのですから、まして況や凡人をや…。

『倭名類聚抄』を編み、『うつほ物語』の作者に擬せられ、「梨壺の五人」の一人でもあった源順(みなもとのしたごう)もまた、官位に恵まれず不遇でした。天禄二年(971)和泉守退任後、天元三年(980)年に70歳でようやく能登守を得たのに、永観元年(983)に73歳で亡くなっています。驚くべきことに、数々の文学的業績を残しているにもかかわらず、文章博士にはなれなかったそうです。

次の句では、友人が「対策」という試験に合格して蔵人所に補任されたのに、自分(源順)は合格できなかったことが詠まれています。

鳳掖には君誇る温樹の露に 龍門には我泣く浪華の春に(『新撰朗詠集』)
[君は宮中で天子の暖かい惠みを受け、誇らしげ。それに比べ、私は今年も対策に落第し、波の花の咲く春、涙にくれている。]

源順が文章生に補されたのが天暦七年(953)43歳の時で、その後に文章得業生となり、数年勉学に励んだ後、対策の試験を受け不合格であったと考えると、涙が出てきます。対策に合格できれば、官界に入るか、文章博士をさらにめざすことができたそうですが、なぜか順は合格できませんでした。

石川啄木の「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻としたしむ」(『一握の砂』)を源順に贈りたくなりますね。

多くの先人たちが、私どもに「少年老い易く学成り難し 一寸の光陰軽んずべからず」ということを教えてくれます。

嘆いていても仕方ありません。本居宣長も「才の乏しきや、学ぶことの晩(おそ)きや暇のなきやによりて思ひくづをれて、止むることなかれ」(『うひ山ぶみ』)と言っています。「さあ、今年も勉強しましょう!」と、自分に言い聞かせました。

※『新撰朗詠集』の訳と内容は、柳澤良一「新撰朗詠集の魅力」(『女子大國文』153号)を参考にしました。

(し)

(96) 三遊亭圓朝『怪談牡丹燈籠』(10) 2013/12/24

飯島の脇腹に突き傷があったが、源次郎程度の腕前でできることではないから、恐らく飯島が熟睡しているところをだまし討ちにした後、刀で斬殺したに相違ないと、目付の検死により判断され、飯島家は改易となった。

主人の仇討ちに明日出立すると勇む孝助に対し、相川が折入って頼みたいことがあると頭を下げる。娘お徳との婚礼を今夜中に済ませようというのである。相川は、金子と一刀を孝助に与え、武運に恵まれることを心から祈る。

越後村上に潜むというお国と源次郎を追って、孝助もまた越後へと向かう。ここからは、孝助とその母との再会の話を紹介することにしよう。

村上では仇を見出すことが出来なかった。併せて当地出身である母の消息を方々に当たってみるが、杳として母の行方は知れない。そこで、主人の一周忌に合わせ、孝助は一旦江戸へ戻り、谷中の新番隨院へ詣でる。

当院の良石和尚は道心堅固の智識として知られ、人の未来を見通す力があった。お前には目出度いことがあるからすぐに水道端へ行くがいいと言われ、相川邸へと至れば、果してお徳が乳呑み児を抱いて現われる。出立の晩、一夜の契りによって出来た男子であった。

翌日の施餓鬼の後、良石和尚から神田旅籠町に住む白翁堂勇齋を明日尋ねるよう指示された孝助は、法事の帰り道に血の付いた刀を下げた賊と出くわす。格闘の末取り押さえると、それは山本を殺して逃げて来た伴蔵であった。

神田旅籠町の白翁堂では、勇齋が何の飾りもない貧乏長屋の中で、ぼんやりと机の前に坐っている。天眼鏡を取り出し、孝助の顔を覗き込むと、剣難があるが、進むに利あり、悪くすると斬殺されるよ、と仇討の困難を暗示する。また、孝助が探し人のある旨を伝えると、すでに会っているという。19年前位に別れたぎりだからそんなはずはないと言っても、勇齋は「会っている」の一点張りである。

孝助がもっと事情を知りたいとじれったく思っているところへ、別の客が入って来る。四十半ばの女の顔を見るなり、勇齋は近々死ぬと断言してしまう。女は、命数には限りがあるから仕方がない、実は一人尋ねる者があって、死ぬまでに会いたいと言う。勇齋はこれにも「フウム是は逢つてゐる訳だ」としか言わない。幼年の折に別れて以来、先方は自分の顔すら知らないはずだと女が言っても、「何でも逢つてゐます、もうそれで見る所も何もない」とそっけない返答に女が食い下がる。

女「其者は男の子で、四つの時に別れた者でございますが。といふ側から、孝助は若しやそれかと彼(か)の女の側に膝をすりよせ、孝「もしお内室様(かみさん)へ少々伺いますが、何(いづ)れの方かは存じませんが、只今四つの時に別れたと仰しゃいます、その人は本郷丸山辺りで別れたのではございませんか、そしてあなたは越後村上の内藤紀伊守様の御家来澤田右衛門様のお妹御ではございませんか。女「おやまアよく知つてお出(い)でゝす、誠に、はいはい。孝「そして貴方のお名前はおりゑ様とおつしやつて、小出信濃守様の御家来黒川孝蔵さまへお片付(かたづき)になり、其後御離縁になつたお方ではございませんか。女「おやまア貴方は私の名前までお当てなすつて、大そうお上手様、これは先生のお弟子でございますか。と云ふに、孝助は思はず側に寄り、孝「オヽお母様お見忘れでございませうが、十九年以前、手間四歳の折お別れ申した悴(せがれ)の孝助めでございます。りゑ「おやまアどうもマア、お前がアノ悴の孝助かえ。白「それだから先刻(さつき)から逢つてゐる逢つてゐると云ふのだ。……〈岩波文庫、153ページ〉

こうして再会した二人は、それぞれの身の上を明かしながら、白翁堂での奇遇を喜び合った。仇討に至る経緯を孝助が話すと、母は、越後を引き払ってから宇都宮に持っている荒物屋にお国と源次郎を匿っているというではないか。

黒川を離縁になってから縁付いた荒物の御用商人樋口屋五兵衛のところにいた先妻の子がお国で、意地が悪く、夫婦の合い中をつついて仕様がないから、十一の時江戸の屋敷奉公へやった。その先が水道端の三宅という旗本で、その後奥様に付いて牛込へ行ったと聞いたぎり消息がない。夫五兵衛が死んでも帰りもしない不孝者であった。それがふと転がり込んで来ているというのである。

あまりによく出来過ぎているが、孝助は、こうして母の手引きによって宇都宮へ乗り込み、宿願の仇討を果たす機会を得る。だが、それ以前に、孝助の母は、夫に孝ならんとして娘のお国を逃がし、そこで自害してしまう。これもまた白翁堂の予言どおりとなった。

(G)

(95) 三遊亭圓朝『怪談牡丹燈籠』(9) 2013/12/15

飯島から孝助に托した遺書を一気に読み下すと、相川は溜息をついた。

孝助とは主従の関係であったが、実は敵(かたき)同士であったこと、孝助の忠心に感じ、主殺しの罪に落さずに本懐を遂げさせてやるため、源次郎と見間違えさせて自分を討たせたこと、孝助を逃がし、自身で源次郎を討てば、飯島家は滅亡するが、孝助が主人の仇を討ってくれれば、家名再興がなること、孝助と相川の娘との間に出来た子を飯島の相続人としてほしいことなど、事後の処置について縷々書き置いてあったのである。また、源次郎らが身を隠す先はお国の親元である越後の村上であろうから、孝助は時を移さず追いかけるようにともあった。

一方、当の飯島は、孝助の仇討をしやすくするため、源次郎を手負いにしようと思い、寝込みを襲う。しかし、深傷に堪えかね、逆に討たれてしまう。源次郎らは飯島邸を忍び出てどこへともなく落ちて行く。

ところで、萩原新三郎が護身のために肌身に着けていた金無垢の海音如来を奪った伴蔵とおみねは、露見を恐れて中山道の栗橋宿に身を隠す。そこで、同宿の料理屋で酌取り女として働くお国と伴蔵とが知り合うことになる。源次郎は、飯島から受けた傷が痛み、長逗留を続けているうちに路銀が尽きたため、お国の稼ぎに頼っていたのである。

こうして悪者どもを一か所に集結させておいて、一網打尽に孝助の仇討を成功へと導く舞台をしつらえた。その経緯は原文に当ってもらうことにしたい。だが、一点だけ新三郎の怪しい死の真相については、推理小説のネタを明かすようで申し訳ないが、示しておいてよいだろう。

栗橋へと逃げた伴蔵は、お国との関係をおみねになじられ、ついに殺害してしまう。ところがその霊が下女に乗り移り、伴蔵の悪事をばらし始める。ちょうどそこへ新三郎の友人山本志丈が訪れ、真相を明らかにするよう伴蔵に詰め寄る。すると、隠し通すことのできなくなった伴蔵は開き直って、次のように事実を明かしたのだった。なお、その山本は、例の海音如来を掘り出したところで、伴蔵に口封じのために斬殺されてしまう。

伴「実は幽霊に頼まれたと云ふのも、萩原様のあゝ云ふ怪しい姿で死んだといふのも、いろいろ訳があつて皆(みんな)私(わつち)が拵(こしら)へた事、といふのは私が萩原様の肋(あばら)を蹴(けつ)て殺して置いて、こつそりと新番隨院の墓場へ忍び、新塚(しんづか)を掘起し、骸骨(しやりこつ)を取出し、持ち帰つて萩原の床の中へ並べて置き、怪しい死にざまに見せかけて白翁堂の老爺(おやぢ)をば一ぺい欺込(はめこ)み、又海音如来の御守もまんまと首尾好く盗み出し、根津の清水の花壇の中へ埋めて置き、それから己(おれ)が色々と法螺(ほら)を吹いて近所の者を怖がらせ、皆あちこちへ引越したを好(い)いしほにして、己も亦おみねを連れ、百両の金を摑(つか)んで此の土地へ引込んで今の身の上、……〈岩波文庫、131ページ〉

この辺りは、怪談という虚構と仇討という現実とを結び付けるため、無理に取って付けたたように見える。饒舌が売り物とはいえ、ご都合主義的な合理化はむしろ余分であろう。

(G)

(94) 三遊亭圓朝『怪談牡丹燈籠』(8) 2013/12/05

父を殺した仇と知らずに主人飯島を槍で刺してしまった孝助の話には、実話に基づくとの説がある。岩波文庫解説に引く朗月散史『三遊亭圓朝子の傳』によれば、その因果話は以下のように紹介されている。圓朝は、しばしば牛込軽子坂の田中という旗本の隠居へ通って興味深い話を聞いていたという。恐らく、リアルな物語を作り出すために、旗本の生活などについて詳細な情報を得ようとしたのであろう。

暇ある毎に屋敷に至り、中二階にあがりつつ、借し机に打向ひ、大殿(=旗本田中某)より聞きたりし彼の牡丹燈籠にある如き、牛込のある旗下に飯島某といへるありて、一夜其の若党の為に槍をもて刺されつつ遂に命を失ひしが、此の某が若き折、一人の侍を殺せしに、こは若党の父なるを、何時しか知りたる事なれば、廻る因果の今爰に、其方の為に討たれしなりとて、懺悔したる一伍一什の話の趣を基礎とし、著作に思ひを凝しけり。〈岩波文庫解説184ページ〉

圓朝は、これとお露新三郎の怪談とを巧みに組み合わせて創作したものとおぼしい。一般に怪談の方が著名となり、夏の風物詩として取り上げられることが多い。だが、『牡丹燈籠』の一貫した主題は仇討の方にあるのである。

さて、本筋に戻ると、飯島に別れを告げて、孝助は足早に水道橋の相川邸を目指す。主人を殺めてしまった孝助が、まずは娘との縁談を破談にしてくれと申し入れたところから、例の粗忽者の新五兵衛との間で、なかなか本題に入れないやりとりが始まる。娘が気に入らないか、舅が悪いか、禄高が不足か、飯島家で失策をやらかしたか、などと相川が畳みかけ、多少の不始末なら俺が詫びに行ってやろうとまで言うが、孝助は「申すに申し切れない程な訳がございまして」と言葉を濁す。それでは、先約の女でもあるのだろう、その女の始末は俺が付けてやると、話は外れるばかり。

そこで、殿様は負傷していると孝助が告げれば、なぜ早くそれを言わん、参って助太刀いたそうと相川が勢い込んだところで、ようやく国と源次郎との密通から主人を誤って刺したことを告白するに至る。

孝「さういたしますると、廊下を通る寝衣姿(ねまきすがた)は慥(たしか)に源次郎と思ひ、繰出す槍先あやまたず、脇腹深く突き込みましたところ間違つて主人を突いたのでございます。相「ヤレハヤ、それはなんたることか、併し疵は浅からうか。孝「いえ、深手でございます。相「イヤハヤどうも、なぜ源次郎と声を掛けて突かないのだ、無闇に突くからだ、困つた事をやつたなア、だが過つて主人を突いたので、お前が不忠者でない悪人でない事は御主人は御存じだらうから、間違ひだと云ふ事を御主人へ話したらうね。孝「主人は疾(と)くより得心にて、わざと源次郎の姿と見違へさせ、私に突かせたのでござります。相「これはマア何ゆゑそんな馬鹿な事をしたんだ。……〈岩波文庫、100ページ〉

この場面描写について、岡本綺堂は以下のように絶賛したという。

速記本などで読めば軽々に看過されてしまふ所である。ところが、それを高座で聴かされると息もつけぬ程に面白い。孝助が誤って主人を突いたといふ話を聴き、相手の新五兵衛が歯ぎしりして「なぜ源次郎……と声をかけて突かないのだ」と叱る。文字に書けば唯一句であるが、その一句のうちに一方には一大事出来に驚き、一方には孝助の不注意を責め、又一方には孝助を愛してゐるといふ、三様の意味がはっきり現れて、新五兵衛といふ老武士の風貌を躍如たらしめる所など、その息の巧さ、今も私の耳に残ってゐる。(中略)円朝は単に扇一本を以て、その情景をこれほどに活動させるのであるから、実に話術の妙を竭したものと云ってよい。名人は畏るべきである。〈「寄席と芝居と」―永井啓夫『三遊亭圓朝』246ページの引用による〉

無論ここばかりではない。社会風俗への省察に加え、人間観察にもその特異の才を圓朝が有していたことは、あらゆる場面を通じて十分に伺い知ることができる。

(G)

(93) アリスと淳于棼 2013/11/26

ご存じのように、『地下の国のアリス』は、『不思議の国のアリス』のもとになったもので、ルイス・キャロル(本名はチャールズ・ラトウィッジ・ドジソン)が、リデル家のアリスのために創作したものです。キャロルは、アリスのために挿絵を描き装丁まで手がけて、1864年11月26日、『地下の国のアリス』を彼女にプレゼントしました。現在、世界中に知られているジョン・テニエルによる挿絵もかわいいのですが、キャロルの挿絵もなかなかのものです。

さて、今回は『地下の国のアリス』(『不思議の国のアリス・オリジナル―Alice’s Adventures Under Ground―』書籍情報社)で、アリスが訪れた地下世界がどのようなものかをご紹介しましょう。

ある日、土手で退屈そうにしていたアリスは、赤い目をした白ウサギが服を着て、人間の言葉を喋っているのを耳にします。その白ウサギを追いかけてウサギ穴に落ち、長い時間をかけて下へ下へと落ちてゆきました。着いた場所は細長いホールになっていて、アリスはそこで金色の鍵と、高さ40センチくらいの小さなドアを見つけます。金の鍵はその小さなドアの鍵で、開けてみると、素晴らしく美しい庭園が見えました。

この後、アリスは不思議な小瓶を飲んだり、ケーキを食べたり、ウサギの落としていった花束を持ったり、キノコをかじったりすることで、体が大きくなったり小さくなったりを繰り返しますが、不思議な冒険を経て、とうとう庭に出ることができます。

美しい庭園には、色鮮やかな花壇や涼しげな噴水がありました。庭園の入口近くには大きなバラの木があって、首や手足のついたトランプの庭師が木の手入れをしています。

そこはハートの王様と女王様のいる国で、白ウサギはこの女王様にお仕えしていたのでした。ハートの女王様はかんしゃくもちで、庭師やクロッケー大会の参加者を次から次に死刑だと宣告してゆきます。その後、アリスは、玉座の前で行われている裁判を見て、証拠は後で、判決が先といった馬鹿げたやり方を非難し、「あなたたちなんて、ただの一組のトランプじゃないの!」と言います。すると、トランプたちがみんな空中に舞いあがり、アリスめがけてひらひらと落ちかかってくるではありませんか。アリスは驚いて悲鳴をあげますが、実は葉っぱが、姉の膝枕で寝ていたアリスに降りかかってきたのでした。これまでのことは全部夢であったと、アリスは気づきます。

夢の中で、穴の中に入っていったら、知らない世界が広がっていた――似たような話が、古代中国にもあります。唐代伝奇の一つ、『南柯太守伝(なんかたいしゅでん)』では、主人公の淳于棼(じゅんうふん)が、ある日、泥酔して夢心地でいると、二人の使者がやってきて、自宅の南にある大きな一本の槐(えんじゅ)の穴の中へと彼を連れてゆきました。

古槐の穴の中に入ると、山や川が見え、やがて大きな城門にたどり着きます。楼上には金文字で「大槐安国」と書かれていました。淳于棼は、そこの王の次女と結婚し、南柯の太守(長官)となって20年もの歳月を過ごします。五男二女の子どもにも恵まれましたが、檀蘿国との戦に敗れ、妻も亡くなってしまいます。その後、彼は南柯の太守を辞め、大槐安国に戻り、さらには故郷へ帰ることになりました…。

淳于棼は再び穴の中を通って、自宅に戻ったと思ったところで目をさまし、夢の中で一瞬にして一生を体験したことに気づきます。不思議に思った彼は、古槐の根元の穴の中を調べてみると、そこにはたくさんの蟻がいました。「大槐安国」は蟻の国で、夢の中の出来事ではありますが、淳于棼はそこで一生を過ごしたことになります。

穴の中には知らない世界が広がっている――古今東西を問わず、人間が空想した異界です。それが夢と結びついて、不思議な冒険譚に出来上がりました。 アリスの行ったトランプの国には死刑が、淳于棼の行った蟻の国には戦や死があったことを考えると、穴の中の世界が単なる理想世界にはなっていないところが興味深いですね。

(し)

(92) 三遊亭圓朝『怪談 牡丹燈籠』(7) 2013/11/16

いよいよ明日は飯島と源次郎とが中川へ釣りに行くことになった。孝助は、釣りの中止をご意見申し上げ、聞き入れられない場合には、客間で寝ている源次郎を槍玉に挙げ、中二階にいるお国をも突き殺そうと決め込む。どう止めようとしても殿様が承知しないため、これまで新参者の自分に目をかけてくれた恩義を謝し、酔って正体を失わないよう再び忠言を加えると、涙を流しながら悄然と引き下がった。

孝助が錆びた槍を庭で研いでいるところへ飯島が現れ、狼藉者を突くのに、錆びていようが丸刃であろうが頓着するな、憎い相手なら錆槍のほうが痛いはずだ、と孝助の意図を読み取ったように諭す。

酒宴が果て、夜も更けた時分、槍を抱えて様子を窺っていた孝助の目に源次郎らしい者が抜き足で中二階へ行こうとする姿が障子に映る。源次郎に間違いなしと、戸の隙間から脇腹を狙って力任せに槍を繰り出せば、過たず相手の脾腹を突き通した。よろよろとしながら外庭へ出ろという男の声を聞いて、孝助は驚倒した。自分が槍で突いた男は、源次郎などではなく、大恩を受けた殿様その人である。孝助は呆然として腰を抜かす。気丈な飯島は、傷口を縛るよう命じるが、孝助は震えが止まらない。お国と源次郎との不義密通から殿様を謀殺する計略までを打ち明け、人違いによる過失を泣き転がりながら詫びる。飯島は、孝助の忠義に感じつつ、孝助の父黒川孝蔵を殺めたのは自分であると告白した。

一旦主人とした者に刃向えば主人殺しの罪は免れない。孝助を罪に落さず敵討ちをさせてやりたいと思っていたところ、相川新五兵衛から養子の話が持ち込まれた。そうすれば、一人前の武士として敵討ちが可能になる。飯島はそう心積もりをしていたのだが、槍を研ぐ姿から孝助の心底を悟ると、この機を逃さず源次郎のなりをして孝心の無念を晴らさせてやろうと思った。金子百両と事後の処理を相川に依頼する書状とをあらかじめ用意しておき、孝助が本懐を遂げた今、その包みを持たせ、黒川を討った刀を形見として与えたのである。

孝助は、主人との名残を惜しんでいつまでも側を離れようとしない。だが、この場にいれば、主人殺しの罪となるばかりか、家のお取り潰しにまで至るという道理を飯島は説いて聞かせる。

ここは、膝を乗り出して聞きたくなるような場面といってよい。次に原文を引こう。

孝「殿様、どんな事がございませうとも此場は退(の)きません、仮令(たとへ)親父をお殺しなされうが、それは親父が悪いから、かくまで情ある御主人を見捨てて他(ほか)へ立退(たちの)けませうか、忠義の道を欠く時は矢張(やつぱり)孝行は立たない道理、一旦主人と頼みしお方を、粗相とは云ひながら槍先にかけたは私の過(あやま)り、お詫の為に此場にて切腹いたして相果てます。飯「馬鹿な事を申すな、手前(てまへ)に切腹させる位なら飯島はかくまで心痛はいたさぬわ、左様(さやう)な事を申さず早く往け、もし此事が人の耳に入りなば飯島の家に係はる大事、悉しい事は書置に有るから早く行かぬか、これ孝助、一旦主従の因縁を結びし事なれば、仇(あだ)は仇恩は恩、よいか一旦仇を討つたる後は三世までも変らぬ主従と心得てくれ、敵(かたき)同士でありながら汝の奉公に参りし時から、どう云ふ事か其方が我子のやうに可愛くてなア。と云はれ孝助は、おいおいと泣きながら、孝「へいへい、これまで殿様の御丹誠を受けまして、剣術といひ槍といひ、なま兵法(びやうはふ)に覚えたが今日却つて仇となり、腕が鈍くば斯(か)くまでに深くは突かぬものであつたに、御勘弁なすつてくださいまし。と泣き沈む。飯「これ早く往け、往かぬと家は潰(つぶ)れるぞ。と急(せ)き立てられて、孝助は止むを得ず形見の一刀腰に打込み、包を片手に立上り、主人の命に随つて脇差抜いて主人の元結(もとゆい)をはじき、大地へ慟(どう)と泣伏し、孝「おさらばでございます。……〈岩波文庫、96~97ページ〉

圓朝の出演する寄席の特徴として後まで語り伝えられていることを、小島が次のように紹介している。

大入り客留めで、もう一人もすわる余地がないくらいギチ一杯に詰まっている客席が、円朝が高座へ現れると、うしろの方は必ず空席が出来る。これは、彼の話を一言一句聞き洩らすまいとして、客が前へ前へと乗り出すからだった。〈『円朝 上』78ページ〉

高座が聞かれない現在にあってもなお、文字を追うだけでさもありなんと肯けよう。

(G)

(91) 鸚鵡七十話の「兎」とジャータカの「鹿」 2013/11/06

インドの説話集『鸚鵡七十話』(シュカ・サプタティ)の第四十話に、次のような逸話があります。

ターラカラーラーという森に、クティラと呼ぶ怖ろしい獅子がいました。彼は森の生物(いきもの)をかたはしから殺しましたので、森に棲むものたちは皆で相談して、獅子に申し入れをしました。「生物を何匹も殺すのはよくないから、獣(けもの)たちの方から毎日一匹ずつ罷り出ることにしましょう。そうすると、貴方様は飢(ひも)じい思いをすることもないし、我々も破滅から免れることができます」と。

獅子がこの申し入れを受け入れたので、毎日、森に棲むものたちの中で、その日に順番がきたものは自分から進んで彼のもとへ出かけて行きました。やがて、チャコーラという兎に順番がまわってきた時、兎は獅子の食事の時間にずいぶん遅れて行ったので、獅子は怒ります。

怒る獅子に対して、兎は、「出かける途中、別の獅子に出会いましたが、貴方様に対して罵詈雑言を吐き、激しく罵っていましたよ」と言います。すると、獅子は自分が絶大な権力を持つと思い込んでいましたので、プライドが傷つけられ、兎に、その獅子のところへ案内するように言います。そこで、兎は、深い水をいっぱいに湛えた井戸のところへ獅子を連れて行きました。兎は、例の獅子が、この井戸の中に隠れていると嘘をつきます。井戸の中を覗き込んだ獅子は、水に映った自分を見て、悪口を言った獅子と勘違いしてしまい、井戸に跳びこんで死んでしまいました。こうして、すべての生物は幸福に暮らすことができたとあります。

井戸の水に映った自分を別のものと思い込むのは、まるで、イソップの「犬と肉」のようですね。

さて、釈迦の前世の物語、ジャータカには、ブラフマダッタという、鹿狩りが大好きな王の話があります。王は、毎日、狩りに出かけては、鹿の肉を食べるのを楽しみにしていました。王の鹿狩りにかりだされた人たちは、たまったものではありません。鹿の群れを広い囲いの中に追い込み、王に、囲いの中の鹿をとるようお願いします。それ以降、王は、囲いの中の鹿を、毎日一頭ずつ弓で射て持ち帰るようになりました。囲いの中には、体の大きな金色の鹿王がいましたが、逃げ回ると皆、疲れるから、順番を決めて人間の前に自ら進み出るようにしようと提案します。

人間の餌食になる順番を決めてから、一応、囲いの中の鹿たちは落ち着いたように見えましたが、死の恐怖から逃れられたわけではありませんでした。ある時、お腹に赤ちゃんのいる雌鹿に順番が回ってきました。雌鹿は、赤ちゃんを産むまで待ってほしいと皆に懇願します。そこで、金色の鹿王が身代わりになることを決めました。

ブラフマダッタ王は、身重の雌鹿をかばった黄金鹿王に衝撃を受け、それ以降、鹿狩りはやめたそうです。

人間でも獅子でも凶暴なものに対して、とどめを刺すのか、それとも自分の身を犠牲にして諭すのか、難しい選択ですね。

皆さんは、どちらの話がお好きですか?

(し)

(90) 三遊亭圓朝『怪談 牡丹燈籠』(6) 2013/10/26

不快と偽って退出していた孝助を飯島が呼び出し、相川の娘との縁談を承知した旨を伝える。自分の意向を問うぐらいしてほしかったと恨むものの、手を突いて主人に謝られては仕方がない。取り決めだけはしておき、10年猶予が欲しいと孝助が言う。飯島には、なぜ孝助が自分の許を離れたくないのかが解せない。釣りを止めるよう、また、酒を飲むと正体なく寝てしまうから、ご油断召さるなと、孝助は主人の身を案じて訴え続けていた。

孝助が相川の養子へ出てしまえば、飯島の所が里となる。すると、孝助が息子のような気分になるだろうと恐れたお国は、孝助に不始末をしでかさせて追い出そうと画策する。愛人である源次郎の所に仕える相助(あいすけ)という若党が、相川の娘に惚れていることを利用して相助と孝助とを喧嘩させ、両成敗として双方を追い出そうというのである。

源次郎は、相川の娘と相助との縁組を自分の兄が進めようとしていたところへ、孝助が割って入ったと嘘をこしらえて、孝助を襲うよう唆す。相助は、亀蔵・時蔵という乱暴者を語らって、孝助襲撃の手筈を整えている。

翌日、相川邸で結納を済ませたが、故あって婚礼は来年2月まで延期したいと申し入れた。相川邸から一人で戻るように指示された孝助が、いつもと異なる道を通って無事に戻ってきたため、お国は驚く。だが、さりげない顔で殿様を迎えに行くよう言い付ける。今度は木刀を握って待ち構える3人と出くわしたが、手もなくひねり倒したところへ飯島が来合わせ、二人で邸へ戻ると、お国は2度びっくり。

翌朝、喧嘩を理由に相助に暇を出したが、孝助も同罪だろう、と源次郎がもちかけてくる。しかし、飯島は、供先を妨げた相助らが悪い、孝助は正当防衛だと主張する。さらに、亀蔵・時蔵ともに暇を出させるよう主家へ廻文を出すと言ったため、源次郎の当ては見事に外れてしまった。

何とかして孝助を放逐するか、殿様の手打ちになるような工夫はないかと思案を巡らしながら、お国がとろとろとまどろんでいると、誰か忍び込むような物音がする。地袋の錠を開ける音がしたため、行ってみたが誰もいない。見れば、お納戸縮緬の胴巻が外へ流れている。驚いて殿様の手文庫を調べると、胴巻にくるんであった百両が紛失していた。

そこで、たちまち一計を案じたお国は、孝助にこの罪をなすりつけようと考える。翌日、孝助を使いに出した隙に、若党源助を呼び、孝助の手癖の悪いことを吹き込み、孝助の文庫を持って来させる。調べるふりをしながら中へ胴巻を差し込むと、お国は大事な品をそこに発見したと言い、殿様の御前で皆の持物を検査すると息巻いた。

帰宅した飯島を前に、下僕・下女すべての所持品検査が始まり、ついに孝助の番になる。元より入れておいた胴巻だから、お国はこれ見よがしに差し上げ、孝助を詰問する。身に覚えはないから、孝助は頑として認めない。お国は、源助にも嫌疑を向け、二人で気脈を通じて行ったに違いないと決めつける。それで源助からも責め立てられるが、悔し涙を流しながら、覚えがないの一点張りである。

夕景に至ったら手打ちにすると飯島が言い放ったので、源助はしきりに詫びを入れるよう孝助を説得する。源次郎とお国の不義密通、及び中川で殿様を殺す企みの一部始終を手打ちの場で並べ立てるつもりでいるから、孝助には少しも臆する色がない。

お国にとっては、ついに邪魔者を除くことができると思っていたところ、飯島が紛失した百両を別の場所に置き忘れていたと言ってきた。下男・下女を集め、板の間に手を突いて詫びると、孝助に丁寧に詫びをするようお国に命じる。お国は不承不承それに従った。

金は出たが、しかし、胴巻の件はどうなったのか。その辺りは原文によって示そう。

国「孝助どん誠に重々すまない事を致しました、何(ど)うか勘弁しておくんなさいましよ。孝「なに宜しうございます、お金が出たから宜(い)いが若しお手打にでもなるなら、殿様の前でお為になる事を並べ立(たて)て死なうと思つて……。と急込(せきこ)んで云ひかけるを、飯島は、飯「孝助何も云つて呉れるな。己(おれ)にめんじて何事もいふな。孝「恐れ入ります。金子(きんす)は出ましたが、彼(あ)の胴巻は何うして私の文庫から出ましたらう。飯「あれはホラいつか貴様が胴巻の古いのを一つ欲しいと云つた事があつたつけノウ。其時おれが古いのを一つやつたぢやないか。孝「ナニさやうな事は。飯「貴様がそれ欲しいと云つたぢやないか。孝「草履取の身の上で縮緬のお胴巻を戴いたとて仕方がございません。飯「此奴(こいつ)物覚えの悪いやつだ。孝「私より殿様は百両のお金を仕舞ひ忘れる位ですから貴方の方が物覚えがわるい。飯「成程これはおれがわるかつた。何しろ目出度いから皆(みんな)に蕎麦でも喰はせてやれ。と飯島は孝助の忠義の志しは予(かね)て見抜いてあるから、孝助が盗み取るやうなことはないと知つてゐる故、金子は全く紛失したなれども、別に百両を封金に拵へ、此の騒動を我が粗忽にしてぴつたりと納まりがつきました。〈岩波文庫、89~90ページ〉

人情話の面目躍如たる好場面である。

(G)

(89) シビ王とアンパンマン 2013/10/20

釈迦の前世の物語、ジャータカには、釈迦がシビ王であった時の話があります。平安時代の仏教説話集『三宝絵』にも収められているので、そちらでお話を紹介しましょう。

昔、シビ(尸毗)王という、慈悲深い国王がいました。帝釈天はシビ王の心を試そうとして鷹に身を変え、毗首羯磨(びしゅかつま)天には鳩になるように言います。

鷹(帝釈天)に追われた鳩(毗首羯磨天)がシビ王の懐に入りました。鷹が「私に鳩をお返しください」と言うと、王は「衆生(生き物)を救いたい気持ちがあるので、返すことはできません」と言います。すると、鷹は「私も衆生です。どうして今日の私の食べ物を奪いなさるのですか?」と訴えました。そこで、王は、鳩の命も救いたいし、鷹の飢えも助けたいと思って、自分の肉を刀で切って鷹に与えました。

ところが、鷹はさらに「鳩と同じ重さの肉がほしい」と要求します。王は、斤(秤の意)で自分の肉を量って鷹に与えようとしますが、不思議なことに鳩はますます重くなってゆきます。とうとう自分の肉だけでは足りず、王は自分の体全体を斤(秤)に乗せようとしました。

シビ王の慈悲の心が分かったので、鷹は帝釈天の姿に戻り、王に「痛く苦しいだろうに、悔いる心はあるか」と尋ねると、「深く喜ぶ心だけがあります。全く悔いる気持ちはありません」と王が答えました。「本当か?どうやってこのことを証明するのか」と尋ねる帝釈天に、シビ王は「今、自分の身を捨てて仏道を求めるに際して、私に偽りの心がなければ、私の体をもとに戻してください」と言います。帝釈天が天の薬をシビ王に注ぐと、王は元の姿に戻りました。

自分の身を犠牲にして与えることで、満ち足りた気持ちになったというシビ王の姿は極端かもしれませんが、与える喜びや慈悲の心を持つことの大切さを教えてくれます。

自分の体を与えて生きとし生けるものを飢えから救うといったキャラクターは、現代にもいます。そうです。やなせたかしさんが考案されたアンパンマンも、飢えて困った人に、あんパンでできた頭部の一部をちぎって分け与えます。

ご存じのように、アンパンマンの原点は、やなせさんの従軍体験にあると言われています。真の正義とは飢えさせないこと。また、真の正義はかっこいいものではなく、そのために自分も深く傷つくものだとやなせさんは仰っています。自分も痛みを伴ってこそ、自己犠牲を払って初めて人を助けることができるのだ、ということです。

シビ王の慈悲の心は、アンパンマンに受け継がれていました。時雨れる日には、童心に返って、アンパンマンの絵本を読んでみてはいかが。心が温まります。

(し)

(88) 三遊亭圓朝『怪談 牡丹燈籠』(5) 2013/10/05

幽霊となって萩原新三郎を取り殺したお露の父、飯島平左衛門は、若侍の頃平太郎と称し、寛保3年4月11日、湯島天神で聖徳太子の祭礼が行われた折、本郷三丁目にある刀屋藤村屋新兵衛の店で刀剣を物色していた。

そこへ、酔漢が現れ、平太郎の中間(ちゅうげん)が通行の妨げをしたと難を言いかけてくる。家来の無調法とひたすら詫びるが、酔漢は一向肯んぜない。この男、名を黒川孝蔵という浪人で、はなはだ身持ちが悪く、酒色に耽る、抜刀して市中を威嚇する、乱暴を働く、食い倒しや飲み倒しは当たり前という札付きの悪侍であった。

酒手をせしめようというのか、いよいよ挑発した挙句、平太郎の顔へ痰を吐きかけたものだから、もう我慢がならない。平太郎は一刀のもとに黒川を切り倒すと、自身番へ届け出た。無論、無礼討ちということでお咎めはない。

父平左衛門の亡き後、名跡を継いで、自身平左衛門を名乗ったのである。

この飯島の所には、草履取として使われていた孝助という、21・2の男振りのよい新参の下男があった。孝助は、武家奉公をする傍ら剣術修業のために、真影流の達人である飯島へ参った由を告げる。自分が四つの時、母は自分を置き去りにして越後へ去った、父親の不身持が原因で、その父も、四つの時に本郷三丁目藤村屋新兵衛という刀屋の店先で斬殺された、父の名は黒川孝蔵という、などと聞いて、飯島はギクリとする。その仇討のために自分に剣術を習いたいと願う孝助の孝心に感じ、折を見て自ら仇敵であることを名乗り、討たれてやろうと心がけた。

飯島の亡妻に付いて来たお国は、妻妾という立場でありながら家政を握っている。心得違いの女で、主人の目を盗み、隣家の旗本の次男源次郎を引き込んでは楽しんでいた。

ある夜、お国は飯島の謀殺を源次郎に持ちかける。飯島亡き後、源次郎を養子として入れようという算段である。釣りにかこつけて船から突き落すという計画を縷々説いているうちに、忠義者の孝助がそれを立ち聞きしてしまう。孝助が二人の密通を咎めようとすると、源次郎は、釣り道具の修繕に立ち寄るようにという飯島からの依頼状を証拠に、折れた弓で孝助をしたたかに打つ。口惜しさのあまり、孝助は、源次郎とお国の両人を槍で突き殺し、自分は腹を切って果てようと覚悟を決めた。

飯島と近しい微禄の家臣相川新五兵衛には、おとくという18歳になる一人娘があった。長く病気で臥せっていたが、その原因が知れたと言って、飯島を訪れる。実は忠義者の孝助を見初めた恋煩いだったというのである。主君に忠義な者は親にも孝行であろう、たとえ草履取であっても、志の正しい人を養子として迎え、夫婦もろとも親孝行をしたい、という娘の殊勝さに、相川は飯島から孝助を申し受けたいと願う。一応本人の意向を確かめてからという飯島に対して、殿様のご承諾があれば結構、結納は明日にと、相川はせっかちに取り決めてしまった。

ちょっとここで一休み。ここに登場した相川新五兵衛は、そそっかしいが憎めない好人物である。次に紹介する一節から、その為人が十分に見て取れよう。相川が娘の病気の原因を説明しようとする場面であるが、いかにも落語的なやりとりである。

相「さて殿様、今日態々(わざわざ)出ましたは折入って殿様にお願ひ申したいは娘の病気の事に就て出ましたが、御存じの通り彼(あ)れの病気も永い事で、私も種々(いろいろ)と心配いたしましたけれども、病(やまい)の様子が判然(はつきり)と解りませんでしたが、やうやうナ昨晩当人が、私の病は実は是々(これこれ)の訳だと申しましたから、なぜ早く云はん、けしからん奴だ、不孝ものであると小言は申しましたが、彼は七歳の時母に別れ今年十八まで男の手に丹精して育てましたにより、あの通りの初心(うぶ)な奴で何もかも知らん奴だから、そこが親馬鹿の譬(たとへ)の通りですが、殿様訳をお話し申してもお笑ひ下さるな、お蔑(さげすみ)下さるな。飯「どういう御病気で。相「手前一人の娘でございますから、早くナ婿でも貰ひ、楽隠居がしたいと思ひ、日頃信心気のない私なれども、娘の病気を治さうと思ひ、夏とは云ひながら此の老人が水をあびて神仏へ祈るくらゐな訳で、ところが昨夜娘のいふには、私の病気は実は是々といひましたが、其事は乳母(おんば)にも云はれないくらゐな訳ですが、其処が親馬鹿の譬の通り、お蔑み下さるな。飯「どういふ御病気ですな。相「私もだんだんと心配をいたしてどうか治してやりたいと心得、いろいろ医者にも掛けましたが、知れない訳で、是(これ)ばかりは神にも仏にも仕ようがないので、なぜ早く云はんと申しました。飯「どういふ訳で。相「誠に申しにくい訳でお笑ひ成さるな。飯「何だかさつぱりと訳が解りませんね。……〈岩波文庫、43ページ〉

飯島ならずとも、さっぱり訳は分からない。

(G)

(87) 予言の物語 2013/09/30

『うつほ物語』は、予言に導かれて俊蔭一族のストーリーが展開してゆきます。清原俊蔭は、波斯国(=ペルシャ)西方で、将来「天女の行く末の子」になるという運命を獲得し、さらに忉利天の天女からは俊蔭が七絃琴の家の始祖になるという予言を、仏からは俊蔭の三代の孫が「七人の人(=天女の子)」の生まれ変わりで「果報豊かなるべし」という予言を受けます。

これらはどれも仏教による予言であり、物語の展開に「授記(=予言。過去世において過去仏が修行者に対して未来の世において必ず仏となることを予言し保証を与えること。)」が深く関わっていると考えられます。物語では実際に予言どおりに展開していくので、現代の読者にとっては、今後の展開が予測でき、「なーんだ、面白くない」と感じるかもしれません。

『源氏物語』でも、光源氏の将来について三つの予言がなされ、この予言通りに物語は展開してゆきます。

一、光源氏は帝王になる相があるが、そうなると世が乱れることもある。しかし、臣下として国の要になるといった相でもないという予言(高麗人の相人・倭相によるもの、桐壺巻)。

二、予想に反して「違ひ目」があり、謹慎しなくてはならないことがあるという予言(光源氏のみた夢を夢解きしたもの、若紫巻)。

三、光源氏の子どもは生涯に三人という予言(宿曜によるもの、澪標巻)。

これらの予言は、観相・宿曜の占い・夢占といった様々な信仰によってなされていますが、物語の中ですべて予言通りになっていることから、光源氏の将来を規制する働きを持っていたと言えます。

世界に誇れる二つの日本の長編物語が予言に導かれてストーリーが進行してゆくことは、当時の物語観や世界観を知る上で非常に興味深いですね。

王朝物語は予言によって結末が何となく予測できてしまいますが、自分の人生には、最後に何か大きなどんでん返しがあるといいなぁ…なんて、思ってしまいます。どんでん返しや一発逆転ホームランがあるかどうか分かりませんが、それを密かに期待しながら毎日過ごしているのが人間かもしれませんね。

(し)

(86) 三遊亭圓朝『怪談 牡丹燈籠』(4) 2013/09/15

明治9年-1872-、圓朝38歳の時に本所二葉町に越した。小島の小説によれば、一子朝太郎を生んだお里と別れた後、ここで父円太郎の妾であったおやいと結婚することになっている。永井啓夫『三遊亭円朝』(昭和37年、青蛙房)には、本文中にも年譜にもおやいの名は見えない。永井によれば、朝太郎誕生の翌年にお幸という女性を迎えているから、もし架空でなければ、おやいは正室ではなかったということになろう。『牡丹燈籠』のプロットは、そのおやいからヒントを得たという。その話自体は奥野も指摘しているが、小島の小説とはやや異なる。奥野の要約をまず示そう。深川北川町の米問屋飯島喜左衛門の家庭の事情だという。

喜左衛門の次男弁次郎は、八幡境内の茶の宗匠のもとにおいて材木問屋の娘お露と相知り、やがてこれと結婚するにいたったが、お露は病弱のためまもなく死去した。たまたまお露に妹があり、これが姉の跡に直ることに話がきまって、いよいよ婚礼という晩、その花嫁たる妹が急死するという不祥事がおこったので、弁次郎は厭世的になり上野池の端に隠棲した。ところがここにお露と妹の二人の亡霊が現れるという怪談が流布されはじめた。その後弁次郎は剃髪して僧侶になった。(岩波文庫解説、183ページ)

病弱の姉が夫の世話のできないのを見かねて、妹のおはるが世話を見に来た。病人が看護婦に惚れるような心持ちが弁次郎の胸に動き、おはるもまた美男の弁次郎に思いを寄せて行く。神経が特別に鋭くなっている病人には、人目を避けて逢瀬を重ねる二人の行動が手に取るように悟られた。2年を経て亡くなったお露の一周忌が済むと、おはるを後添えにという話が持ち上がる。いよいよ、婚礼の式も終わり、お床入りという段になって、おはるは突然虚空をつかんでうしろへのけぞったと思うと、息が絶えた。小島の小説中でおやいが語る話ではこうなっている。

永井によれば、『牡丹燈籠』の原案の出来上がったのが、圓朝の23歳ごろとされている。それが正しいとすると、朝太郎の生れるのが、その7年後の慶応4年-1868-だから、おやいからヒントを得たという小島の話と合わない。 小島の祖父利八(りはち)は、圓朝と同じ寺子屋に通った幼馴染で、後年まで昵懇の仲であったという。その利八から聴取し、また自身も高座に通って圓朝を直接耳にしたものだから、一方ならぬ思い入れがあろう。各方面に取材を重ねたと本文中にも見えはするものの、どうしても圓朝寄りの同情溢れる書き方になってしまうのは仕方があるまい。

(G)

(85) 『うつほ物語』音楽の奇跡① 2013/09/10

『うつほ物語』は、「音楽」が主題と密接に関わります。物語の最大の特徴は、俊蔭が波斯国西方から持ち帰った七絃琴が奇跡を起こすところにあります。もちろん奇跡を起こせるのは、俊蔭・俊蔭娘・仲忠・いぬ宮で、俊蔭とその直系の子孫に限られます。

さて、どの時代にも音楽があり、音楽の力はとてつもなく大きいというのは、誰しもが認めるところです。本学の音楽学部音楽総合学科に「音楽療法コース」があることからも分かるように、医療や福祉の場でも音楽の力が活用されています。『うつほ物語』では、物語のいたるところに、音楽の効用が余すところなく描写されています。

まずは、音楽には人々を感動させる力があります。俊蔭一族の奏でる七絃琴を聞いた人々は皆、感動し涙を流しています。

〈仲忠、せた風の琴を弾く〉御前より賜はせたるせた風の琴を、胡笳の声に調べて弾くに、おもしろくめでたきこと、さらにたぐひなし。聞きたまふ人々、涙こぼれてあはれがり愛でたまふ。(俊蔭巻)[新編日本古典文学全集①109頁]

次に、音楽は動物や草木も感応させます。経済的困窮に陥り、北山の杉の木のうつほ住みとなった俊蔭娘と仲忠でしたが、七絃琴を弾くとその音色に感動して、猿などが食べ物を届けてくれました。

〈俊蔭娘ほそを風、仲忠りうかく風の琴を弾く〉たまたま聞きつくる獣、ただこのあたりに集まりて、あはれびの心をなして、草木もなびく中に、尾一つ越えて、いかめしき牝猿、子ども多く引き連れて聞く。…このものの音にめでて、ときどきの木の実を、子どももわれも引き連れて来。(俊蔭巻)[新編日本古典文学全集①81頁]

さらには、音楽を聞くととても気持ちが和み、寿命が延びるような気がすることから、音楽は「生きる力」を与えてくれます。物語では、特に俊蔭娘の弾く七絃琴は人々を至福の境地へと導いてくれました。

〈俊蔭娘、ほそを風の琴を弾く〉廂に居たまへる人々、狭くて、人気に暑かはしく覚えたまへる、たちまちに涼しく、心地頼もしく、命延び、世の中にめでたからむ栄えを集めて見聞かむやうなり。[新編日本古典文学全集③595頁]

〈俊蔭娘、はし風の琴を弾く〉この音を聞くに、愚かなる者は、たちまちに心聡く明らかになり、怒り腹立ちたらむ者は、心やはらかに静まり、荒く激しからむ風も静かになり、病に沈み、いたく苦しからむ者も、たちまちに病怠り、動きがたからむ者も、これを聞きて驚かざらむやは、と覚ゆ。(楼の上・下巻)[新編日本古典文学全集③603頁]

そして、『うつほ物語』の音楽の奇跡で最も注目されるのが、音楽が天変地異をも生じさせることです。

〈俊蔭、せた風の琴を弾く〉俊蔭、せた風をたまはりて、いささかかき鳴らして、大曲一つを弾くに、大殿の上の瓦、砕けて花のごとく散る。いま一つ仕うまつるに、六月中の十日のほどに、雪、衾のごとく凝りて降る。(俊蔭巻)[新編日本古典文学全集①42頁]

〈俊蔭娘、東国の武士たちが襲って来た時に、なん風の琴を弾く〉一声かき鳴らすに、大きなる山の木こぞりて倒れ、山逆さまに崩る。立ち囲めりし武士、崩るる山に埋もれて、多くの人死ぬれば、山さながらに静まりぬ。(俊蔭巻)[新編日本古典文学全集①84頁]

〈仲忠・なん風の琴、涼・すさの琴を弾く〉雲の上より響き、地の下よりとよみ、風雲動きて、月星騒ぐ。礫のやうなる氷降り、雷鳴り閃く。雪衾のごと凝りて、降るすなはち消えぬ。(吹上・下巻)[新編日本古典文学全集①533頁]

この吹上・下巻の場面では、何と天人まで降下します。

仲忠、七人の人の調べたる大曲、残さず弾く。涼、弥行が大曲の音の出づる限り仕うまつる。時に天人、下りて舞ふ。仲忠、琴に合はせて弾く。  朝ぼらけ ほのかに見れば 飽かぬかな 中なる乙女 しばしとめなむ  帰りて、今一かへり舞ひて上りぬ。

七絃琴の奇跡によって、俊蔭一族は平安貴族社会の中で栄達していくのです。そのあたりのことは改めてご紹介したいと思います。

田村和紀夫さんは『音楽とは何か ミューズの扉を開く七つの鍵』(講談社選書メチエ)で、「音楽は魔法である」と仰っています。確かにそうですね。音は瞬時に消え去るものですが、過去にヒットした歌謡曲を聴くと、そのメロディーとともに当時の出来事までもが鮮やかに蘇ります。コンサートに行けば、ミュージシャンとの一体感が味わえたり、恍惚感に浸ったり、エクスタシー状態となって失神する人もいるでしょう。その一方で、親が唄っていた子守唄を口ずさむと、不思議と気持ちが和らぐこともあります。音は過去と現在と未来を、自分と他者と目に見えない何ものをかまで自在に結びつけてくれます。

音楽って本当に不思議です。『うつほ物語』の魅力は、この音楽にあると言っても過言ではありません。

(し)

(84)三遊亭圓朝『怪談 牡丹燈籠』(3) 2013/08/25

牡丹の花をあしらった燈籠を手に、夜な夜な幽霊が訪れるという趣向は、中国の怪異小説『牡丹燈記』(明代、瞿佑(くゆう)による怪異小説集『剪燈新話』に所収)に基づくと一般にいわれている。だが、人物関係の複雑性やプロットの巧みさ、創意、いずれをとっても、原話とはかけ離れてすぐれているといってよい。

奥野信太郎によれば、原話に現れる事柄をそのまま『牡丹燈籠』に採用した個所は僅少だという(岩波文庫の解説)。例えば、題名「牡丹燈籠」は原話「牡丹燈記」の持つ中国的感覚を日本風に和らげたものである。白翁堂勇齋という人物も原話に繋がるが、原話では単なる隣の老人となっている。その白翁堂が伴蔵に向かって言う「人は生きてゐる内は陽気盛んにして正しく清く、死ねば陰気盛んにして邪に穢れるものだ、それゆゑ幽霊と共に偕老同穴の契りを結べば、仮令百歳の長寿を保つ命も其のために精血を減らし、必ず死ぬものだ。」(文庫、50ページ)という一条は、原話中の隣の老人が語ったものをほとんどそのまま意訳したものだとする。さらに、新三郎がお札を貼って幽霊の侵入を防ぐところも、原話では符籙(ふろく―道教で用いる護符)を懸けて亡霊を避けることに由来する。具体的な事実としてはこの程度しか挙げられないというのである。

それほど独立した作品に仕上がっているため、小島政二郎『円朝 上・下』(昭和34年、新潮社)が次のように断じている気持ちがよく分る。

円朝の「牡丹灯籠」は、浅井了意の「お伽婢子(とぎぼうこ)」の中に収められている同名の作品の骨を換え胎(たい)を奪ったものと世間一般では思っている。これは大変な思い違いで、私に言わせれば、円朝は単に題名を借りたのに過ぎない、いやもう一つ、牡丹灯籠を手にして幽霊が恋人のもとを訪れるくだりを借りている。それだけだ。(『円朝 上』242ページ)

小島の挙げた浅井了意『伽婢子』(寛文6年―1666―刊)は、まさに『剪燈新話』を翻案した怪異小説集である。

奥野は白翁堂の言葉をもって原話を参考にしたと主張するが、同様の言辞は『伽婢子』にもある。

をよそ人として命生きたる間は、陽分いたりて盛(さかり)に清く、死して幽霊となれば、陰気はげしくよこしまにけがるる也。此故に死すれば忌ふかし。今汝は幽陰気の霊(りやう)とおなじく座してこれをしらず。穢れてよこしまなる妖魅(ばけもの)とともに寝て悟らず。たちまちに真精の元気を耗(へら)し尽して、性分を奪はれ、わざはひ来り、病(やまひ)出侍らば、薬石鍼灸(しんきゅう)のをよぶ所にあらず。……(岩波新大系『伽婢子』巻之三、82ページ)

また、萩原新三郎の名は『伽婢子』に登場する荻原新之丞から得たに違いない。良石和尚は「東寺の卿公(きょうのきみ)」をモデルとしている。しかも、その卿公が荻原に死期の近いことを告げる言葉の中に「精血」という語が見える。原典「牡丹燈記」には見えない。浅井の造語らしいこんな語を圓朝はそのまま用いている。このように、確かに『伽婢子』を下敷きにしたことは明らかで、決して小島の言うような「それだけ」ではない。しかしながら、「あとは全部円朝の創作だと言っていい」と小島が言い切るほど創作の手が入った物語であることは間違いないだろう。

(G)

(83)お母さんに会いたい 2013/08/15

『源氏物語』第3部のヒロイン・浮舟は、薫、匂宮との三角関係に疲れ果て、宇治川に身投げしようとしますが、未遂に終わり、横川の僧都に助けられます。さまざまなことに翻弄された過去と、女の身を持つ煩わしさから逃れようと出家を決意します。その朝、浮舟は鶏の鳴き声を聞き、これがお母様のお声を聞くのだったらどんなに嬉しいだろうと思います。

からうじて鶏の鳴くを聞きて、いとうれし。母の御声を聞きたらむは、ましていかならむと思ひ明かして…(手習巻)[新全集⑥332頁]

薫は浮舟が死んだと思い、彼女の一周忌の法要を営むことにします。その話を人から聞かされた時も、浮舟は、母君がどんなお気持ちでいられるだろうと思います。娘の亡骸がないまま、一周忌を迎える母の気持ちを思いやってのことです。

その後、浮舟が生きていることを知った薫は、浮舟の弟・小君を使者として小野に派遣しますが、浮舟は小君にも会おうとはしません。「お人違いでしょう」と、弟との面会を頑なに拒み、「お会いしたいのは母君だけ」と思います。

「…かの人(=母)もし世にものしたまはば、それ一人になん対面せまほしく思ひはべる。」(夢浮橋巻)[新全集③389頁]

出家後も、浮舟は匂宮や薫との過去を思い出して、煩悶したり懐かしく思ったりし、揺れ動きますが、決して連絡をとろうとはしませんでした。最後まで気になり、会いたいと思ったのは、母君ただ一人でした。ご存じのように、浮舟は母と再会することなく物語は終わっています。

さて、『栄花物語』にも、「お母さんに会いたい」と言った娘の話があります。藤原長家(道長の子ども)と結婚した、藤原行成の娘です。行成の娘は12歳の時、15歳の長家と結婚しますが、結婚生活僅か3年で病気となり、あっけなく亡くなってしまいます。臨終の時、夫の長家は妻の手をとらえ、「何ごとか思しめす、のたまふべきことやある」と聞きますが、妻の口から出たのは「母はいづらいづら」という言葉でした。母は駆けつけ、しっかりと娘を抱きしめたのでした(巻16「もとのしづく」)。

結婚してもなお、最期の時には「お母さんはどこ?どこ?」という娘。息子が幾つになっても母を求めるのはよく見聞きしますが、乳母制度のあった時代であっても、平安貴族の娘にとっても、「母」は特別な存在であったことが分かります。

私事ですが、母方の祖母が76歳で亡くなった時、遺品の中から「いっぺんでいいから、死んだお母さんに会いたい」と書かれた紙切れが見つかりました。三十年が経ち、その祖母の娘は恍惚の人となりましたが、「久しぶりにお母さんの夢を見たがやぜ。お母さんの作ってくれた南瓜の煮物、美味しかったぁー」と言います。

いつの時代も、どのような身分・立場であっても、また、たとえお母さんが亡くなっていたとしても、母を知らなくても「お母さんに会いたい」――この気持ちは普遍的にあるものなのでしょう。

(し)

(82)三遊亭圓朝『怪談 牡丹燈籠』(2) 2013/08/05

その百両は、幽霊がお露の父飯島の所へ忍び入って調達した。守り本尊はというと、お経ばかり読んでいて汗臭いからと、新三郎に行水を使わせている間に伴蔵とおみねがすり替えてしまったのである。萩原がもし死んだら、金無垢の行方に嫌疑がかかることを恐れ、畑に埋めて印を立てておき、ほとぼりが冷めたころ掘り出しに来ることにした。

八の鐘が忍ケ岡に響くころ、例の幽霊たちが現れ、伴蔵に約束の百両を渡す。そこで萩原の裏窓に貼ったお札をはがしてやると、二人は嬉しそうに中へ入った。

一旦家へ戻った伴蔵は、おみねに様子を見にやられる。ずいぶんと長くかかってようやく戻った伴蔵はおみねを伴って、今一度様子を見に赴く。床の中を差し覗き、恐ろしくなった伴蔵は、二人だけの目撃では嫌疑がかかると思い、立会いを依頼するため、白翁堂を呼びに走る。

白翁堂が恐る恐る寝所をまくり上げれば、新三郎は虚空をつかみ、歯を食いしばり、余程の苦しみをして死んだ様子。脇に髑髏があり、手が萩原の首にからみついている。萩原の首にかけた守り本尊はどうかと確かめると、金無垢だったはずが、瓦に赤銅箔を置いた土の不動と化していた。

白翁堂は、海音如来を紛失した経過を報告しに良石和尚を訪れる。事情をすでに察している和尚は、如来は来年の八月にきっと出るから心配するなと言い、萩原とお露とを並べて供養するよう白翁堂に指示を与えた。

伴蔵は自分の悪事を隠そうとして、直ちに逐電しようとしたが、それでは疑いが増すと判断し、一計を案じた。萩原の所へ現れる幽霊を見ると三日で死ぬなどと言いふらしたから、尾ひれが付いて、散り散りに人が引っ越してしまう。白翁堂さえ神田へ移った。それをよい機会に伴蔵とおみねは、幽霊からせしめた百両を懐に、伴蔵の生れ故郷である栗橋へ引き移った。

夏になると、納涼のために怪談が登場する。この牡丹燈籠も、かつてはしばしば映画やドラマとなった。そのクライマックスといえば、駒下駄を鳴らして幽霊がやってくる場面だろう。圓朝の口演を下に引くから、できれば音読してその雰囲気を味わってみていただきたい。お札を貼りめぐらした新三郎の家へ幽霊が訪れて来るところだ。

其の中上野の夜の八ツの鐘(かね)がボーンと忍ケ岡(しのぶがおか)の池に響き、向ヶ岡(むこうがおか)の清水の流れる音がそよそよと聞え、山に当る秋風の音ばかりで、陰々寂寞(せきばく)世間がしんとすると、いつもに変らず根津の清水の下(もと)から駒下駄の音高くカランコロンカランコロンとするから、新三郎は心のうちで、ソラ来たと小さくかたまり、額から腮(あご)へかけて膏汗(あぶらあせ)を流し、一生懸命一心不乱に雨宝陀羅尼経(うほうだらにきゃう)を読誦して居(ゐ)ると、駒下駄の音が生垣の元でぱったり止みましたから、新三郎は止せばいいに念仏を唱へながら蚊帳を出て、そつと戸の節穴から覗いて見ると、いつもの通り牡丹の花の燈籠を下げて米が先へ立ち、後(あと)には髪を文金の高髷に結ひ上げ、秋草色染の振袖に燃えるやうな緋縮緬の長襦袢、其の綺麗なこと云ふばかりもなく、綺麗ほど猶怖(こは)く、これが幽霊かと思へば、萩原は此世からなる焦熱地獄に落ちたる苦しみです、萩原の家(うち)は四方八方にお札が貼つてあるので、二人の幽霊が臆して後へ下り、米「嬢さまとても入(はい)れません、萩原さんはお心変りが遊ばしまして、昨晩のお言葉と違ひ、貴方を入れないやうに戸締りがつきましたから、迚(とて)も入ることは出来ませんからお諦め遊ばしませ、心の変つた男は迚も入れる気遣(きづかひ)はありません、心の腐った男はお諦めあそばせ。と慰むれば、嬢「あれ程迄にお約束をしたのに、今夜に限り戸締りをするのは、男の心と秋の空、変り果てたる萩原様のお心が情けない、米や、どうぞ萩原様に逢はせておくれ、逢はせてくれなければ私は帰らないよ。と振袖を顔に当て、潸々(さめざめ)と泣く様子は、美しくもあり又物凄くもあるから、新三郎は何も云はず、只南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。米「お嬢様、あなたが是程までに慕ふのに、萩原様にやアあんまりなお方ではございませんか、若しや裏口から這入(はい)れないものでもありますまい、入らっしゃい。と手を取つて裏口へ廻つたが矢張(やつぱり)入られません。(岩波文庫、54~55ページ)

(G)

(81)妻争い① 2013/07/30

中大兄皇子(なかのおおえのおうじ。後の天智天皇。626~671)の歌に、大和三山を詠んだ歌があります。

香具山は 畝火ををしと 耳梨と 相あらそひき 神代より かくにあるらし 古昔(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 嬬(つま)を あらそふらしき(『万葉集』巻1・13番歌)

「畝火ををし」の「ををし」をどのように解釈するかで、歌の意味が変わります。「ををし」を「雄々し」、男らしいと解釈すると、香具山(女)は畝傍山(男)に心変わりして、恋仲だった耳梨山(男)ともめたということになります。香具山(女)が畝傍山(男)を男らしいと思い、耳梨山(女)と争ったとも考えられますが、これですと、後にある「うつせみも 嬬をあらそふらしき」がすっきりしません。

また、「愛し」と解釈すると、香具山(男)は、畝火山(女)をいとしいと思って、耳梨山(男)と争ったとなります。

いずれにしても、一人の人を複数の異性が争ったという構図です。神代から三角関係は存在したことになります。

さて、後世の人々は、この大和三山を、中大兄皇子、大海人皇子(おおあまのおうじ。後の天武天皇。~686)、額田王(ぬかたのおおきみ。生没年不詳。)に当てはめて考えました。額田王は初め、大海人皇子から寵愛され、十市皇女(とおちのひめみこ)という娘まで儲けていますが、その後、大海人の兄である中大兄からも愛されたとされています。サラブレッド(皇統)の兄弟から愛されたとなると、額田王はずいぶん魅力的な女性だったのでしょう。

ひとりの女性をめぐって複数の男性が争うことを「妻争い」と言っています。「神代だって妻争いがあったのだから、現実の人間だって当然、妻争いをするさ」という中大兄の歌は、妙に納得させられます。

このモチーフは近代小説や現代小説でもよく見受けられますが、よく知られているのが夏目漱石の『こころ』や『それから』です。妻争いの物語は、何千年経っても色あせることなく、様々な語り口で語り継がれてゆくことでしょう。

ところで、中大兄皇子の妻争いの歌では、その後、この三角関係がどのように決着したかまでは歌われていません。しかし、菟原処女(うないおとめ)の伝説では、二人の男性から求愛された菟原処女はどちらか一方を選びきれず、自らの命を絶ってしまいます。過激に感じるかもしれませんが、「妻争い」が自死、しかも「入水」に結びついて、文学の重要なテーマとなり、日本人に愛好されたことを、次回ご紹介したいと思います。

(し)

(80)三遊亭圓朝『怪談 牡丹燈籠』(1) 2013/07/17

不世出の名噺家、三遊亭圓朝(天保10年-1839-生まれ、明治33年-1900―没)が十八番としていた「牡丹燈籠」は、熟年の公演を速記法によって記録した本文が残されている(明治17年、圓朝46歳)。文庫本で170ページにも及ぶ長大な噺であるが、圓朝はこれを15日間で演じきった。速記者は二人。楽屋から高座での噺を聞いては書き取り、後に照合したらしい。

現在のテープ起こしでもこうはいくまいと思われるほど、当時の口演が実によく再現されている。圓朝の高座に接したこともない後世の我々にもその口舌が髣髴するような文体といってよい。

この作品は、怪談と仇討とが錯綜しており、なかなか複雑を極める。そこで、いささか興を殺(そ)いでしまうものの、公演の順ではなく、怪談、母子再会、仇討の三つに分けてその内容を摘記することにしよう。まずは怪談から。

旗本の息飯島平太郎は、家督を継いで平左衛門と改名し、三宅という旗本の家から妻を迎えた。だが、その妻は、一女お露を大切に撫育しつつも、十六歳の時に亡くなってしまう。その後、妻の付き人であった女中お国が側室に入ったが、性悪のお国は、お露を悪しざまに飯島へ言い告げ口をするため、柳島辺に寮を求めて、お露と女中のお米(よね)とを別居させることにした。

そこへ、飯島邸に出入りする、腕はからきしで単なる調子者でしかない医者山本志丈が、旗本浪人萩原新三郎を連れて訪れる。梅見に事寄せて、お露の姿を新三郎に見せようという魂胆であった。ところが、美男の新三郎を垣間見るなり、お露の心は穏やかでない。便所を借りた新三郎の手を手拭の上から握っただけであったが、帰り際には、再び来てくれなければ死んでしまうとまで囁く。新三郎もその声を片時も忘れることはなかった。

しかし、真面目一方の新三郎は、一人で柳島を再訪することができない。三か月過ぎても山本は訪れてこないため、店(たな)の孫貸しをしている伴蔵と好きでもない釣りを口実に、柳島まで出かけることにした。

新三郎は、持参した酒に酔い、船中で寝込んでしまう。飯島の別荘近くに船を着けると、眼を覚ました新三郎は、勇を鼓してお露を訪ねる。恋い焦がれる新三郎に会えた嬉しさに、お露は蚊帳の中に彼を引き込む。枕を交した後、秋野に虫の象眼入りの硯箱の蓋を形見だと言って新三郎に渡す。と、突然そこへ飯島平左衛門が現れ、不義を働いた廉(かど)で、まずお露を手打ちにし、新三郎に切りかかったところで、はっと目が覚める。夢見が悪いからと帰ろうとすると、船中には秋野に虫の模様を施した蓋が落ちていた。

お露のことばかり思い詰めている新三郎の許へ山本が訪れ、お露が死んだことを知らせる。新三郎への焦がれ死にだという。お露の俗名を書いて仏壇に供え、念仏を唱えているうちに盆の十三日に至る。新三郎が精霊棚の支度を仕舞い、月を眺めているところへ、駒下駄の音を鳴らしながら、年増女と十七八の娘が通りかかる。先に立った年増女の手には縮緬細工の牡丹芍薬などの花のついた燈籠が下がっている。月影に透かして見ると、お露のようだ。向こうも萩原に気づき、互いに奇遇を喜ぶ。

新三郎が死んだとお国が山本に言わせ、お露に諦めさせようとした。そして婿を取るように飯島が勧めたが、どうしても他へ縁付くのは嫌だとお露が強情を張ったため、大いに揉めて、柳島の別荘から放逐され、その日暮らしをしているという経緯をかき口説く。新三郎は、その晩お露を泊めてしまうと、毎晩訪れることが七日間重なった。

毎夜女の話声が聞えるので、怪しく思った伴蔵が様子を見に行く。すると、床の上に比翼茣蓙を敷いて新三郎と女が喋喋喃喃と睦まじく話を交わしている。その女をよく見て驚いた。骨と皮ばかりで裾より下が見えない。

翌朝、伴蔵は、同じ店に住む人相見白翁堂勇齋を連れて新三郎を訪れる。その顔を一目見た白翁堂は、二十日以内に死ぬ相が出ていると言い、事情を問う。初め否定していた新三郎も気味が悪くなり、お露の住むという三崎へ調べに行く。尋ねあぐねて新番隨院(しんばんずいいん)を通りかかると、新墓がある。そこに立つ角塔婆(かくとうば)に牡丹の燈籠が雨ざらしになっていた。 取って返した新三郎が白翁堂にこの趣を話すと、新番隨院の良石和尚を尋ね、善後策を講じてもらうよう言いつけ、新三郎を向かわせる。

良石和尚は高徳の行者であるから、すべてお見透しである。お札とお経を与え、そして金無垢の海音如来像を貸してやり、肌身離さず身に付けておくようにと指示する。

その夜も約束の時刻にお露とお米の両人が訪れるが、四方八方にお札が貼ってあって入れない。

伴蔵は怠け者で仕事をしない。女房おみねが内職をして生計を立てていた。その夜も女房が夜なべをしていると、蚊帳の中からひそひそと話し声が聞える。亭主の相手が女のようだから悋気を起こし、問い詰めると、萩原の所に来ている幽霊が、裏の小窓に貼ってあるお札をはがしてもらいたいと頼むのだという。店賃をただで住まわせてもらっている萩原には世話になっているため、二晩は躊躇しつつ引き延ばしたが、女房の差し金で百両を代にはがしてやろうということになった。礼金の才覚を承知した幽霊だが、守り本尊をどうにかせねばならない。伴蔵にその工夫を頼み、新三郎に会えぬ辛さに泣きながらお露は出て行った。

(G)

(79)故郷の山と川 2013/06/30

うつせみは 数なき身なり 山川の 清(さや)けき見つつ 道を尋ねな(『万葉集』4468番歌)

万葉の歌人・大伴家持(718~785)が詠んだ歌です。病床にあった家持が、無常を悲しみ、仏道修行を望んで作った歌ですが、「山や川の清らかなのを見ながら仏の道を尋ねよう」とあります。不思議なことですが、山や川と聞くと、故郷の山や川が思い起こされます。

家持にとって「故郷」と呼べる場所は、奈良の「佐保」です。家持の祖父・安麻呂が平城京遷都後に佐保に居を構え、安麻呂・旅人・家持と三代にわたって住んだそうです。

家持は、妾の死を悼み、「佐保山に たなびく霞 見るごとに 妹を思ひ出 泣かぬ日はなし」(473番歌)、「昔こそ 外(よそ)にも見しか 我妹子(わぎもこ)が奥(おく)つ城(き)と思へば愛(は)しき佐保山」(474番歌)と詠んでいます。これまで気にもとめなかった佐保山も、妻が眠っている所と思うと慕わしく愛しく思われる、というのです。

弟の書持が亡くなった時、家持は越中(富山県)にいましたが、「…はしきよし 汝弟の命… 佐保の内の 里を行き過ぎ あしひきの 山の木末に 白雲に立ち棚引くと 吾に告げつる」という長歌(3957番歌)を詠んでいます。佐保山で火葬にされた書持が、山の梢に白雲となってたなびいているといった光景を、家持は越中で思い浮かべ、弟の死を悲しんだのでした。

佐保は自分が育った場所であり、大切な人々の思い出に繋がることから、家持には心に深く深く染みついた風景であったと言えましょう。

ところで、カール・ベッカー氏(京都大こころの未来センター教授)によると、末期患者に死をイメージした絵を描いてもらうと、故郷の池や川や山といった大自然の風景がけっこう出てくるそうです(読売新聞・2013年6月15日朝刊)。

家持は故郷で死ぬことはできず、持節征東将軍として、奈良から遠く離れた多賀城で没しています(785年8月)。しかも、亡くなった翌月には、藤原種継暗殺の首謀者として、隠岐に屍を流されます。罪人として遺骨が隠岐に留め置かれること約20年、家持が赦されたのは平安時代(806年)になってからのことでした。

家持は最期も死後も異国の地にありましたが、最期には、故郷の佐保の風景が目に浮かんだのではないでしょうか。

★歌は、中西進編『大伴家持 人と作品』(桜楓社)より引用いたしました。

(し)

(78)柴五郎の遺文(13) 2013/06/13

青森から五郎少年を同伴してくれた大蔵省出仕長岡重弘が同情して、しばらくの寄食を許す。さらに、9月、最初の鉄道が開通したころ、野田豁通が五郎のために山川大蔵に世話を依頼してくれた。多くの先輩たちが猟官・出世の糸口をつかむために汲々とし、一給仕の死活などに一顧も与えない風潮であるのに、自身の利害に拘泥しない野田の風格に接し、感激を新たにした。斗南の荒野から来たって、人の世の荒野にさまよい出たようなものだと、五郎は往時を述懐している。

山川大蔵方とて、多くの書生が毎日入れ代わり立ち代わり来泊する。困窮を極めているのは明らかだ。にもかかわらず、五郎の汚れた浴衣を気の毒がり、当時アメリカに留学中であった捨松嬢(後の大山巌元帥夫人)の袷(あわせ)を調製して与えてくれた。少女の着物であるから、傍目には異様であるが、自身は暖かくて満足した。

10月に入り、野田に呼ばれ、熊本出身の福島県知事安場保和の留守宅に下僕として斡旋された。朝夕邸内の掃除、家族三度の食事の給仕のほか、長女次女が女学校へ登校する際、書籍包みと重箱の弁当を下げ、人力車の後ろから駆けて供をする。また、退校時に空弁当と書籍包みを下げて、再び人力車を追って帰宅する。学校へ通う同年輩の娘を見て、下僕として当然ながら、自身を顧みて哀れを催さないはずはない。

この安場家は、赤穂義士大石内蔵助良雄切腹の際、介錯したことを誇りとする武張った家柄である。だから、自分の経歴を詳しく話せば、いくらか同情してくれたかもしれないと五郎は思ったが、もちろん一言も洩らすことはなかった。

このころ、浪人の身から陸軍会計一等軍吏に就任した野田豁通から、陸軍幼年生徒隊(陸軍幼年学校の前身)で生徒を募集するから受験せよ、という知らせが届く。欣喜雀躍した五郎は、安場邸に出入りする書生から読書と算術を教わり、にわか勉強を始めた。

新暦明治6年1月1日は、旧暦12月3日に当たる。つまり、この年は、一か月早く正月が訪れた。ところが、主人安場が落馬して重傷を負ってしまったため、一家を挙げて福島へ転居することになった。五郎少年の身の上を考えている余裕はない。すぐに退去を迫られた。しかたなく、再び山川邸に赴く。幼年学校試験の及落が決まるまで、暫時厄介になりたいと懇願すると、大いに同情され、母堂と常盤嬢の専断によって許可された。

寄食中のある日のことである。五郎は山川と母堂の前に呼ばれた。生活がままならないため、五郎から預かった金を借用したいという。元家老の身でありながら、下僕に借金を申し出なければならないほど窮していたのである。

3月になって、待ちに待った入校許可の報を受ける。共に受験した斎藤実は落第し、翌年海軍兵学校に入った。山川大蔵の喜びようは、五郎本人に勝るとも劣らないほどだった。早速、フランス式の軍服を買い集める。前に向け、左に向けといいながら洋服の着方を教え、一家を挙げて喜んでくれた。

4月入校の後、直ちに山川邸を訪れ、習いたての挙手の礼をすると、母堂は五郎の両肩に手を置いて、前から見たり後ろから眺めたりして、流涕した。帰途、野田邸に挨拶に行く。野田は、五郎の軍服姿を眺めつつ、「これでよか、これでよか……」と、ただ「よか」「よか」を連発するばかりだった。

熊本細川藩の出身なれば、横井小楠の門下とはいえ、藩閥の外にありて、しばしば栄進の道を塞がる。しかるに後進の少年を看るに一視同仁、旧藩対立の情を超えて、ただ新国家建設の礎石を育つるに心魂を傾け、しかも導くに諫言をもってせず、常に温顔を綻ばすのみなり。(第一部、101ページ)

野田豁通の恩愛はいくたび語っても尽すことができないと万感を込めて言っている。こうして五郎は、国軍草創の時代とともに歩んで行くことになった。

(G)

(77)柴五郎の遺文(12) 2013/06/05

何としても東京にのぼりたい。逆境から逃れようとする必死の喘ぎであり、青雲の志などという立派なものではなかった、と五郎は謙遜するが、後年陸軍大将にまで昇りつめるくらいだから、現状に安んじるような人物ではない。

野田の知人を頼って同伴上京の斡旋を乞うたが、断られてしまう。また、ドイツの軍艦が青森に入港した折には、給仕した将校が艦内を案内してくれた。この艦内のどこかに潜み、出港後、ボーイとしてドイツに連れて行ってくれと懇願しようという野望を抱いたが、軍艦はすでに陸奥湾の沖遥かに遠ざかっていた。

5月末、地租改正調査に訪れた大蔵省役人の一行に同行して上京できる見通しが立つ。東京に縁者があるかと問われ、知った名前を勝手に並べ立てて信用を得ると、同伴を約してくれた。県庁在勤の人々は、餞別として赤フランネルの古襦袢(シャツ)、古蝙蝠(こうもり)傘、手拭、風呂敷などをくれる。東京までという条件付きで山高帽を貸してくれた人もある。大人用であるから、耳まで深々と入った。

8月21日になって、ようやく東京に至る。千住の街路を通行中、前から人力車を連ねてやって来る一行を見れば、なんと野田豁通であった。五郎を認めると、車を止めて凝視する。五郎が山高帽を脱いで一礼すると、野田は奇遇を驚き、東京の住所を教え、後日尋ねるようにと言い残して去った。

斗南県大参事山川大蔵は、お家復興の地と定め、あらゆる困難を排して殖産に尽瘁したものの、廃藩に遭うや、翻然と荒野を蹴って東京に赴いた。野田もまた府県制の改革によって割を食い、大参事の職を辞して上京し、浪々の身となっていたのであった。

白地の浴衣に袴を着け、大人の山高帽を耳までかぶり、竹行李を十字に縛って肩に懸け、しかも草鞋(わらじ)がけである。みすぼらしい風体に違いないが、以前と変わって、虜囚ではないという自負だけが頼りであった。 当時の風俗を伝える記事として、五郎が断髪を紹介している。丁髷(ちょんまげ)からヘアスタイルを変えなければならないのだが、どうしてよいか分らない。うかつに切ったら罰せられるかもしれないと、役所に伺いを立てる始末だった。従って、以下のような申し渡し書が出されたという。

「総髪(前頭部の剃髪〈さかやき〉を止めて結束す)/剃髪(全部を剃り落す)/摘髪(ザンギリ、後短く前長し)/撫附(なでつけ)(摘髪に比し全部少し短く後さらに短くす)/右等願いに及ばず勝手次第の事」(第一部、90ページ)

要するに勝手にやれということだ。頭髪を切るにもこのとおりだから、他は推して知るべしである。五郎は混迷を極める世相を次のように記した。

昨日の権威地におちて踏み汚され、かつての軽(か)る者権威の座につきて贅をつくす。神仏一つにありしをわかちて仏閣の破壊されたるもの多く、城郭の焼かれたるものまた多し。信心の赴くところ定まらず、祖先を祀ること篤からざる世相(さま)となりぬ。(同、90ページ)

親戚知人が多いと嘘をついて上京したものの、どこを訪ねても寄食を受け入れてくれる所はない。山王下の仁王門の前にくると、若い乞食が竹棒の先に鳥餅をつけて賽銭を盗み取ろうとしている。自分も真似をしようと、乞食の立ち去るのを待つうちに、ふと気づくと母上の声が耳朶に響く。はっとして胸に痛みを感じ、そこを走り去った。

(G)

(76)柴五郎の遺文(11) 2013/05/23

兄五三郎の奔走によって、五郎少年は、学問修行のため、青森県庁の給仕として雇われることになった。大参事野田豁通(ひろみち)の世話になるということである。

この年7月14日、廃藩置県が行われ、斗南藩は斗南県となった。野田は、弘前県大参事である。熊本細川藩産物方頭取(とうどり)石光真民の末弟に生まれ、勘定方に出仕する野田家に入籍、幕末に京都へ出る。実学派の学者として著名な横井小楠(しょうなん)の門下に入った。後年陸軍経理局長に至り、男爵を賜わっている。

五郎によれば、野田は、義侠無私の人で、特に後進を養うこと厚く、箱館(函館)戦争には軍監として活躍した。かつては敵軍の将であったが、薩長土肥の閥外にあり、東北各藩の子弟救済に尽力していると聞き、千載一遇の機会とばかり、これに参じたのであった。

廃藩置県は、全国の旧藩主から知藩事の職を取り上げたわけである。従って、斗南藩主松平容大、旧藩主容保らは東京に去った。開拓がいまだ緒にもつかず、支柱を失った藩士の群れは、荒涼たる原野に取り残されてしまった。こんな危急の時だから、青森派遣は朗報に違いない。「どん底の一家欣然たり」と五郎は記している。

五三郎兄にともなわれ、羽織、袴に小刀を帯び、父上苦心して急造したる草履はきて厳寒の氷雪を踏み行くも、寒さを感ぜず。心躍りて見馴れし白雪一望の山河また美しく映ず。(第一部、77ページ)

県庁から支給された路銀一両、かねて世話になった山本啓蔵から餞別としてもらった一朱、古い蟇口(がまぐち)に父が入れてくれた一分を懐中に収め、兄から教えられた挨拶言葉を父の面前に両手をついて申し上げる。

「何か、ひとかどの修業をいたさねば、ふたたび家にもどりませぬ。父上、御健勝にてお待ち下され」(同、78ページ)

田名部から横浜を経て野辺地へ向かう。宿屋では、久しぶりに目にする漆塗りの膳に魚や菜汁が並び、一両年目にも触れなかった白米の飯を食らい、美味に驚く。泊る先々で腹を満たしたため、馬上で居眠りをしてしまい、路傍の樹枝に首を引きかけて転落するほどだった。

青森県庁へ出頭し、給仕を申し付けられる。月給二分だった。早朝、一般職員が出勤する前に、火を起して湯を沸かす。各部屋の掃除、火鉢の用意、鉄瓶や茶釜の配置など、雑用係である。しばらくして野田邸に引き取られ家僕として働いた。今まで乞食同様の暮らしを経験してきたのだから、この程度の仕事は楽しいし、たやすい。このため、評判がよく、ついには、県庁の給仕は全部会津出身者となった。

野田豁通は、討幕派、佐幕派などの区別なく、人物本位で登用した。後藤新平や斎藤実など、多くの人材を養成している。五郎少年も、こうした野田の気性に心底のこだわりが次第に融けていった。

(G)

(75) 柴五郎の遺文(10) 2013/05/13

塗炭の苦しみに身もだえながらも、会津武士の魂は失わない。

田名部川の水がややぬるみ始めた頃、犬の死体を手に入れる。その日から毎日犬肉を食らうことになった。初めはうまいと感じたが、調味料もなく塩で煮ただけだから、飽きが来る。主食不足を補うためだとはいえ、ついに口に含んだまま吐気を催すまでになってしまう。この様子を見て父はこう叱った。

「武士の子たることを忘れしか。戦場にありて兵糧なければ、犬猫なりともこれを喰らいて戦うものぞ。ことに今回は賊軍に追われて辺地にきたれるなり。会津の武士ども餓死して果てたるよと、薩長の下郎どもに笑わるるは、のちの世までの恥辱なり。ここは戦場なるぞ、会津の国辱雪(そそ)ぐまでは戦場なるぞ」〈第一部、64ページ〉

いつにない語気の荒さに、口に含んだ犬肉を一気に飲み下したが、胸につかえて苦しいことこの上ない。さすがに、この様を見て、「今日はこれにてよし」と父も箸を置いた。だが、こうして20日間に亙り、犬肉と格闘したのである。そのためか、頭髪が抜け始め、とうとう坊主頭のように全体が薄禿となってしまった。

藩政府は、窮状にあっても藩士の子弟を教育するため、圓通寺本堂に学校を設置し、福沢諭吉の『世界国尽』『西洋事情』『窮理図解』などを教授することにした。五郎も毎日登校し、依然漢籍の素読を習っていたが、田名部から落の沢へと引き移ったため、登校できなくなった。

落の沢は山菜が豊富である。蕨の根から蕨粉を製し、田名部へ持って行くと、一升200文となる。日々百姓仕事に精を出しているところへ、再登校を勧めに先生が訪れるが、父や兄嫁の労苦を思えば、登校するに忍びなかった。

晩春、東京で勉学に励んでいた兄五三郎が突然訪れ、太一郎の代わりに開墾に加わる。五三郎は、学校へも行かない五郎の身を案じ、友人小林英衛宅に同居しつつ訓育してもらうことにした。月の一と六のつく休日には、配給米一升を携えて落の沢へ戻るのが常となったが、長くは続かない。

再び吹雪の季節が訪れる。休日通いが困難を極めるようになった。以前から下駄も草履も持たず、裸足のままだ。氷雪の上に裸足で立てば、凍傷になってしまう。常に足踏みをしているか、全速力で駆けるほかない。米一升を担いで氷結した山野を馳せ帰る姿を見て、父や兄が履物を工面しようとするのだが、容易でない。ある日、堪えかねた五郎少年が叔母を訪ね、履物の借用を願い出たものの、その余裕はないと断られている。

父、兄、自分は朝から夜まで、垂れた蓆をあおって無情に吹きこむ寒風に身を震わせながら縄をなっている。ともすれば感覚を失う指先に念力と怨念をこめて、ひたすら縄をなって過ごす。

この境遇が、お家復興を許された寛大なる恩典なりや、生き残れる藩士たち一同、江戸の収容所にありしとき、会津に対する変らざる聖慮の賜物なりと、泣いて悦びしは、このことなりしか。何たることぞ。はばからず申せば、この様(ざま)はお家復興にあらず、恩典にもあらず、まこと流罪にほかならず。挙藩流罪という史上かつてなき極刑にあらざるか。〈第一部、74ページ〉

「挙藩流罪という史上かつてなき極刑」と断じているところは、おそらく後年振り返って覚えた悲憤慷慨を洩らしたものであろう。父に厳しく叱責され、嘔吐を催しつつ犬肉を飲み下したことを五郎は忘れない。「死ぬな、死んではならぬぞ、堪えてあらば、いつかは春も来たるものぞ。堪えぬけ、生きてあれよ、薩長の下郎どもに、一矢を報いるまでは」と父に励まされ、自ら叱咤するけれど、少年にとって空腹はいかんともしがたい現実であった。

(G)

(74) 生き抜いて光を見る 2013/05/07

先日、江戸東京博物館の「二〇一三年NHK大河ドラマ 特別展 八重の桜」を観てきました。大河ドラマで一躍脚光を浴びた「新島八重」にまつわる様々な品や資料が展示してあり、八重が実在の人物であったことを改めて実感しました。八重は、会津時代に戊辰戦争で鶴ヶ城に籠城し、自らも銃をとったことから、幕末のジャンヌダルクと呼ばれ、日清・日露戦争には篤志看護婦として活躍したことから、日本のナイチンゲールとも言われています。

展示品のなかでひと際目をひいたのは、八重の詠んだ短歌でした。

いくとせか みねにかかれる むら雲の はれて嬉しき ひかりをそ見る(新島八重筆和歌短冊)

昭和5年、八重が86歳の時の作です。昭和3年に松平容保の孫節子(勢津子)さまが秩父宮雍仁親王とご結婚なさったことで、戊辰戦争から60年が経ってようやく朝敵の汚名を晴らすことができた喜びを表現しています。会津の人々にとって、この60年はどんなに苦しいものだったでしょう。

戊辰戦争に敗れ、青森県下北半島の斗南(となみ)藩に移封された会津藩の人々が、とても惨めで、辛い生活を強いられたことは、柴五郎の『ある明治人の記録』によって知ることができます。極寒の地での困窮極まる生活の中、五郎は父からこのように言われました。

「やれやれ会津の乞食藩士ども下北に餓死して絶えたるよと、薩長の下郎武士どもに笑わるるぞ、生き抜け、生きて残れ、会津の国辱雪ぐまでは生きてあれよ、ここはまだ戦場なるぞ」と、父に厳しく叱責され、嘔吐を催しつつ犬肉の塩煮を飲みこみたること忘れず。

「死ぬな、死んではならぬぞ、堪えてあらば、いつかは春も来たるものぞ。堪えぬけ、生きてあれよ、薩長の下郎どもに、一矢を報いるまでは」と、自ら叱咤すれど、少年にとりては空腹まことに堪えがたきことなり。(石光真人編著『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』中公新書、75頁)

「生き抜け」、「死ぬな…」という言葉は、八重の心の中にも響いていたのではないでしょうか。生きていたからこそ、暗く重くのしかかっていた雲が晴れて、光がさしたという冒頭に紹介した短歌は、観る人の心を打ちます。

展示品の最後には、「昭和三年京都会津会 秋季例会記念 集合写真」がありました。昭和3年11月10日、昭和天皇の即位儀礼が京都御所で行われたとき、会津の人々も式典に出席していました。京都会津会は、会津ゆかりの人々の上洛を歓迎し、西雲院で秋季例会を開いたのです。集合写真はその時のもので、新島八重も柴五郎も一緒に写っています。皆、満ち足りた表情をしているのが印象的でした。

さて、この話を授業でしたところ、福島のいわき出身の学生が小躍りして、目を輝かせながら聞いていました。会津出身の学生も嬉しそうです。会津っ子だけでなく、福島出身の学生にも「会津魂」は生きているようです。八重や五郎のように生き抜いて40年後、美しい福島の海をもう一度眺めてほしい、と願わずにはいられません。

(し)

(73) 柴五郎の遺文(9) 2013/04/22

明治3年5月半ば、新領地へ移る。佐幕であった南部藩から処罰として二戸(にのへ)、三戸(さんのへ)、北の三郡を割き、これを旧会津藩に与えたもので、斗南(となみ)藩と名付けられた。

200余名の同行者と共に、アメリカ製蒸気船で北進する。外輪船であるから速力が遅い。船酔いによって死人のようになり、周囲の笑いを買う。6月を半ば過ぎたころ、ようやく陸奥湾を経て目的地である野辺地(のへじ)港に到着した。

呉服屋の一室から海中寺という寺に移り、4、5家族同居する。ここに滞在中、兄太一郎は永住・開拓の決意を固め、母方の親族の娘と結婚し、支庁勤めに出る。会津墓参に廻って合流が遅れた父は、ますます寡黙となる。もっぱら付近の川辺に釣り糸を垂れ、その姿は木像のごとく枯れ、石像のごとく動かない。

9月、野辺地から田名部(たなぶ)へ移る。往来に道もない海辺の波打ち際を、駄馬2頭にわずかな荷を積んで進む。野菊が咲き乱れ、ハマナスの見事な赤い実が見渡す限り広がる。崖の上から落ちる水が、強い浜風に吹き上げられて陽に輝く。

斗南藩は、たちまち糧米に窮した。藩士を養うどころではない。3万石は名ばかりで、7千石がやっとの惨状だ。そこで、兄太一郎が使者となり、箱館(函館)のデンマーク領事から糧米を購入することにした。ところが、仲介者である貿易商人が藩からの支払金を持ち逃げしてしまう。デンマーク領事は藩を相手取り、賠償を請求した。藩に迷惑が及ぶことを怖れた太一郎が、自分の仕業であると主張した。太一郎は捕われ、東京へ護送されてしまう。太一郎の義侠によって、藩政府は莫大な賠償を免れる。また、司法当局も太一郎の心情に痛く同情し、情状酌量の上、禁固刑に処した。以後、7年の間、気の毒な新婚の兄嫁は留守を守ることになる。

1日大人玄米3合、小児2合と銭200文(後の2銭)。藩政府から支給される、たったこれだけですべての用を弁じなければならない。当初間借りしていた人々も、家賃の支払いに窮し、掘立小屋を建て連ね、開墾を始めることになった。

働き手を失った五郎少年一家は、春まで空き家を借用した。陸奥の冬は、会津と比較にならない。陸奥湾からの北風が部屋を吹き抜ける。骨ばかりの障子に米俵を縄で縛りつけ、戸障子の代用としている。炉辺にいても氷点下15度にまで下がるから、炊いた粥さえ石のように凍ってしまう。融かしながら啜らねばならない。移住して最初に訪れた冬の生活は次のようなものであった。

用水は二丁ばかり離れたる田名部川より汲むほかなし。冬期は川面に井戸のごとく氷の穴を掘りて汲みあげ、父上、兄嫁、余と三人かわるがわる手桶を背負えるも途中にて氷となり溶かすに苦労せり。玄米を近所の家の臼にて軽く搗きたるに大豆、馬鈴薯などを加え薄き粥を作る。白き飯、白粥など思いもよらず。馬鈴薯など欠乏すれば、海岸に流れつきたる昆布、若布(わかめ)などあつめて干し、これを棒にて叩き木屑のごとく細片となして、これを粥に炊く。方言にてオシメと称し、これにて飢餓をしのぐ由なり。色茶褐色にて臭気あり、はなはだ不味なり。菜は山野の雑草を用いたるも冬期は塩豆のみなり。父上腐心して大豆を崩し、豆腐を作らんと試みたるも、ついにできず、砂糖、醤油などまったくなし。〈第一部、63ページ〉

餓死・凍死を免れるのが精一杯だったのである。

(G)

(72) そして『菅家後集』は残った①… 2013/04/15

右大臣・菅原道真(845~903)は57歳の時、25歳も年下の左大臣・藤原時平の讒言(ざんげん)により、大宰権帥に左遷されました。『大鏡』には、道真が配所に行くまでのことが詳しく書かれています。

いよいよ自邸を離れるという時、庭には梅の花が美しく咲いていました。道真はこの梅の花を生涯忘れがたい風景として、和歌や漢詩に詠みました。

東風(こち)吹かばにほひおこせよ梅の花主(あるじ)無しとて春を忘るな(春風が吹いたなら、梅の花よ、お前の香りをおくって寄こしてくれ。主人の私がいないからといって春を忘れるでないぞ。)

また、大宰府に行く途中、明石の駅長が道真を見て驚いたのに対し、「駅長驚くことなかれ。時の変わり改まること。一たびは栄え一たびは落つる。これ春秋。」と告げたことはあまりにも有名です。

さて、配所で作詩した漢詩をまとめたものを『菅家後集』と言っています。大宰府で幽閉された道真の無念が伝わってくる漢詩集です。

城に盈(み)ち郭(くるわ)に溢れて幾ばくの梅花ぞ 猶是れ風光の早歳の華のごとし 雁の足に粘(ねえつ)き将(もたり)ては帛(きぬ)を繋げたるかと疑ふ 烏の頭に点(さ)し著(つ)きて家に帰らむことを思ふ(「謫居の春雪」『菅家後集』514) (春の雪は城一杯に満ち満ちて建物にも溢れるほど降り敷き、一体どれくらいの梅の花が咲いているのかと思わせるほど。雪は風に揺られ梅花が光ってまるで季節に先駆けて咲く花のようだ。雪はあたかも蘇武が託した手紙のように雁の足に粘り着いて、白布を懸けたかの如く、燕(えん)の太子丹(たいしたん)が故郷に帰れたように烏の頭に雪が積もって白くなったように見える。さて私も家に帰ろうではないか。【訳】佐藤信一)

都の我が家に帰りたいと思いながらも、道真は二度と都に戻ることなく、配所にあること三年、大宰府で亡くなりました。

時平は政治家として名を残しました。一方、菅原道真は政治家でもありましたが、文学の世界で名を残し、その詩歌は今でも私どもの胸を打ちます。どちらの生き方がよいとか悪いとか、一概には言えませんし、道真の漢詩集が現代にまで残ったというのも結果論ですから、道真はやっぱり無念で「報われない!」と思いながら、その生涯を終えたのかもしれません。それでも、道長に深い同情を寄せ敬愛の念を抱かずにいられないのは、巧言令色・右顧左眄・佞臣はびこるこの現代、左遷された道真が、サラリーマン世代にとっては自分のことのように思われるからでしょう。

「紅旗征戎(こうきせいじゅう)わが事にあらず」(藤原定家の言葉)――文学をこよなく愛する人はこの生き方を貫くものと思っています。

※道真の和歌や漢詩をもっと味わいたい方には、佐藤信一先生の『コレクション日本歌人選043 菅原道真』(笠間書院)をおすすめいたします。

(し)

(71) 柴五郎の遺文(8) 2013/04/02

明治2年の暮に至り、小川町の講武所で飯炊きに追われる五郎少年を、土佐藩公用人毛利恭助が学僕として預かってくれることになった。

「土佐藩は会津にとりて旧敵なり、若松城攻囲軍の参謀に土佐の板垣退助ありと聞けり。断じて恥ずかしきことなすべからず」と兄太一郎から戒められて土佐藩邸に赴く。主人となる毛利に挨拶したが、他藩の者と言葉を交わすのは初めてであった。

学僕とは名ばかりで、家内の掃除、来客の取り次ぎなどが仕事である。毛利が外出する折はもっぱら供を仰せつかった。毛利は毎日外出する。太政官、他藩の屋敷、知人宅、料亭、待合などに随行し、控え所で年長の奴僕らと主人の帰りを待つ。しかし、まだ11歳の少年にはこの時間が辛い。奴僕らは猥雑な話ばかりに打ち興じ、下婢をつかまえては悪戯する。

主人は大の馬好きだ。飼っていた大型の洋馬に跨ったら大変である。別当を前に立たせ、五郎を馬の傍らに従わせて駆けるのだが、たちまち遅れて主人を見失ってしまう。人混みの中を会津弁で馬の行方を尋ねながら息せき切って走るのは、まことに情けない。

ある日、料亭へ供をして詰所で待つうち、主人から部屋へ来るようにと伝言があった。芸妓などが多数侍る華やかな宴席である。毛利はいささか酩酊の体で、「この小僧は会津武士の子でな、母も姉妹も戦争のため自害して果てたるよ」と満座に披露した。芸妓らは五郎を取り巻き、同情の言葉をかけた。この場面を五郎はこう述懐している。

子供ながらも馬鹿馬鹿しく口惜しく、こみ上ぐる涙を呑んで引きさがりたること忘れず。肉親の犠牲を宴席の座興にせること、胸中煮えたぎる思いなりき。〈第一部、56ページ〉

毛利邸の使用人は、十日目ごとに金若干を与えられ、日に三度御用聞きに来る総菜屋から好みの副食物を買うことができたのだが、五郎には、十日目ごとに銀一分しか与えられず、これによって下駄・草履・湯銭・手拭いなどを賄わねばならなかった。

翌明治3年4月、下僕と変わらぬ情況を兄太一郎に訴えると、とりあえず父のいる講武所に戻るように言われ、直ちに毛利邸を辞す。父へ菓子など買って手土産にしなさいと、主人の妻が餞別として銀一分をくれる。しかし、帰途神田橋で夕立に遭い、もらった一分は雨傘の代に消えた。

五郎少年一家の陸奥移住が本決まりとなる。

藩主松平容保が赦免され、陸奥に3万石を賜り、藩存続の望みが達せられたものの、4千戸に及ぶ藩士を養うことは到底できない。藩士は、その行く所自由とし、会津に帰る者210戸、農商に帰する者500戸、江戸その他に分散する者300戸、北海道に移住する者200戸、そして、結局陸奥の新領地に移封する者2800戸となった。

4月17日、駒場で大調練(観兵式)があると聞き、還幸途上の明治天皇を初めて拝す。武人の装束に身を固めた馬上の天皇の両側には数人の力士が付き従い、大いなる錦の御旗二旒を高々と捧持している。

兄太一郎は、この行列を見終わって何事も語らず、五郎もまた何事も問わなかった。

(G)

(70) 花・紅葉の紛れ 2013/03/23

『源氏物語』薄雲巻で、37歳という厄年の藤壺は病気になり、春にこの世を去っています。最愛の女性、藤壺を亡くした光源氏(32歳)の眼前には、無常にも二条院の桜が美しく咲いていました。

二条院の御前の桜を御覧じても、花の宴の折など思し出づ。光源氏「今年ばかりは」と、一人ごちたまひて、…(花宴巻)

「花の宴」とは、光源氏20歳の時の「南殿の桜(=紫宸殿の前にある左近の桜)の宴」を指し、この時、光源氏は藤壺の前で「春鶯囀」という舞を披露しています。藤壺は、「おほかたに花の姿をみましかば露も心のおかれましやは(独詠歌:もしも世間の人並に、この花のような光源氏のお姿を見るのであったら、露ほどの気兼ねもなく心ゆくまで賞賛することができたであろうに)」と、夕日に映える光源氏の舞姿を桜にたとえました。光源氏は、この花の宴の光景を藤壺の思い出として後々まで深く心に留めていたことになります。

また、「今年ばかりは」は、「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け(深草の野辺に咲く桜に心があるならば、今年だけは喪服の墨色に咲いてくれ。)」(『古今集』巻一六・哀傷・八三六・上野岑雄)という歌を踏まえています。辺り一面の墨染めの桜を思い浮かべると、光源氏の深い悲しみがよく伝わってきます。

落花の紛れには不思議な力が働くようで、古くより「死」と結びついてきました。藤壺も、落花に紛れて他界してしまったかのような印象を受けますね。実は、落花に紛れて死ぬといった発想は、奈良時代からありました。

世間は数なきものか春花の散りの乱ひに死ぬべき思へば(『万葉集』巻17・3963・大伴家持)

当時、落花の頃には疫病が流行すると考えられ、厄よけのために「鎮花祭(はなしずめのまつり)」が行われていました。

一方、物語では、紅葉の散る中から、光源氏が立ち現れる姿も描かれています。紅葉賀巻で、朱雀院行幸の日、光源氏は頭中将と二人で「青海波」という舞を舞っています。

木高き紅葉の蔭に、四十人の垣代いひ知らず吹きたてたる物の音どもにあひたる松風、まことの深山おろしと聞こえて吹きまよひ、色々に散りかふ木の葉の中より、青海波のかかやき出でたるさま、いと恐ろしきまで見ゆ。

紅葉の木陰で奏楽する四〇人の垣代(楽人の意)、そして、色とりどりの紅葉が散り交う中から青海波を舞い出た光源氏の姿は、「いと恐ろしきまで見ゆ」「そぞろ寒くこの世のことともおぼえず」と表現され、恐ろしいほどまでに美しいとあります。神懸かった光源氏の舞姿は、舞い散る紅葉の中から神そのものが立ち現れたかのようにも感じられますね。

花・紅葉が散るのに紛れて人が姿を隠したり、立ち現れたり…。文学の世界でも、花・紅葉の紛れは、幻想的な空間を創り出しています。

その最たるものが、坂口安吾の「桜の森の満開の下」でしょう。少々長いですが、最後の場面をご紹介いたします。

そして桜の森が彼の現前に現れてきました。まさしく一面の満開でした。風に吹かれた花びらがパラパラと落ちています。土肌の上には一面に花びらがしかれていました。この花びらはどこから落ちてきたのだろう? なぜなら、花びらの一ひらが落ちたとも思われぬ満開の花のふさが見はるかす頭上にひろがっているからでした。男は満開の花の下へ歩きこみました。あたりはひっそりと、だんだん冷めたくなるようでした。彼はふと女の手が冷めたくなっているのに気がつきました。俄かに不安になりました。とっさに彼は分りました。女が鬼であることを。突然どッという冷めたい風が花の下の四方の涯から吹きよせていました。

彼の呼吸はとまりました。彼の力も、彼の思念も、すべてが同時にとまりました。女の屍体の上には、すでに幾つかの桜の花びらが落ちてきました。彼は女をゆさぶりました。呼びました。抱きました。徒労でした。彼はワッと泣きふしました。たぶん彼がこの山に住みついてから、この日まで、泣いたことはなかったのでしょう。そして彼が自然に我にかえったとき、彼の背には白い花びらがつもっていました。

桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分りません。あるいは「孤独」というものであったかも知れません。なぜなら、男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。彼自らが孤独自体でありました。彼は始めて四方を見廻しました。頭上に花がありました。その下にひっそりと無限の虚空がみちていました。ひそひそと花が降ります。それだけのことです。外には何の秘密もないのでした。…

彼は女の顔の上の花びらをとってやろうとしました。彼の手が女の顔にとどこうとした時に、何か変ったことが起きたように思われました。すると、彼の手の下には降りつもった花びらばかりで、女の姿は掻き消えてただ幾つかの花びらになっていました。そして、その花びらを掻き分けようとした彼の手も彼の身体も、延した時にはもはや消えていました。あとの花びらと、冷めたい虚空ばかりがはりつめているばかりでした

ひそひそと降る花と無限の虚空が、読者を幻想的な世界へと誘います。さて、今年の桜の紛れに、皆さんは何を幻視されるでしょうか。

(し)

(69) 柴五郎の遺文(7) 2013/03/13

年が改まるころ、母の実家のある御山に病院が建設され、敵味方を問わず診療が行われた。太一郎もここで手当を受けている。山荘の生活にすっかり慣れ、百姓の姿で土にまみれて過ごす安穏な日々を送っていた五郎少年に転機が訪れる。

明治2年6月、御山病院の傷痍者もおおむね治療を終え、俘虜として東京に護送されることになった。晒し者として江戸に連れてゆかれるくらいなら、この地にとどまって百姓となり、母の墓所を守りたいと、太一郎兄に申し出るが、「辱めを受けたら、江戸でもどこでも斬り死にか、腹掻っさばいて会津魂を見せてくれようぞ、今から気弱になってどうするのだ」と語気激しく叱責されると、うなだれて従うしかなかった。

出発に際し、負傷者には身分に応じて看護人を一人伴うことが認められた。そこで、官軍と交渉して、五郎少年は留吉の名を出願し、許可される。

梅雨時であった。連日雨にけむり、太陽が見えない。負傷し歩行が困難な太一郎兄には板輿が与えられる。蓑笠を着てこの上に坐し、さらに茣蓙(ござ)をかぶって雨を防ぐのである。五郎少年は、徒歩で後を追うが、雨水を含んだ蓆が重くて難渋する。見かねた官軍の監視兵が板輿を徴発してくれた。首から腕を吊った者、両杖に足をひきずる者、荒い息遣いばかり激しく足が運ばないため、次第に列から遠ざかる者、下男に背負われた白髪の老体、まさに「乞食の大名行列」としか思われなかった。

梅雨の明けた、耐え難い蒸し暑さの中、ようやく東京に入る。一ツ橋門内、御搗屋(おつきや)と称する幕府糧食倉庫に到着した時には、疲労が極限に達していた。木造二階建ての広い倉庫で、階下は土間である。漬物置き場らしく、沢庵漬けの匂いが充満し、湿気がはなはだしい。

東京に送られた会津藩士は、音羽の護国寺、小川町の講武所、麻布の幸田邸、御搗屋の四か所であったが、後に芝増上寺が加えられた。すべて「謹慎所」と呼ばれる俘虜収容所であり、監視兵付きである。後に、飯田町火消屋敷跡に会津藩事務所の新設が許され、山川大蔵を総督とし、旧藩の役員並びに有力者を集めて連絡統制に当たることになる。太一郎兄はこの事務所に移り、松島翠庵と名を変え、医者の姿となった。藩士の行動は限られていたため、医者となって自由に他藩の友人・知人を訪ねまわり、会津藩の善後策について助力を求めるためである。

9月27日、祖先の祀りをなすため、南部の地を割いて三万石を賜うという恩命が下った。当初、猪苗代か陸奥の国かについて、意向を訊ねられたが、猪苗代は旧領の一部だから、経済的にも精神的にも受け入れにくいという意見が多く、未知の土地とはいえ、宏大な陸奥に将来を託すほうがよいだろうと議が決し、「徳川慶喜、松平容保以下の罪を免ず」との詔勅が下る。藩士一同感泣して喜んだのだが、五郎少年は疑念を拭い去れなかった。

このことは幼き余にとりて不可解千万なる出来事として脳裡に刻まれたり。罪を免ずとは何事なるぞ、罪は薩長の策士等にあり、彼等を罰して余等を赦免するが当然なりと悲憤やるかたなきも、お家復興を祝いて祝意を表する藩士らの明るき表情に接し、何事も問い質す自信を失えり。〈第一部、51ページ〉

彼の不安は的中した。

慶応3年の時点で、会津藩は旧領30万石、京都守護職などによる増封5万石、第一回職封5万石、第二回職封5万5千石、加うるに、月2千俵、月1万両を賜わっていた。石高に換算すれば、67万9千石の大藩である。そこへ、陸奥の国、旧南部藩の一部3万石に移封された。厳しい措置とはいえ、藩士一同感涙に咽んだものの、新領地は半年雪に覆われた、下北半島の火山灰地である。この痩せた土地では実収7千石しか見込めない。藩士全員を養うことなどとうていできないことを、この時、誰一人知るものはなかった。

(G)

(68) 『うつほ物語』の年中行事①―上巳 2013/03/03

3月3日はひな祭りの日で、上巳(じょうし)の節供、桃の節供とも言います。古くは3月最初の「巳の日」に節供を行っていたので、「上巳」と呼んでいました。現在のような雛人形を飾る習慣は江戸時代からで、平安時代は、中国から伝来した風習、水辺での「禊祓」の行事や、そこから変形した「曲水の宴」を行っていました。

日本では、上巳に罪穢れを祓い清めるために人形(ひとがた)を使います。自分の身体の穢れを人形に移して川や海などの水に流したのです。鳥取の「流し雛」はその名残です。

さて、『うつほ物語』でも上巳の場面が所々に見られ、宮中だけでなく、貴族の私邸でも上巳の節供を行っていたことが伺えます。その中で最も注目されるのが、源正頼一家の上巳の祓で、なんと京都から難波まで出かけているのです。

かくて、弥生の十余日ばかりに、初めの巳の日出で来たれば、大将殿(正頼)には、上巳の祓へしに難波へ、…百五十石ばかりの船六つ、檜皮葺きの船具して、金銀、瑠璃に装束かれ、大きなる高欄を打ちつけ、帆手に上げて、白き糸を太き縄になひ、大いなる箔絵にて、船の調度に使ひ、すべて御簾どもなども縫物などして、船六つに、船子二十人、楫取り四人、装束選び、かたちを整へて、国々の受領ども、一つづつ御船の装束どもして奉りたるに…[②74頁]

正頼一家の乗る舟は、150石ほどの船6隻に漕ぎ手が20人と船頭4人。船は金銀・瑠璃で飾り立て、御簾の縁なども刺繍がしてあり、ゴージャスです。難波では大勢の受領たちが正頼一家を出迎え、彼らが宿泊するための場所を準備し、奉仕しました。船では船頭の唄う舟歌に笛を吹き合わせ、岸辺では万歳楽を奏しています。

それから、船ごとに祝詞をあげ、一斉に御祓をするころに、藤原仲忠が祓のための道具(人形)を贈りました。

かくて、御船ども漕ぎ寄せて、御船ごとに祝詞申して、一度に御祓へするほどに、藤中将の、御祓への物取り具して奉る。[②78頁]

この場面では、明確に「人形」とは出てきませんが、上巳の祓がどのようなものであったかを、ある程度知ることができます。

上巳の祓を上手に物語の中に取り込んだのが『源氏物語』です。須磨巻では、光源氏が上巳に海辺で禊を始めると、暴風雨に襲われます。

弥生の朔日に出で来たる巳の日、「今日なむ、かく思すことある人は、禊したまふべき」と、なまさかしき人の聞こゆれば、海づらもゆかしうて出でたまふ。…この国に通ひける陰陽師召して、祓せさせたまふ。舟にことごとしき人形のせて流すを見たまふ…

須磨に退去した光源氏は、陰陽師を召して祓をさせます。舟に大げさな人形を積んで流すのを光源氏はご覧になったとあります。光源氏が歌を詠んでいると、穏やかだった海が豹変し、暴風と雷雨に見舞われました。恐ろしい夢を見た光源氏は、須磨に留まりがたく思います。この嵐は都とも連動していて、都も異常気象で政務まで滞るほどだったそうです。光源氏を追いつめた右大臣家や朱雀帝への天罰とも読みとれます。

その後、光源氏は明石入道と出会い、明石の浦に移り住みます。そして、入道の娘、明石の君と契りを結び娘が誕生するわけですから、上巳の祓は、物語の場面を大きく転換させるものであったと言えましょう。

ところで、3月3日を過ぎても雛人形を飾っていると婚期が遅れるという迷信は、流し雛に由来します。せっかく身代わりとなって穢れを引き受けてくれた人形を、そのまま手元に置いておくと穢れを祓ったことにならないと考えられたからです。

でも、今日、雛人形をしまい忘れた皆さん、落ち込まなくても大丈夫です。日本の年中行事は旧暦で行われていたので、旧暦の3月3日までは猶予期間(?)ですよ。

(し)

(67) 柴五郎の遺文(6) 2013/02/23

9月22日、突如として銃砲声がやんだが、新たな不安が去来して空虚を覚える。晴れ渡る晩秋の空を仰げば、その高く広く澄んでいることを異様に感じ、生き残りの赤蜻蛉の乏しい群れが流れて天地寂寞たる有様であった。

城下の様子を探りに出た下男留吉の報告により、降服・開城の噂が真実と知れる。降服したとはいえ、取り乱すことのない気丈な態度を会津藩士は示したと、留吉は嗚咽しながら語る。

「残念無念なれど開城せられたりと聞く、真なり。藩主御一統さまご無事にてすでに城外妙国寺にあり。藩士傷つける者多きも意気さかんにして、恥ずべきふるまいなし。全員帯刀を許されて城を出て猪苗代に護送されたりと聞く。沿道に敵軍蝟集して罵声をあびせ、唾吐きかけ、石投げつけなどするも、わが藩士泰然自若、形を崩す者なしとのことなり。城中にありし御婦人がた五百七十余人、城外にて降服せるものとあわせて喜多方付近の浜崎に収容されたりと聞く。御父君、五三郎様、茂四郎様の御消息聞きおよぶべき術(すべ)なく残念なれど、御安泰なりと推察す」〈第一部、37ページ〉

11月に入って、農家の子の姿だから安全と思い、きさ女らとともに旧邸の焼け跡に至る。赤く焼けた瓦礫ばかりで、庭木もほとんど見当たらない。見渡す限り、郭内の邸はことごとく灰燼瓦礫と化していた。遺骨の細片を拾い集めたものの、これが祖母・母・姉妹の変わり果てた姿だとはどうしても理解できず、涙が頬を伝って落ちるばかりである。何か生きた物はないかとようやく探し当てた玉椿の小株を持ち帰り、面川沢の山荘に植えた。これが後に大木に成長したという。

連日粉雪が舞い、寒気が身に染みる朝、留吉の報告にあった茂四郎兄がひょっこり姿を見せる。父子三名ともに猪苗代の収容所にあり、この日特に許しを得て、連絡のために訪れたのであった。茂四郎は、白虎隊に編入されていながら、城中に病臥していたため、かろうじて生き残ったのである。

太一郎兄が、叔父清助に就寝を促し、兄弟のみで囲炉裏を囲んで深更に及んだ。茂四郎は、城中での婦女子の奮戦ぶりを語って聞かせる。

城中にて婦女子の活躍ぶり、まこと目覚ましきことにて、敵砲丸城中に落下すれば、水浸したる蓆、俵の類を拡げて走り、この上に置いて消し、その被害戦士におよぶを防ぐ。また傷者の手当、炊出などやすむ暇なく、衣服よごれ破れるもかえりみず、血まみれになりて奮闘せる由なり。最後の時いたれば白無垢のいでたちに身を清め、薙刀小脇に抱きていっせいに敵陣へ斬りこみ果てる覚悟なりしという。〈同、42~43ページ〉

無論、この婦女子の中に山本八重(=後の新島八重)もいたはずである。ただし、柴五郎との接点はない。

時折軒から雪のなだれ落ちる音がして、囲炉裏の焔がすきま風に揺らぐ。五郎少年は、久しく忘れていた母の暖かい膝を思い、衣類を着せてくれた細い指先の感触などが蘇って秘かに落涙した。

(G)

(66) 柴五郎の遺文(5) 2013/02/12

9月8日、明治と改元されても、会津若松に銃声は絶えない。敵軍の追及はやまず、面川に逃れていた国家老内藤可隠一家が包囲されて自刃している。9月20日ごろ、長兄太一郎が足に銃創を受け、山荘へかつがれて現れる。すでに討死したものと思っていた家中の者がこぞって出迎えた。この日、柴一家の殉難を叔父清助から聞かされた太一郎の心痛を「いかばかりなりしか」と、五郎少年は推し測っている。

この太一郎に付き従う陣森兵蔵という従者の逸話が面白い。

敵の探索を恐れて、山荘からさらに奥まった渓谷に隠れ場所を設けると、そこで負傷した太一郎と五郎と兵蔵の三人が籠った。もっぱら兵蔵が太一郎の看護に当たり、五郎は百姓の姿であるから、人影のないのを見計らい、山荘に通って食物を運んだり、汚れた繃帯を土中に埋めたりした。

兵蔵の郷里は越後濁川。相撲好きで田舎関取であったという。賭博を好み、喧嘩は日常茶飯だが、情誼に厚く、自ら侠客をもって任じていた。五郎の叔父の一人守三が越後方面に出陣中、従僕として雇用したところ、戦争は面白いと言って、常に戦陣の先頭に立って戦った。負傷した叔父の看護を終えると、再び戦陣に馳せ戻り、軍事奉行の任にあった太一郎に随従したのである。

越後軍が敗れ、若松へ敗走して東松嶺から鶴ヶ城を望めば、一面火と黒煙の海である。これを指して、「会津は落ちた。われらはこれから城に馳せ参じて自害するのみ。お前はもともと会津とは何のゆかりもない。われとともに死ぬ義理はないのだから、すみやかに帰郷せよ」と、太一郎が金子を与えて訣別しようとしたところ、兵蔵はにわかに色を変じて、こう憤慨した。

「これは驚き入りたることかな、主人の言とも覚えぬ無情無慈悲のお言葉なり。吾等下賤の博徒なりといえども一宿一飯の義理をたっとぶ、その家に難あれば身命を棄つるものなり。しかるに何ぞや、主君ただいま国難に赴くにさいし暇をたまわらんとは、まこと義理もなく人情もなし。御命令なれど、だんじてお断り申す」〈第一部、34ページ〉

憤然たる面構えで梃子(てこ)でも動かない。その真情に打たれた太一郎は、兵蔵を伴って各地を転戦した後、ついに面川沢に至ったのであった。戦後、太一郎が病院に収容されると、主人の前途は安心だとして暇を乞い、元の博徒に戻り天下を放浪すると述べ、兵蔵は飄然と立ち去った。

その後杳として消息が知れなかったが、明治6年、五郎が陸軍生徒隊(=後の陸軍幼年学校)に在校中、突然兵蔵からの音信がある。浅草寺に寄宿中の太一郎とともに再会し、流涕して無事を喜び合った。翌年、妻も得て米搗を業としていた兵蔵の許を訪れた太一郎らは、簡素ながらも情のこもったもてなしを受ける。夕刻、別れに際して、兵蔵は畳に両手をついてこう言った。

「わしも真面目に堅気の商売を思いたち、どうやら暮してまいりましたが、とうてい永続きの自信はございません。博徒は、やはり博徒仲間と暮すのがいちばん生き甲斐あること、もはや戦などあるわけもなく、楽しきこと何もございません。これよりふたたび放浪の身となるつもりで、本日お招きいたしたところ、こころよくおはこびを得て嬉しきことこのうえもございません」〈同、35ページ〉

訣別の挨拶をした兵蔵は、その後消息を絶ってしまう。戊辰戦争の時分36歳、再会の折には42歳であった。五郎は「惜別の情とくに深し」と結んでいる。

(G)

(65) 『うつほ物語』仲忠孝養譚の仲忠① 2013/02/03 

『うつほ物語』俊蔭巻では、ひもじい思いをしている母のために、五歳の仲忠が凍った賀茂川から魚を取ってくる場面があります。仲忠孝養譚と言われる場面です。

氷鏡のごとく凍れり。そのかみ、この子(仲忠)いふ、「まことにわれ孝の子ならば、氷解けて魚出で来。孝の子ならずは、な出で来そ」とて泣くときに、氷解けて、大いなる魚出で来たり。取りて行きて母にいうやう、「われはまことの孝の子なりけり」と語る。[新編日本古典文学全集①73頁]

賀茂川は、流れのゆるやかなところでは実際に凍ることがあるそうなので、平安時代も凍りつくことがあったと考えても差し支えないでしょう。驚くのは、仲忠が「わたしが本当に親孝行の子なら、氷が溶けて、魚よ出てこい…」と言ったら、本当に氷が溶けて、大きな魚が出てきたことです。現実にはあり得ない話ですね。

これは、中国の『孝子伝』に登場する「王祥」の故事の影響を受けていると言われています。

王祥なる者は至孝なり。吾の時の司空と為る。其の母、生魚を好む。祥、常に懃仕す。冬の節に至り、池悉く凍りて、魚を要むることを得ず。祥、池に臨み、氷を扣きて泣く。而して、氷砕けて、魚踊り出づ。祥、之を採りて母に供す。(船橋本『孝子伝』下・27)

親孝行な王祥が、魚の好きな母のために、冬、凍った池を泣きながら叩いたところ、氷が砕けて魚が出てきたという故事です。上記のお話は、王祥が池の氷を叩き割って魚を取りだしたのではなく、孝行息子に天が感動して、自然に氷が砕けて魚が躍り出てきたと理解したいものです。

さて、幼い仲忠が寒さの中、魚を取ってきてくれたので、母は涙を流します。「小さき子(仲忠)の、雪を分けて、足は海老のやうにて走り来るを見るに、(母は)いと悲しくて、涙を流して」とあります。

仲忠の足が海老のようであったという表現について、河野多麻氏は、「手足が寒さであかくこごえている様子を蝦のようという。蝦はうでて(「ゆでて」に同じ)赤くなった蝦のこと。その色とかがまった形は当っている」と注しています(旧日本古典文学大系『宇津保物語 一』岩波書店)。これを受けて、室城秀之氏は「『海老のやうに』は赤く曲がっているさまの形容」としています(『うつほ物語 全』おうふう)。一方、野口元大氏は「成功した形容」としています(『うつほ物語』(一)明治書院)。

寒い雪の中だから、足がかじかんで赤い海老のようになっていると解釈したくなります。それに加え、魚を取ることに成功したので、嬉しくて飛び跳ねている様子をも表現しているかもしれません。

上流貴族の子どもが、真冬に素足を見せる格好をしているなんて、涙が出ますね。母を喜ばすために、仲忠が雪をかきわけて、細く小さな足を真赤にしながら、白い息を弾ませ「お母様、魚が取れましたよ」と駆け寄ってくる光景が目に浮かんできて、とても美しい場面だと思いました。

(し)

(64) 柴五郎の遺文(4) 2013/01/23

五郎少年は、面川沢の別荘に到着する。翌日、大叔父の未亡人きさ女に伴われ、山の幸を拾い集めて日を暮し、夕刻帰宅すると、会津若松から帰った下男留吉が、敵軍が城下に迫って危険であるから、明朝帰宅せよという母からの伝言をもたらした。

逸る気持ちを抑えつつ迎えた翌朝、洋服に大小を帯びて大雨の中山荘を出発する。泥濘の坂道を5・6町(=約540~640メートル)下った辺りで、聞きなれぬ轟が大地を這い、山間に反響しつつ大気を震わしている。さらに進むと、豆を炒ってはぜるような音が、大雨が傘を打つ音に混じって耳を聾するばかりとなる。城下が近づくにつれて、これが鉄砲の一斉射撃であると知られた。

湯沢村の北口に至ると、濡れ鼠となった避難民街道を埋めている。老いた者の腕を抱え、幼い子や病者を背負った者、槍・薙刀を手挟む婦人など、いずれも跣足(はだし)のままである。笠はおろか雨具も持たず、豪雨の水煙の中から陸続として現れ、絶えることがない。

不意打ちをくらった会津市街の住民は、三の丸へ馳せ参じたが、すでに城門が閉ざされて入れない。立錐の余地もなくひしめく群衆の頭上を容赦なく弾丸が飛ぶ。危険を避けて西南へ逃れるため、川原口の郭門を出ようとしたが、守備兵が頑なに開こうとしない。ようやく開かれた郭門から流れ出た群衆は、大川の渡船場へと殺到した。

この時の様子を五郎は『古河末東実歴』を援用しながら、以下のように臨場感に溢れた記述をしている。

このとき沿岸の農民警鐘を乱打し、蓑笠姿にて続々と馳せきたって小舟をあつめ、避難の群衆を対岸に渡す。舟すくなくしてはかどらず、河畔にむらがる者幾千なりや計りがたし。武家の子女は白布を頭に巻きて薙刀を杖つき、藩校の学生にして十二、三歳の者は双刀を佩(お)び、雨中に立ちて朝より夜にいたるまで難民を警護して動かず、満身雨水に濡れて淋漓(りんり)たり。小舟をあやつる農民もまた必死の形相して、濁流を往来し、疲労困憊(ひろうこんぱい)すれど休まず、ちかづく猛火に照らされて仁王のごとく、阿修羅(あしゅら)に似たり。砲声耳を聾し、火勢肌を焼くがごときも、救援の農民去らず夜を徹して奉仕す。転覆溺死せるものきわめてまれなりと伝う。〈第一部、27ページ〉

五郎少年が留吉とともに遭遇した難民の群れは、こうして逃れ来った者であった。ことごとく南へ向かう群衆に逆らって北を目指す二人を見咎め、火焔に包まれた郭内に入ることはできないから引き返せと口々に諫められたものの、帰心矢のごとし、難民の列から離れると、稲田に飛び込み、水しぶきをあげながら走って、一目散に母の許を目指した。すでに天守閣、角櫓(すみやぐら)などは黒煙に覆われて見えず、各所に紅蓮の焔を巻き上げている。我が家とおぼしい辺りに至っては一面の火の海である。

訪問どころか捜索さえ不可能を覚った五郎少年は、口惜しさに「母上、母上」と叫びつつ、地を叩き、草をむしって号泣した。母君はじめ御家人は必ず面川沢に来るはずであるからと留吉に促され、降りしきる豪雨の中、難民の群れにもまれつつ山荘へ引き返す。呼吸のみ荒く、言葉を発する者とてない。まるで亡者の群れのようであった。

山荘へ戻ると、逃れ来った未知の人々が屋内や軒下に充満している。午後に至ってようやく叔父柴清助が妻とともに疲労を極めた体で到着した。早速家人の消息を尋ねると、「のちほど……」と言って、すぐには返答しない。奥の部屋から難民を去らしめて後、身じまいを正して五郎少年にこう告げた。

「今朝のことなり、敵城下に侵入したるも、御身の母をはじめ家人一同退去を肯(き)かず、祖母、母、兄嫁、姉、妹の五人、いさぎよく自刃されたり。余は乞われて介錯いたし、家に火を放ちて参った。母君臨終にさいして御身の保護養育を委嘱されたり。御身の悲痛もさることながら、これ武家のつねなり。驚き悲しむにたらず。あきらめよ。いさぎよくあきらむべし。幼き妹までいさぎよく自刃して果てたるぞ。今日ただいまより忍びて余の指示にしたがうべし」〈同、30ページ〉

五郎少年を面川沢に送り出すまでに、男子は一人なりとも生きながらえ、柴家を相続せしめ、藩の汚名を天下に雪ぐべきだとし、戦闘に役立たぬ婦女子はいたずらに兵糧を浪費してはならぬと籠城を拒み、敵侵入と同時に自害して辱めを受けないことを約してあったのである。わずか七歳の幼い妹まで懐剣を携えて自刃の時を待っていた。

城下を焼き払い、城を包囲したら、敵は城外にある藩士を必ず捜索するであろう。「芋武士奴(いもざむらいめ)、何をしでかすかわかり申さぬ」と憤激する一方、武家の子然とした恰好から百姓の姿に改めよと叔父が冷静に指示する。丸坊主にされた上、洋服や大小の刀剣を屋根裏に持ち去られた五郎少年は、「この夜こそ、わが生涯における武士の子弟最後の日となれり」と慨嘆した。

(G)

(63) 四方四季の庭① 2013/01/14

中世の御伽草子「浦島太郎」では、浦島太郎が訪ねた竜宮城には、四方四季の庭があったそうです。浦島太郎が東西南北の四つの障子を順に開けると、四季の庭が目に入ってきたとあります。

まづ東の戸をあけて見ければ、春のけしきと覺えて、梅や桜の咲き乱れ、柳の糸も春風に、なびく霞の中よりも、黄鳥の音も軒近く、いづれの木末も花なれや。南面をみてあれば、夏の景色とうちみえて、春を隔つる垣穗には、卯の花やまづ咲きぬらむ、池のはちすは露かけて、汀涼しき漣に、水鳥あまた遊びけり。木々の梢も茂りつつ、空に鳴きぬる蝉の声、夕立過ぐる雲間より、声たて通るほととぎす、鳴きて夏とは知らせけり。西は秋とうちみえて、四方の梢紅葉して、ませのうちなる白菊や、霧たちこもる野べのすゑ、まさきが露をわけわけて、声ものすごき鹿のねに、秋とのみこそ知られけれ。さて又北をながむれば、冬の景色とうちみえて、四方の木末も冬がれて、枯葉における初霜や、山々や只白妙の雪にむもるる谷の戸に、心細くも炭竃の、煙にしるき賎がわざ、冬としらする景色かな。

この四方四季の庭は中国の陰陽五行説の影響を受けたものであり、一瞬にして四季が見られる――四季が同時に存在することから、永遠あるいは不老不死の世界の象徴であると言われています。浦島太郎が竜宮城で過ごした時間は三年間だったはずなのに、人間の世界に戻ってきて玉手箱を開けたら、七百年の歳月が過ぎていたとか。竜宮城と人間界の時間の流れはどうも違うようです。

四季が同時に存在し、人間界の何百倍も生きられるわけですから、竜宮城は日本人の憧れた浄土(異界)の一つと言えるでしょう。それと同時に、老いることも物思いもない、かぐや姫の故郷「月の都」が思い起こされます。

さて、四方四季の庭は『うつほ物語』にも登場しますし(吹上の宮)、『源氏物語』で光源氏は四季の町を造って、自分とかかわりのある四人の女性を住まわせています。そのことについては、いずれお話ししましょう。

四方の窓を開けたら、外の景色があまりにも凄惨で、恐怖のどん底に突き落とされたという話もあります。アラビアンナイトの「帝王(スルターン)マハムードの二つの世界」では、エジプトの帝王マハムードが玉座の広間の四つの窓から眺めた景色は、一瞬だけ恐ろしい世界に変わります。

帝王が第一の窓を開けると、配下の軍隊が反乱を起して、大軍が宮殿の下にまで押しかけているのが見えました。第二の窓を開けると、美しい都が火に包まれ、火の海が王宮にまで迫っていました。第三の窓を開けると、ナイル河が氾濫して、王宮の壁にむかってすさまじい勢いで襲いかかってきました。第四の窓を開けると、楽園のような平原が砂漠に変わり、邪悪な獣で溢れていました。

帝王は恐ろしくなって一旦窓を閉じますが、もう一度開けてみるといつも通り平和な街が眼下に広がっていました。これは、西の果ての国マグリブからやってきた長老(シャイター)が、帝王に見せた幻術です。その後、帝王マハムードは、この長老によって、大広間にある泉の中に頭を沈められます。その間、難破を体験したり、荷かつぎ人足や水車小屋の驢馬になったり、ものすごいお婆さんの夫にさせられそうになります。帝王が泉水に頭をつけていたのはほんの一瞬。この苦しい体験によって、帝王マハムードは、時々襲ってくる鬱々とした気分から解放されたのです。

また、四方に様々な世界を見るといった話には、釈尊の「四門出遊(しもんしゅつゆう)」の話もあります。釈尊が出家する前、都の東西南北にある四つの城門から郊外に出かけた折、それぞれ老人、病人、死人、出家者を見かけ、人が生きる上で避けられない生老病死といった四苦があることを悟り、出家したという伝説です。

帝王マハムードも釈尊も、四方の窓を開け、人がこの世に生を受けて生きていく苦しみを体験しました。一方、浦島太郎は竜宮城の座敷の四方の窓を開け、美しい日本の楽園を眺めました。御伽草子の「浦島太郎」のように、四方四季の庭が眺められる窓だったら、私も開けてみたいですね。

(し)

(62) 「柴五郎の遺文」(3) 2013/1/2

会津藩が平穏であったのは、柴少年の10歳を迎える年までである。慶応4年(1868)2月、帰藩した後、登城を憚って城下に謹慎していた藩主松平容保から藩士に対して、次のような布告があった。

此度不容易形勢に相成候は畢竟自分不行届よりして此に至候儀別て面皮を失候次第に候。一統も嘸々(さぞさぞ)残念に思候事と察入候、就ても直様(すぐさま)於江戸表回復致度儀に候得共、公辺御都合も有之一先(ひとまず)帰国致候処、今般討会(とうかい)之命諸藩へ相下候由に候間、今にも人数可相進も難計此上は兵備を第一と致候外無之候間、一致一和に相成り、諸事疑立等不致、何とかして国辱を雪呉候様、此段頼入候也。〈同、17ページ〉

あれほど京都守護職の重責を奉じて治安維持に腐心してきたのに、掌を返したように討会(会津討伐)とは何事かと、藩士中切歯扼腕しない者はない。柴少年、子供心にも悲憤やるかたなく、木刀を持って手当たり次第に立ち木を打ち回り、小枝を叩き折った。 「薩摩の芋武士(いもざむらい)奴(め)! 来たれ!」「目にものみせてくれん!」と、満面涙に濡らしながら木刀を振り回したが、心は収まらない。この日から会津の様子が一変し、父母兄弟姉妹いずれも言葉少なになり、眼光のみ炯炯として唇を噛むばかりとなった。 10歳となり、ようやく藩校日新館に入学したものの、夏近くになると、敵軍の発する砲声が遠雷のように轟き始める。ここで散華潰滅を覚悟し、藩では守備隊を結成した。

 青竜隊――36歳より49歳(国境守護)    白虎隊――16歳より17歳(予備)    朱雀隊――18歳より35歳(実戦)    玄武隊――50歳以上(城内守護)

飯盛山で壮絶な死を遂げた白虎隊は、まだ幼な顔の残る少年ばかりであった。 17人が自刃した中で、ただ一人蘇生した飯沼貞雄『白虎隊顚末記』によると、敵の捕虜になったら、上は殿様に面目が立たず、下は先祖に対して申し訳ないと言って自刃した由。このあたりの精神性が、第二次世界大戦の敗戦まで兵士はおろか、一般国民にまで浸透していたことは周知のとおりである。

会津防衛軍としては、上の四隊だけでは心もとない。農民からも募兵すると、20歳から40歳の壮丁2700名が志願したばかりでなく、代官、支配役等の役人まで380名が加わり、山伏修験者、猟夫、僧侶に至るまでそれぞれ部隊を編成し、それこそ会津藩民の総力を結集して難局に当ることになった。

8月21日、城下から離れた別荘に留守番として住む大叔父の未亡人が柴家を訪れる。付近の山々は松茸、初茸、栗の実の盛りであるから、泊まりがけで取りにおいで、と五郎を誘いに来たのだった。

母は直ちに賛成し、学校も既に閉鎖され、男子はすべて城中にあるから、叔母様と一緒に行けと言う。久しぶりに上等な洋服を着せ、小刀を帯に差し挟み、手拭や懐紙などを取りそろえ、竹籠を渡して五郎を急き立てる。城下は騒然とし、子供の遊び興ずることもなくなった。邸内では、久しく笑い声が絶えている。そこへ栗拾いなどという楽しげな話であるから、五郎は幼心についうかうかと出てしまった。

これが、祖母・母・姉妹との永遠の別れになろうとは、知る由もなかったのである。

(G)

(61) 「暮れ果つる日」 2012/12/24

『蜻蛉日記』は、ご存じのように、藤原道綱の母の21年に及ぶ生活が書き綴られていますが、その中心は夫・藤原兼家との「はかない結婚生活」にあります。きっと嬉しいことや楽しいこともあったはずなのに、「かわいそうで哀れな自分」と夫への不満ばかりを抽出し、日記に書きました。

『蜻蛉日記』中巻の終わりは、天禄2年(971)の「年の暮れ」のことが書かれています。道綱の母は、兼家が愛人のところへ通っていると耳にし、周囲が追儺で大騒ぎしているのを「追儺って、うまくいっているところだけがしたがりそうな行事ね」と思います。そして、「年の終はりには、何事につけても、思ひ残さざりけむかし。」――年の終わりは、何につけてもあらゆる物思いを尽くしたことだろうなあと、寂寞の中に身を置いています。

※追儺(ついな)は「鬼やらい」とも。節分の豆まきのルーツで、もとは大晦日の夜に悪鬼や厄災を追い払って新年を迎える宮中の年中行事でした。

『蜻蛉日記』下巻の最後も、作者39歳の大晦日で締め括られます。兼家の訪れもぱったりなくなり、道綱の母は年の暮れを寂しく静かに迎えました。

…暮れ果つる日にはなりにけり。…思へば、かう長らへ、今日になりにけるも、あさましう、御魂など見るにも、例の尽きせぬことにおぼほれてぞ、果てにける。京の果てなれば、夜いたう更けてぞ、たたき来なる。

大晦日は死者の霊が訪ねてくる日でもあり、追儺の日でもありました。「たたき来なる」―追儺の人々が門をたたく音を耳にする場面で日記は終わり、この後の道綱の母の人生は綴られていません。尽きることのない物思いをしながら、よくこのように生きながらえて今日の日を迎えたことだと感慨深く思う作者の姿に共感される方も多いでしょう。

同じような風景を『源氏物語』第2部の終わりでも見ることができます。光源氏は最愛の紫の上を亡くし、失意の日々を過ごしました。紫の上との永遠のお別れから一年が過ぎたその年の暮れ、52歳の光源氏には自分の人生の終わりも見えてきたようです。

年暮れぬと思すも心細きに、若宮(匂宮)の「儺やらはむに、音高かるべきこと、何わざをせさせむ」と走り歩きたまふも、をかしき御有様を見ざらむことと、よろづに忍びがたし。(幻巻)

追儺の行事にはしゃぎ走り回る孫の匂宮を見ながら、光源氏は、物思いの多かったこの一年も自分の人生も大晦日の今日終わるのではないかと、しみじみ思います。

もの思ふと 過ぐる月日も 知らぬ間に 年もわが世も 今日や尽きぬる

十二月晦日と自分の人生の終わりを重ね合わせた光源氏。その後、光源氏の死は物語の中で描かれることはありません。悲しく辛いことの多かった人生も今日で終わりと感じる光源氏のこの場面は、万感胸に迫るものがあります。

物みな枯れゆく思いの中、それでもあと一週間もすれば、あらたまの年を迎えます。せめて年の暮れは、古の人々が御霊祭(みたままつり)をしたように、今は亡き大切な人々に心を寄せて静かに過ごしたいものです。

(し)

(60) 柴五郎の遺文(2) 2012/12/12

柴五郎(1859~1945)の名を高からしめたのは、明治33年(1900)、北京駐在武官中佐であった時に遭遇した北清事変(義和団の変)での沈着冷静な行動である。

義和団の変とは、清国への侵略を阻止しようと蹶起した排外愛国団体である義和団が、各国公館や教会などを攻撃した事件である。清国のキリスト教信者や在留邦人など四千人余が、各国公館や粛親王府などに避難籠城し、援軍が到着するまで五十日以上に亙って抗戦した。柴は、その総指揮官を勤めていたのである。

各国連合軍との正面衝突を避けようとして、清国正規軍は、義和団を側面から支援するにとどめ、籠城する日本軍に対する攻撃も遠巻きに傍観していたのだが、牽制のために射程内に近づくことがあった。それを日本軍が誤射してしまったところ、白旗を掲げた軍使を派して陳謝するなど、細かい配慮を見せたという。

また、籠城が解かれた後、各国軍によって警備区域が定められ、日本担当区を柴五郎が受け持った。軍紀厳正を極め、中国人民を厚く保護したため、他の区域から日本区域に移住してくる者が多かったとも伝えられる。これらは世界各国の賞讃を浴びた。

以上は、石光真人『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』(中公新書、1971年初版)「第二部 柴五郎翁とその時代」の記述に従ったもので、以下に紹介する柴少年の記録も、本書第一部に掲載された柴自身の遺文に依る(ただし、残念なことに仮名遣いを現代風に改めてある)。

会津藩士の父佐多蔵は、280石取りの御物頭(おものがしら)として、本隊長の指揮下に会津軍を率いていただけあって、厳格な父親であった。母の躾も厳しく、兄弟姉妹の多い家族であったが、家内が騒がしいことはなかったという。因みに、五郎の兄である四朗は、後に号を東海散士と称し、日本初の政治小説『佳人之奇遇』を著している。

厳格な躾は柴家だけではない。藩の規律自体が厳しかった。寒くても手を懐にしてはならない、暑くても扇を手にせず、肌脱ぎをしない、道は目上に譲り、路肩に寄って通らねばならない、門の敷居は踏まず、中央を通るべからず、来客の前で奴僕はおろか犬猫を叱ってはならぬ、くしゃみ・あくび・げっぷをしてはならない、などなど、窮屈この上ない。

これほど厳重に家庭教育を施されれば、この時代であるから、さすがに道を踏み外すことはない。

近来、武士といわば、すぐ大声を発し、酒飲みて狼藉し、斬り棄て御免のごとく伝うるものあるも、はなはだしき誤りなり。かかるものは浪人の成れの果てか、やくざに類するものにて、武士一般を語るものにあらず。〈第一部、13ページ〉

柴少年は、武士としての自負と矜持をこうして培っていった。

ところが、4、5歳ごろの柴少年には奇癖があったらしい。毛のない頭を極端に恐れたのである。坊主頭がいかにしても恐ろしく、思い出すだけでも全身に粟を生じたという。

僧侶の頭にかぎらず、毛のなき頭はすべて恐ろしく、座頭、按摩はいうにおよばず、老人のたんなる禿頭さえも恐ろしく、あるとき路上にて竹村という禿頭の老人が余のうしろより歩き来たるを知り、例のごとく一目散にわが家へ走りたるところ、石につまずきて転倒せるあいだに、余を追いこしていけり。見れば以外にも後頭部に小さき丁髷(ちょんまげ)あるを認め、ほっとして泣きやみたることもあり。〈同、12ページ〉

(G)

(59) 柴五郎の遺文(1) 2012/12/02

前回、会津戦争における新島八重の活躍を紹介した。今から145年前に起きた内乱の一つであるが、会津側の視点でその経緯を簡単に浚っておこう。

徳川幕府にとって、会津藩はいわゆる親藩であり、藩祖保科正之以来幕藩体制を支える最大の雄藩であった。

幕末期、欧米列強による東洋植民地化の嵐の中で、会津藩は、北海道北辺に侵入するロシア兵を排除する一方、京都守護職に任じられ、治安維持に当りながら長州を討つ。テロリスト集団といってもいい長州浪士らを摘発するため、会津藩の指揮下に新選組が結成された。朝廷からの篤い信任を得て、忠実にその命に従い、まさに藩を挙げて縦横に尽力したのである。

ところが、幕府が鎖国を解こうとすると、薩長の浪士が外国人へ狼藉を働く。果てに、英国艦隊に鹿児島を、米仏連合艦隊に下関を砲撃されるや、たちまち攘夷を翻し、討幕を唱え始める。そして、謎の死を遂げた孝明天皇に代って即位した幼帝(=明治天皇)から詔勅を下さしめ、徳川慶喜の断罪、会津の討伐を謀ったのである。

しかし、その前年に将軍慶喜が大政奉還を奏上すると、直ちに藩主松平容保は会津城下に立ち戻り、すでに謹慎していた。にもかかわらず、どうしても干戈を交えずに置かない薩摩藩の大久保利通や西郷隆盛らが、朝廷の重臣岩倉具視に武装蜂起を進言したため、軍事クーデターへと発展していくのである。

会津側からすれば、こんな理不尽なことはない。幕府の命によって京都守護職を奉じ、朝廷を守護した。その時の朝敵は長州である。しかも、一時は会津と同盟を結んで長州を排した薩摩が、こともあろうに今度は長州と組んで朝廷に取り入り、会津を賊軍扱いすることになったのだから。

西郷らのやり口は狡猾だ。盛んに挑発を繰り返し、こちらから手を出すのを手ぐすね引いて待っていた。とうとう業を煮やした幕府側が江戸の薩摩藩邸を焼き打ちし、挙兵の上入京を決定してしまう。

慶応4年(1868)1月3日、幕府軍・会津藩・桑名藩と薩長を主力とする官軍とが鳥羽伏見街道で激突した。戊辰戦争の始まりである。ところが、錦の御旗を見て恐れをなした慶喜が、兵士を見捨てて江戸へ逃げ帰ってしまったため、士気を挫かれた旧幕府軍は兵力を3分の1に減らしてしまう。結果、新政府内での討幕派が一層力を得、朝敵会津追討が発せられるに至った。

会津藩は、奥羽越列藩同盟を組んで徹底抗戦を挑んだものの、同盟諸藩の離脱や敗北に遭い、ついに孤立無援の籠城戦へと導かれて行く。 会津人の薩長に対する憎悪と怨恨はここから始まり、現在も宿怨となって消えていない。

たとえば、乃木大将の評伝『斜陽に立つ』の著者である、下関出身の作家古川薫は、会津若松の寿司屋で寿司を喫しながら、たまたま山口県出身であることを洩らした途端、「お代はいらないから帰れ」と店主に追い出されたという。また、歴史作家星亮一は、山口市で乗り込んだタクシーの運転手に「福島から来た」と言うと、「会津はこわいところだそうですなあ」とつぶやかれたというから、会津人の恨みは骨髄に徹している(晋遊社ムック『会津藩不屈の600年史』所収、星亮一「『会津藩』とは、何だったのか。」)。

さて、八重がスペンサー銃を撃ちまくっていた時、後の陸軍大将、軍事参議官となった柴五郎は、まだ数え年10歳の少年であった。その柴が晩年に残した回顧録によって、会津戦争後の悲惨な実態に目を向けながら、会津武士の保った矜持と高潔な精神を垣間見ることにしよう。

(G)

(58) 神様も嫉妬するのだから…③ 2012/11/24

神様や中宮さまが嫉妬するぐらいですから、平安時代の貴族女性も当然嫉妬しました。有名なのが『蜻蛉日記』の作者(藤原道綱母)でしょう。

道綱母は、夫・兼家が出て行った後、何気なく文箱(ふばこ)を開けてみると、別の女にやろうとした手紙を発見します。その後、兼家が三晩続けて訪ねてこない日があり、新しい女性と結婚したのではないかと疑いを持つようになりました。当時の結婚は、男性が三晩続けて女性のもとに通うと成立します。ですから、道綱母はピンときたわけです。召使いに後をつけさせて、「町の小路の女」の存在を知ることになりました。

夫の文箱を覗いてみる(現代なら勝手に夫の携帯を見る)、後をつけさせる(探偵を使って尾行する)など、尋常ではありません。

自分の家の前を、兼家と町の小路の女が一緒に牛車に乗って、大騒ぎしながら通り過ぎてゆくのを耳にした時、「よりによって、私の家の前を通っていくなんて…」と茫然とします。召使いたちは道綱母に同情しますが、かえってそれが彼女のプライドを傷つけました。

しかも、「町の小路の女が男児を出産した」と聞き、とても胸がつまります(原文は「いと胸ふたがる」)。道綱母は、「あの女に命を長らえさせ、自分が苦しんだのと同じように、逆に苦しい思いをさせてやりたい」と考えるようになりました。

不幸にして町の小路の女の産んだ男児が亡くなり、兼家との愛も終わったと聞いたとき、「あの女が、私が苦しんでいるより、もう少しよけいに悲しんでいるだろうと思うと、〈今ぞ胸はあきたる〉――あー、今こそ胸のつかえがおりて、すっきりした!!」と思います。

女は怖いですね。これと同じような場面が、『源氏物語』にもあります。六条御息所が生霊となって光源氏の正妻・葵の上をとり殺す場面です。葵の上が無事男児を出産したと聞いた時、「ただならず」でした。「えっ?以前は、葵の上が危篤だっていう噂があったのに。よくもまぁ無事出産だなんて…」と思います。道綱母とそっくりですね。生まれてくる子に罪はないだろうに、やっぱり女は怖い。

六条御息所は、その後、死霊となって紫の上や女三の宮も苦しめました。紫の上を危篤に陥らせたのは、御息所が亡くなってから18年も後のことです。18年経ってから突然、出てこられても…自ら蒔いた種とは言え、光源氏も驚きますよね。人の恨みというものはなかなか消えず、何世代にも引き継がれることの証を見ているようでもあります。

人は不思議です。何かをしてもらった時、嬉しいことよりは恨みの方を永く覚えていて忘れない――これが人間の性だと自覚していると、「あの女!!いつか、ひどい目に合わせてやる」なんて、はしたない言葉を口走らなくて済みそうです。人に嫉妬しても自分が苦しいだけだと、道綱母や六条御息所は教えてくれます。

(し)

(57) 神様も嫉妬するのだから…② 2012/11/12

さて、『うつほ物語』でも、入内した女性たちはやはり嫉妬します。藤壺の女御(=あて宮)という美しい女性に、東宮の寵愛を奪われた宮の君(源李明の娘)は、次のように言います。(以下、現代語訳はすべて意訳)

「東宮にとぉーっても愛されていても、あて宮はやーっぱり、秘か男って言うか、別の男に文(=手紙)を送っていらっしゃるわ!こんな風に秘か男をお持ちになるような人(=藤壺の女御)をも、東宮はまたとないほどお思いになり、大騒ぎしていらっしゃること!!」(国譲・上巻)[新編日本古典文学全集③62頁]

宮の君よりさらに上をゆく、嫉妬深い中宮さまも登場します。朱雀院の中宮(后の宮)は、「仁寿殿の女御」という女性にずっと嫉妬し続けます。藤壺の女御(=あて宮)と同様、仁寿殿の女御も源正頼の娘です。

「その仁寿殿の女(め)の子の子どもも侍るは。などすべてこの女の子どもは、いかなるつびかつきたらむ。つきとつきぬるものは、みな吸ひつきて、大いなることの妨げもしをり」 ※「つび」は女性器のこと。(「その仁寿殿の女御が産んだ女の子もいるのでしたね。どうして、この左大臣家(正頼家)の女子たちは皆、どんな秘所がついているというのだろう?そこにちょっとでもくっついた男を、みーんな吸い寄せて、大事なこと(梨壺の産んだ皇子を東宮にすること。)の妨害をするんだから!!!」)[新編日本古典文学全集③256頁]

あらあら、およそ中宮さまの口にする言葉ではありませんね。后の宮の仁寿殿の女御への憎しみは、増えることはあっても減ることはなさそうです。

「この仁寿殿の泥棒猫!!」(原文は「この仁寿殿の盗人…」。)[新編日本古典文学全集③264頁]

后の宮は、(仁寿殿の女御の近況などを)お聞きつけになり、仁寿殿の女御が自分の思いのままに皇子たちを引き連れ、わが物顔にふるまって、「なんとも癪だわ」とお思いになって…(国譲・下巻)[新編日本古典文学全集③291頁]

后の宮は、夫(朱雀院)に表面的には恨み事を申し上げないが、内心ではものすごく癪だわとお思いになること、この上ない。(仁寿殿の女御の妹である)藤壺腹の皇子たちは、みーんな死ねばいいのに(原文は「みな死ななむ」)!!ついには、(私の姪っ子の)梨壺腹の皇子を東宮にしよう、などとお思いになって…。后の宮が、仁寿殿の女御を「憎い」と思われることは、昔と比べようもないほどものすごい。どうにかして、憎み倒して、朱雀院のおそばにはいさせまいとお思いになるが、仁寿殿の女御は朱雀院の御座所に近い殿舎を二つ、三つほど賜ったので…[新編日本古典文学全集③330頁]

こんな汚い言葉を発する后の宮とは言え、原文ではしっかり尊敬表現が使われています。中宮さまはとても身分の高いお方なので、どのようなことを仰っても尊敬表現が使われるのです。

さて、宮の君も后の宮も悪口を言えば言うほど、夫の愛を失うことはわかっていても、どうにもできなかったのでしょう。 物語文学に登場する嫉妬に狂った女性の末路は悲惨です。あまりにも醜い嫉妬の感情は、なんとかコントロールした方がよさそうです。(つづく)

(し)

(56) 『近世畸人伝』(8)―烈女― 2012/11/02

畸人伝・続畸人伝には、27人の女性が登場する。そのうち、圧倒的に多いのが貞女・孝女の類であり、11人を数える。いわゆる才女10人がそれに次ぐ。貞女は、寡婦となった後、周囲から勧められても新たに夫を迎えず貞節を守り通したという話がほとんどで、儒教倫理でいう「貞女は二夫に見(まみ)えず」というわけだ。現在の感覚からすれば、抑圧的だと受け取られるに違いない。

孝女にしても同趣で、先に紹介した大和伊麻子やいとめなどは、孝行をしていれば、必ず報われるという道徳的な教訓に結び付きやすい。

そこで、説教臭さのない、話自体が面白い烈女をここに紹介することにしよう。

摂津の国某城主は、豊臣秀頼公に仕えていたが、度々直諫して公の意に逆らったため、逐電し、行方をくらましてしまった。北の方と八歳になる兄、三歳の妹が人質として囚われ、城内に幽閉されてしまう。明け暮れ夫の身を案じて嘆く北の方に、小万(こまん)という気働きのよい奴婢が、侯は清水寺にいる由を聞きつけて告げると、早速、城中からの脱出を企てる。抜け道を考え、水門から淀川に出る経路を下見した上で、北の方を伴い、夜陰に乗じて水門から忍び出て淀川へ出た。川を泳いでさかのぼり、調度や衣裳などを入れた袋を松蔭に隠すと、小舟を調達する。自分は水に浸かりながら袋を乗せた小舟を推し進め、北の方と兄妹を乗せると、薄暗い月明かりの下に棹を操る。船中では、袋から取り出した衣裳に着替え、物詣での様相に仕立てるが、明け行くほどに、とても女房の遊山とは見えない。清水への道を急ぐうち、山崎の辺りで近寄って来た恐ろしげな男が、京の五条へ来たところで大勢の仲間とともに現れ、取り囲んだ。ただ者でなさそうだから、子供らを送り届けてたんまり礼をもらおう、美しい女房だから、自分の妻にしたい、袋には金目の物があるだろうから、それをよこせ、などと言いながら、山賊が袋に手をかけようとすると、北の方と小万は、かねて用意の懐刀を抜き出して斬り回った。賊は生け捕りにしようと思っていたが、激しく斬りかかられ、飛び退いてはまた集まる。隙をついて終に若君を奪って逃げようとした。すると、北の方は、人手に渡してなるものかと、賊の首と一緒に若君をも一刀に斬り下げ、今はこれまでと四人まで斬り倒せば、小万も六人まで斬って捨てる。賊は逃げ去ったが、深手を負った北の方は、せめて妹を父君に会わせてくれと頼むと、息絶えてしまった。この北の方は美人の誉れ高く、箏や和歌に長じ、長刀の名手であったという。小万は、周辺の寺に北の方と若君の供養を頼む。そして、ここはどこかと尋ねると、なんと清水寺だというではないか。こうして探し当てた父君に妹君を渡すことができたのだが、あれほどの剣戟乱闘にもかかわらず、背に負った浅手一か所だけだったという。〈『続畸人伝』巻之四、405~408ページ〉

「忠にして智あり、しかも勇猛なるは、世にめづらしき女といふべし」と三熊花顚の評するとおり、まさに烈女の名に恥じない大活躍だ。

これは戦国時代末期の逸話であるが、戦争になると、男だけに任せておけないというのか、勇猛果敢この上ない烈女が登場する。明治維新直後の会津戦争における新島八重もその一人であった。以下、金谷俊一郎『名も無き偉人伝』に依って記そう。

4斗俵(約72キロ)を4回も肩に上げ下げするほどの膂力(りょりょく)を誇った八重は、12歳の時から17歳年長の兄覚馬に砲術を習っていた。だから、新政府軍に攻め立てられ、鶴ヶ城に立て籠もった折にも、藩士らに交じり、男装をして夜襲隊に参加しようとしている。当時の新式スペンサー銃を平気で操り、政府軍を邀撃(ようげき)するばかりでない。城内では、政府軍から撃ち込まれた四斤山砲(しきんさんぽう)の不発弾を分解し、その構造と殺傷力について、藩主松平容保(かたもり)の前で淀みなく解説もしている。

兵糧と弾薬の尽きた会津軍は、ついに城を明け渡すことになったが、その時、八重の最初の夫である川崎尚之助(しょうのすけ)の消息を失った。同志社大学の創立者新島襄と結婚するのは、明治8年-1875-のことである。「日本の女性の如くなき女子」を理想とし、「亭主が東を向けと命令すれば、三年でも東を向いている東洋風の婦人はご免です」と京都府知事槇村正直に語ると、槇村は早速八重を紹介したという。八重は、襄の好みにぴったりの女性であった。襄32歳、八重30歳のことである。

だが、欧米旅行以来病気がちであった襄の死により、結婚生活は14年間にすぎなかった。しかし、ここからが八重の偉いところで、昭和7年-1932-、86歳で数奇な生涯を閉じるまで、「社員たるもの生徒たちを丁重に取扱うべきこと」という襄の遺訓を忠実に守りながら同志社を盛りたてただけでなく、40年余に亙って社会福祉活動一筋に生き抜いたのである。

(G)

(55) 神様も嫉妬するのだから…① 2012/10/23

日本神話に登場する「スセリビメ」はオホクニヌシの適后(正妻の意)ですが、「いたく嫉妬(うはなりねた)みしたまひき」――つまり、ひどく嫉妬深い女神だったようです。先にオホクニヌシと結婚していたヤカミヒメは、スセリビメを畏れて、産んだ子を「木の俣」にさし挟んで因幡に逃げ帰った、と『古事記』にはあります。スセリビメはヤカミヒメに嫉妬し、何か行動に出たのでしょうか?その辺のことは、何も書かれていません。

そうです。神様も嫉妬するんです。ですから、人間も当然の如く嫉妬しました。今回は、日本の古典に描かれた嫉妬深い女性のお話を見てみましょう。

仁徳天皇の皇后イハノヒメも非常に嫉妬深い女性です(「甚多く嫉妬したまひき」)。天皇の他の妻たちは宮中に近づくことすらできなかったようです。天皇が他の女性のことを話題にしようものなら、「足もあがかに嫉みたまひき」――足をばたばたさせて嫉妬したとあります。まるで子どもみたいですね。

イハノヒメの恐ろしさを伝えるエピソードを一つご紹介しましょう。吉備国から召されたクロヒメは天皇にことのほか気に入られますが、イハノヒメの嫉妬を恐れて、船で故郷に逃げ帰ろうとします。天皇はとても残念に思い、クロヒメに歌を贈りました。これに激しく嫉妬したイハノヒメは、クロヒメから船を取り上げてしまいます。クロヒメは、仕方なく徒歩で吉備まで帰ったとあります。

イハノヒメにまつわるお話が本当かどうかはわかりませんが、皇后さまも嫉妬するものとして描かれています。

日本の古典では、女性の嫉妬の感情は、同性である女性に向けられることが多いです。そのほとんどが男女関係のもつれで、男性が浮気しても、その女性は、男性に非があるとは思いません。新たに登場した女性が男性をたぶらかしたに違いないと考えるのです。このような嫉妬の感情は、現代まで綿々と受け継がれています。

村上天皇(在位946~967)の時代、弘徽殿の女御・安子が、後から参入した藤壺の女御・芳子に嫉妬し、壁の穴から土器(かわらけ)を投げつけた、というエピソードが『大鏡』(巻三)に載っています。

(安子は)いと安からず、えや鎮め難くおはしましけむ、中隔ての壁に穴をあけて、覗かせたまひけるに、女御(芳子)の御かたち、いとうつくしくめでたくおはしましければ、「むべ、時めくにこそありけれ」と御覧ずるに、いとど心疾ましくならせたまひて、穴より通るばかりの土器を破片して打たせたまへりければ、…

安子は、芳子のことが気になって仕方ありません。お互いの部屋が近かったため、安子は、なんと壁に穴をあけて、芳子の部屋を覗きました。とてもかわいらしく美人である芳子を目の当たりにし、「なるほど、この美しさで寵愛されるのだな」と思うと、ますます腹がたち、壁の穴から土器(素焼きの焼き物)のかけらを投げ入れ、芳子を打擲したのでした。

上流貴族の女性たちも、悪口を言うだけでは気がすまず、安子のように手を出すこともあったようです。当然、天皇は立腹し、安子の兄弟が入れ知恵をしたのだろうと考え、伊尹(これまさ)・兼通(かねみち)・兼家の三兄弟を謹慎処分にしました。もちろん安子は黙っていません。「いとど大きに腹立たせたまひて」、天皇を自分の部屋に呼びつけます。天皇が、安子を「恐ろしくいとほしく」お思いになって部屋を訪ねたところ、安子は待っていましたとばかりに、「兄弟を許してほしい」とまくしたてます。天皇が「許す」と言うまで、お召し物をとらえて部屋から出さないようにしました。そこで、天皇は仕方なく、三兄弟の謹慎を解いたのでした。

安子は、イハノヒメによく似ていますね。モノを投げつけて一瞬は気がすむかもしれませんが、根本的な解決にはならなかったことでしょう。自分よりも天皇に寵愛される女性を見て、多くの女性たちが鬱々とした後宮生活を過ごしたのではないでしょうか。(つづく)

(し)

(54) 『近世畸人伝』(7)―気概― 2012/10/14

洗練された俳文集『鶉衣(うずらごろも)』で名高い横井也有(よこいやゆう)は、蕉風になずんでいたが、特定の師につかなかった。また、生涯俳諧の門人を持っていない。俳諧師は、当時「宝の山の俳諧」〈『続近世畸人伝』巻之四、444ページ〉と言われたほど、実入りのよかった職種である。

尾張の藩士として世禄を得ていたから、弟子は不用とはいえ、ややもすれば上手と言われようと思い、菲才にもかかわらず、自分に諂う者をそそのかしてその道に進ませ、弟子だ門下生だと得意がる者がある中で、也有は一種の志操を保ったといってよい。〈同、巻之三、357ページ〉

続畸人伝の筆者三熊花顚は、「予はその数奇の俳諧をばおきて、その人がらの君子なるをたうとむ」と、也有の生きる姿勢を称賛した。巻之三の冒頭には、そのような気概を持った人物が並ぶ。

粟田口善輔(あわたぐちぜんぽ)という隠者もその一人である。『徒然草』に引かれる許由(きょゆう)や孫晨(そんしん)を髣髴させる恬淡ぶりで、持ち物といえば、手取釜(てとりがま)一つしかない。これで施しを受けた米を炊(かし)ぎ、茶を喫していたのであった。

善輔の風狂ぶりを伝え聞いた豊太閤(=豊臣秀吉)が、その手取釜をもらってこいと利休に命じた。利休が直ちに赴いて所望の旨を伝えると、善輔はたちまち色を変じて、「この釜を献ずれば代わりがない。詰らない釜のせいであれこれ言われるのは心外だ。」と言って、釜を石で打ち砕いてしまった。呆れた利休は、豊太閤は短慮だからどうなるだろうと心配しながら報告したところ、案外機嫌がよく、「善輔は本物の通人だ。あれの持ち物を欲しがったこちらが間違っていた。」と言って、当時伊勢阿野の津に住む鋳物師の名人越後に命じて、利休の見たとおりに釜を二つ造らせ、一つを償いとして善輔に与え、一つを御物とした。善輔の没後、その釜は粟田口の良恩寺に収まったという。〈同、351ページ〉

阿波の藩士園木覚郎(そのきかくろう)は、致仕(ちじ)の後、武芸を専らにしながら隠居生活を楽しんでいた。客を招いては、夜通し風月を愛で、詩歌を翫ぶのに余念がない。ある時、徳島の大禄の臣が、覚郎老人の隠居屋にある千古の松を欲しがり、権柄づくで求めて来た。覚郎は、暴風から自分の草庵を守るのに必要だから、差し上げるわけにいかないと平然とした顔で答えたが、使者が門を出た途端、下僕を呼んで松を根元から切り倒してしまった。〈同、354ページ〉

いずれも反応がストレートである。真っ向から受けて立って、自身の損害どころか、向後の憂いも何も考慮しない。これでは、場合によっては自分の命まで失うことにもなろう。こんな武骨な気概が美質として称揚された時代なのである。

その点から言えば、数百年時代を遡って、平安・鎌倉時代には、このような気概を讃える風潮はなかった。

成方(なりかた)という笛吹きあった。御堂入道道長から大丸という笛を賜わり、愛玩していた。伏見修理大夫(しゅりのだいぶ)俊綱(としつな)朝臣がその名品を欲しがって、千石で買おうと持ちかける。しかし、成方が売らないので、たびたび使者を差し向けた上、売るつもりだと言っていたと嘘を捏造してしまう。成方を召し出し、言い値でぜひ買おうと持ちかけるが、もちろん成方には覚えがない。使者に訊ねると、成方は確かに承知したとの一点張りだ。憤った俊綱は、自分を欺いた咎により、成方を拷問の器具にかけようとする。そこで、成方は、笛を持参する由を申し出た。帰参すると、腰から笛を抜き出し、「こんな物のせいで酷い目にあった。」と言って軒下に下り、石を取って笛を粉々に打ち砕いてしまう。俊綱は、笛を奪おうという欲深さに色々事を構えたのだが、砕かれてしまった上は、どうしようもない。罪に問うわけにもいかず、成方を放免してしまった。〈『十訓抄(じっきんしょう)』第七〉

ここまでなら、成方の直截な気概を示すもので、江戸時代の武士にも通じよう。だが、この後に「後に聞けば」と後日談が続く。実は、成方は、笛を持って来ますと自邸へ戻って、偽物を持ち帰り、それを打ち砕いたのである。だから、本物は無事で、いささかも痛痒を感じなかったというのだ。筆者は「大夫のをこにてやみにけり。初めはゆゆしくはやりたちたりけれども、つひに出だし抜かれにけり。」と結んでいる。

武骨で率直な反応はヤボなのだ。貴顕の横暴を柳に風と受け流す、そんな利発で柔軟な機転をよしとするところに平安の美学があった。

(G)

(53) 『うつほ物語』いぬ宮誕生① 2012/10/02

仲忠は二十三歳の時、朱雀帝の娘・女一の宮と結婚します。約一年後、女一の宮はめでたく懐妊しました。

仲忠は、亡き祖父・俊蔭の蔵から『産経』という本を取りだしてきて読みます。どうやら『産経』は、お産についてのマニュアル書のようです。仲忠は、女の子が生まれるかもしれないと思い、生れてくる子が美しく、性格もよくなると『産経』に書いてあるものを、妻の女一の宮に食べさせました。

中納言(=仲忠)、かの蔵なる産経などいふ書ども取り出でて、並べて、女御子にてこそあれ、と思ほして、生まるる子、かたちよく、心よくなる、といへるものをば参り、…(女一の宮の)参りものは、刀、俎(まないた)をさへ御前にて、手づからといふばかりにて、われはなほ添ひ賄ひて参りたまふ。[新編日本古典文学全集②332頁]

なんと仲忠は、妻の食事を自ら用意しています。刀やまな板までも自分の前に置き、調理するばかりにして、妻に付きっきりで食べやすいようにあれこれと世話を焼いています。仲忠は、ナイスハズバンドですね。

懐妊中、仲忠は妻にずっと付き添っていました。家で漢籍を読み、一日中学問をしながら、妻とともに過ごすなんて、なんて素敵なんでしょう。現代は外に仕事を持っていると、なかなかこのようにはいかないでしょう。

かくて、その年は立ち去りもしたまはず。かつは書(=漢籍)どもを見つつ、夜昼学問をしたまふ。

産屋の準備も着々と進められてゆきます。やはり産屋は白一色です。

かくて、産屋の設け、白き綾、御調度ども、白銀にし返して、殿に設けたまふ。[同334頁]

出産の約二カ月前から、安産のための加持祈祷も行われました。お経が昼夜間断なく唱えられるのです。女一の宮が産気づいた時、彼女の祖父・正頼が自ら、魔よけのための「弓弦(ゆづる)打ち」をしています。

かかるほどに、寅の時(午前4時とその前後2時間)ばかりに生まれたまひて、声高(こわだか)に泣きたまふ。[同336頁]

とうとう赤ちゃんの誕生です!お父さんになった仲忠は、がまんできなくなって産屋をのぞき、「男ですか?女ですか?」と尋ねます。仲忠の母(=俊蔭の娘)は、「夜目(よめ)にもしるくぞ」、つまり「夜目」に「嫁」をかけて、女の子であることを告げました。仲忠は本当に嬉しくなって、「万歳楽」というおめでたい舞を繰り返し舞いました。

約千年前の夫も、妻のお腹に良いと言われるものはすべて用意し、妻に寄り添って過ごします。出産にも付き添い、子が誕生すると、喜びのあまり踊り始めてしまいました。仲忠は「夫の鑑(かがみ)」ですね。でも、当時、本当にいたんだろうか?こんな素敵な旦那さん…。(つづく)

(し)

(52) 『近世畸人伝』(6)―孝子(2)― 2012/9/22

前回、清水の次郎長が貧民や子供に施しをした話を紹介した。その点では、仏佐吉も同様である。

布の袋を腰に下げ、落ちている米穀の粒を道行くごとに拾い集め、雪の中に餌を探しあぐねている鳥に与えたり、処々にある土橋が洪水で流されることを恐れ、私財を投じて石橋に造り変えたりした。〈『続近世畸人伝』巻之一、279ページ〉

佐吉はまた、孝行息子でもあった。昼は、母の起居に注意を怠らず、夜は、母が寝静まるまで枕を取らないほどである。

ある時、母が蜜柑を欲しがった。しかし、近村には蜜柑の木がない。ただ同じ村に木を持っている者があった。しかし、きわめて吝嗇であるから、これに乞うのもどうかと躊躇したものの、仕方なく一つ所望すると、果して与えてくれない。その時、思いがけず一陣の烈風が吹き、蜜柑の実を数多く落してしまう。ケチもこうなっては拒めず、拾って与えた。〈同、278ページ〉

何やら「唐の二十四孝」めいた話である。宣長の項で見たように、中国の孝行譚はおよそ現実離れしていて信用がならない。しかし、この程度なら本当かもしれないという気にさせられる。儒教倫理の支配した近世社会であるから、この手の話は大好きで、畸人伝にはしばしば登場する。

河内の国日下(くさか)の里に、樵(きこり)を業とする清七という貧者がいた。母は、かつて富裕の家の乳母を勤めていたため、口が奢り、貧しくなってもなお、口腹に倹約できない。孝行息子である清七は、朝は誰よりも早く山に入り、夕は誰よりも遅く帰ることで、二人分を稼いでいた。その一人分で通常の賄いに当て、もう一人分で母の好物を購うのだった。ある日、母が鶉の炙り物を望む。翌朝早く起きて、市場へ出ようと準備していたところ、窓に当る物音がする。悪ガキどもが土くれを打ちつけたのだろうと思って、外へ出て見ると、鶉が二羽落ちていた。〈『近世畸人伝』巻之一、44ページ〉

若狭国三方(みかた)郡甲瀬浦(こうぜうら)、佐左衛門の妻にいとめという孝婦がある。孝心深く、姑亡き後、八十に余って老耄した舅にもかいがいしく仕えていた。ある年の冬、深い雪が軒を埋める頃、茄子(なすび)の羹(あつもの)が食いたいと舅が言う。直ちに近くの寺へ走ると、茄子の糠漬(ぬかづけ)をもらい、水に浸して塩を抜き、羹にして勧めた。また、これも冬に鮮魚を求められる。漁労の時期でないから魚はない。困った顔を見せず外へ出て、あれこれ思い煩っていると、たちまち魚が足元に飛び跳ねる。いとめは天を拝んで喜び、早速調じて舅に勧めた。隣人が見たところでは、鳶が魚をつかんで来て、いとめの家の棟に止まっていたが、そのまま魚を落して飛び去ったという。〈『続近世畸人伝』巻之一、285ページ〉

以上の二話なら、まだ偶然ということもあろうから、現実的に無理はないかもしれない。ところが、次の話となると、首をひねりたくなろう。

大和の国葛下(かつらぎしも)の郡(こおり)竹内村に伊麻(いま)という寡婦がある。六十を越えてなお老父に仕え、その孝は篤かった。寛文十一年六月、老父の病甚だしく、食事も喉を通らない。もし鰻があれば食べたいと父が洩らす。しかし、山中のため求めることができない。どうしたらよいかと困惑していたその夜、瓶(かめ)の水に音がする。驚き怪しんで伊麻が確かめると、好物の鰻が瓶の中に躍っている。喜んで膳に供すると、父の病は日に日に快方に向かった。〈同、巻之一、46ページ〉

伴蒿蹊も、この鰻の出現はさすがに変だと思ったのか、次のような後日談を付した。

貞享五年四月、大和路を行脚していた芭蕉が、この孝婦伊麻の話を聞いて、涙を止められなかった。そのまま京都へ出て書家北向雲竹(きたむきうんちく)に語ったところ、感動のあまり自ら大和路へ赴き、かの孝婦に会おうとしたが、門人が代りに行って、その姿を写し取って来たという。〈同、47ページ〉

畸人伝であるから、嘘やホラではなく、原則として事実に基づいた話でなければなるまい。しかるに、ここでは明確な年月を付し、「芭蕉、雲竹ともに聞ゆる人にして、見聞のたしかなる証かくのごとし」と断じている。そんな権威付けをしなければならないほど、筆者である伴自身が怪しいと思っていたのであろう。

「王祥が氷の裏(うち)の鯉、孟宗が雪の中の笋(たかんな)を、ただむかしの物がたりとのみ、なほざりに聞き過ごす人をおどろかすに足るもの歟(か)。」という、世人の注意をわざわざ喚起した結びは、その危惧を裏書きするものに違いない。

(G)

(51) 平安時代の通過儀礼―出産 2012/09/12

平安時代、子どもを産むことが女性の大切な仕事であったことは、『枕草子』「すさまじきもの」の「婿取りして四五年まで産屋のさわぎせぬ所」からよく分かります。結婚すれば、平安貴族の妻たちは天皇に入内させるための女の子を、入内した女性たちは男の子を産むことを要求されました。

でも、お産で死亡する赤ん坊や女性が多く、当時の出産は命がけでした。貴族女性は若くして結婚し多産であることを要求されたため、体力を消耗して亡くなることも多かったのです。冒頭で紹介した『枕草子』「すさまじきもの」にも「乳児の亡くなりたる産屋」とあります。

命がけの出産であるからこそ、出産に関する儀式も多く存在しました。出産は人生の一大イベント、重要な通過儀礼の一つです。今回は、出産の儀式について、『源氏物語』を例にご紹介いたします。

まず、妊娠して五か月頃に「着帯(ちゃくたい)の儀」が行われます。懐妊を祝って、また胎児の安全のために、妊婦用の腹帯「標(しるし)の帯」を結ぶ儀式です。普通、妊婦の親族が贈り、祓えなどをしました。練絹(ねりぎぬ)一丈二尺(=約三・六メートル)の例があります。『源氏物語』宿木巻では、匂宮の子を宿した中の君について、「御腹もすこしふくらかになりたるに、かの恥ぢたまふしるしの帯のひき結はれたるほどなどいとあはれに」とあります。

出産の時期が近づくと、僧に読経、陰陽師に祓、山伏に祈祷を頼んで安産祈願をします。また、米を撒き散らして悪霊を祓う散米(うちまき)も行われました。『源氏物語』で、葵の上が産気づいた時、「いとどしき御祈祷数を尽くしてせさせたまへれど、例の執念き物の怪一つさらに動かず、やむごとなき験者ども、めづらかなりともて悩む」とあり、物の怪が取り憑いて離れないので、様々な祈祷が行われています。加持の僧たちが法華経を読んでいるといった場面もあります。葵の上の出産のために招かれた高僧は、比叡山延暦寺の天台座主(「山の座主」)でした。

出産の場所は、占によって里方その他の地にしつらえられた産屋を用います。その室内はすべて白画松竹鶴亀の屏風、白壁代、白几帳、白縁畳を用い、装束も女房に至るまで白一色です。葵の上も白い装束でした。

白き御衣に、色あひいと華やかにて、御髪のいと長うこちたきをひき給ひてうち添へたるも、

難産でしたが、葵の上に男児が誕生します。

すこし御声も静まりたまへれば、隙おはするにやとて、宮の御湯持て寄せたまへるに、かき起こされたまひて、ほどなく生まれたまひぬ。

「かき起こされたまひて」からは、当時、坐産であったことが分かります。

引き続き、出産後に産屋で行う儀式には次のようなものがあります(「産屋の儀式」と言います)。

・「ほぞの緒」…臍の緒を切る儀式。『うつほ物語』蔵開上巻では、いぬ宮誕生の際、祖母である俊蔭の娘が切っています。

・「乳付(ちつけ)」…新生児に初めて乳を含ませる儀式。選定された乳母がこれを行います。

・「佩刀(はかし)」…皇子誕生の際に祝いの剣が宮中より届けられます。

・「湯殿」…新生児に湯を浴びさせる儀式。

「湯殿の儀」は、皇子の場合、一日二回、七日間行われました。当然、日や時刻の吉凶を占って行われ、産湯の水も吉方の井戸の水などを用いました。湯をかける「御湯殿」と相手役の「御迎え湯」の女房が中心となります。邪気払いのために「虎の頭(かしら)」と「犀角(さいかく)」が用いられ、それと平行して、「鳴弦」や「読書始め(『孝経』を学者に読ませる)」の儀も行われたりしました。

「着帯の儀」や「鳴弦」「読書始め」の儀などは、愛子さまのご誕生の際にもニュースで報道していましたね。皇室では、古くからの儀式を受け継ぎ、今でも大切に行っています。

さて、出産にまつわる儀式が分かったところで、次回はいよいよ、『うつほ物語』のいぬ宮の誕生の場面を見てみましょう。

【参考文献】中村義雄『王朝の風俗と文学』(塙書房、一九六二年)。山中裕・鈴木一雄編『平安時代の儀礼と歳事』(至文堂、一九九四年)。秋山虔・小町谷照彦編『源氏物語図典』(小学館、一九九七年)。

(し)

(50) 『近世畸人伝』(5)-孝子(1) 2012/9/02

優れた人物にあやかるように、その人の言行をわずかでもまねることを譬えて、「爪の垢を煎じて飲む」という慣用句がある。大抵自分より他人の言動に対して「飲ませたい」と押しつけることが多い。『近世畸人伝』には、これと同等の意味で「毛髪の末をも吸はせばや」という言い方が見える〈巻之三、136ページ〉。

ここに紹介する仏佐吉は、まさに爪の垢を煎じて飲み、毛髪の末を吸うに値する人物であった。

永田佐吉は、美濃の国羽栗郡竹が鼻の在で、貧民を憐れみ、人と交わるに誠実そのもので、しかも孝子であったから、誰言うとなく仏佐吉と呼ばれていた。幼い頃、名古屋の紙屋に下僕として奉公していたが、暇を見ては手習いや読書に励むため、朋輩が嫉み、読書にかこつけて悪所へ通うのだと主へ讒言した。佐吉は、里へ帰されてからも、旧恩を忘れず、ついでがあれば必ず訪ねて安否を問う。年を経てその商家が大いに衰えると、綿の仲買によって得た金品を折々に贈ってやったという。その商売のやり方は、秤を持たず、買う時には買う人に任せ、売る時は売る人に任せた。佐吉の正直なことを知って、売る人は重く、買う人は軽く測ってくれたため、いくほどもなく財を成したのである。〈『続近世畸人伝』巻之一、276ページ〉

ここまでは、仕えた主人に対する恩を忘れず、正直な商売をしたという誠実な人物という印象であろう。ところが、その誠実は尋常でない。そこまでしなくともというほど徹底された。

佐吉は、早くに父を失い、母一人を養っていた。ある時、その母が餅を売りたいと言い出す。佐吉はその意思を尊重して餅を売り出すが、必ず小さくせよと勧めた。訝る母が理由を問うと、「近隣に以前から餅を売る店がある。こちらで大きくしたら、その商売の邪魔になるだろう。」と答えた。だが、小さくしても売れる物は売れたのである。 このように無欲で、儲けようという邪心がないから、山賊さえ恐れ入ることになる。

ある冬の年末、近国へ集金に赴いた。帰途、道に迷っているところへ山賊が現われ、金を奪おうとする。佐吉は、「昔は貧しかったが、今はこればかりの金は惜しくない。」と言って、投げ出した。ならば衣服も脱げ、と山賊は迫る。易いことだと佐吉は快く脱いで与え、「お前らはさぞかし寒いだろう。もっと欲しかったら我が家へ来い。みんなに与えよう。その代りに街道へ出る道を教えてくれ。道に迷ったのだ。」と頼む。すると、道案内に同行した山賊の一人がつくづくと佐吉の顔を見て、どこへ帰るのだと問う。佐吉が竹が鼻だと答えた途端、「それではあの佐吉さんではないか。これはまずい人の物を取ってしまった。我が一党の者に言い聞かせて、明日返さねばならん。」と言う。佐吉は「いや、お前たちに与えた物は、もはや受け取るつもりはない。」と言いながら、道を聞いて別れた。翌日、山賊は取った物をすべて還しに来ると、佐吉の言には耳を貸さず、置いたまま走り去った。〈同、277ページ〉

鎌倉時代の説話集『古事談』に安養の尼と強盗の話がある。

安養寺に住む尼の所に強盗が押し入り、部屋中のありとあらゆる物を奪い取って去った。尼は、残された紙の夜具を被るばかりである。尼に仕える小尼公(こあまぎみ)が、何か残っていないかと走り回って見ると、冬物の小袖を一着取り落している。これを尼に着るよう勧めると、「奪い取った物は、強盗も自分の物だと思っているだろう。持ち主が承知しない物をどうして着られよう。遠くへ行かないうちに早く返しなさい。」と尼が言う。直ちに小尼公が走り出て、強盗に呼びかけ、小袖を返したところ、強盗はしばらく考えてから、「まずい所へ来てしまった。」と言って、取った物をすべて還して退散したという。〈巻三〉

恐怖に戦き、わなわなと震える手で金品や衣服を渡してくれるのなら、強盗も仕事のしがいがあるというものだ。こうあっさりと施されたのでは、肩すかしを食らう。

ここで、街道一の大親分と謳われた清水の次郎長から直接聞いた話として、後に海軍中将にまで至る小笠原長生(おがさわらながなり)の引いた会話を紹介しよう。

「わしア、今日までに斬っつ張っつもずいぶんやった。しかし、これは善人だと思った者を向うに廻して喧嘩したこともなければ、親孝行だの主人によく仕える者と斬合ったこともない。そういう時には俺のほうから逃げていったもんだ。だから、俺は今になっても寝覚めの悪い思いは一つもない。」〈「私の見た清水の次郎長」―『文藝春秋に見る「坂の上の雲」とその時代』所収、368ページ〉

「これは偉い人間だ、と私は思った。」と小笠原が嘆じたとおり、次郎長の人となりがよく知られる逸話である。

また、次郎長は、外出する時、いつでも財布にたんまり金を入れ、着物を何枚も重ねて出た。困っている人を道で見つけた時に与えるためである。財布の金をやり尽し、着物をすべて与えて、素っ裸で帰って来る。道を歩けば、子供たちが何十人も寄って来て取り巻く。次郎長は、懐から蜜柑だの菓子だのを取り出して、「そら来た、そら来た。」と言っては、一人ずつ与えて頭を撫でてやる。〈同、371ページ〉

上記の山賊も強盗も、逆に取られたほうの佐吉も尼も、次郎長ほどでないにしても、双方とも義侠心にいささか通じる点があるかもしれない。 因みに、次郎長の墓碑「侠客次郎長之墓」を揮毫したのは榎本武揚(えのもとたけあき)であり、子分森の石松の墓碑は小笠原長生が書いたものである。

(G)

(49) 『うつほ物語』夏の食べ物 2012/08/22

まだ厳しい暑さが続いています。冷蔵庫のない平安時代、貴族たちはどのようなものを食べていたのでしょうか。

藤原兼雅(仲忠の父)は、自分の娘や妻に、鮎がかり(=鮎を何匹も重ねて糸でかがって乾かしたもの)や苞苴(=荒巻)を贈っています。兼雅は桂川のそばに別邸を持っていて、そこから贈っているので、この鮎は桂川で獲れたものでしょう。仲忠もあて宮(=東宮妃)とその子に、鮎、鮠(はや)、石斑魚(いしぶし、現在の鰍)、小鮒(こぶな)、荒巻を贈っています。あて宮の父、正頼は、料理人を呼んでこれらを目の前で調理させました。

おとど(=正頼)、御前に人召して、調ぜさせたまひて、興じて参る。藤壺(=あて宮)には、鮎ならぬ魚煎りて参りたまふ。(国譲中巻)[新編日本古典文学全集③209頁]

川で獲れた魚を親しい人に贈る。一方、贈られた方は、目の前で料理人に調理させ、水気がなくなるまで煮つめたり、焼いたりしたものをすぐにいただくなんて贅沢ですね。デパートなどのお中元品をいただくことが一般化した現代から見ると、かえって新鮮で豊かな食風景ではないかと思われます。

もう一つ、夏には欠かせない氷をご紹介しましょう。女一の宮(仲忠の妻)は懐妊中であり、しかも暑いので、「物も聞こしめさず。削り氷をなむ召す」(国譲中巻)[新編日本古典文学全集③204頁]とあります。「削り氷」とは氷を削ったもので、当時、貴重品でした。上流貴族は、氷室(ひむろ、氷を夏まで貯蔵しておくための室)の氷を暑さよけとして使用しました。平安貴族もかき氷のようなものを食べていたんですね。『うつほ物語』では、氷を小さく割って蓮(はす)の葉に包んで容器に据えています。見た目も涼しそうです。『枕草子』には「あてなるもの…削り氷にあまづら(=甘味料の一種)入れて新しき金鋺(かなまり)に入れたる」とあり、氷にシロップをかけたものはまさしくかき氷でしょう。

クーラーや扇風機のない時代にあって、猛暑の中、冷たい氷を口にした瞬間の喜びは、現代より大きかったのではないでしょうか。冷凍庫にアイスクリームが何個も入っている現代を幸せと思うこともできますが、平安時代に滅多に手に入らない氷を食べられた時の方が、「生き返るよう」「生かされている」と心の底から思え、幸福度が高いと言えましょう。

(し)

(48) 近世畸人伝(4)―風狂の士― 2012/08/12

伴蒿蹊は、「畸人」を二つに分類した。その一つは、すでに紹介した池大雅のような、『荘子』にいう「畸人」である。すなわち、人としては畸であるが、人間としての在り方は天然自然に合致している者を指す。今一つは、世人に比してその行動が奇である人で、中江藤樹(なかえとうじゅ)や貝原益軒(かいばらえきけん)といった仁義忠孝を説き実践した者を代表格とする。これは一道を尽したという点を認めて畸人の範疇に入れたようだ。 収載された人物は多彩で、武士、商人、農民、僧侶などはもとより、下僕、奴婢、遊女、乞食にまで及ぶ。中には家産を破って風狂放蕩した者もある。それだけならただの道楽者だが、そこに趣味が感じられ、取るべき所があれば組み入れた、と伴は題言に記している。 その風狂の士から一・二紹介しよう。

岸玄知(きしげんち)は、出雲国の諸侯に茶道を教える和歌に長じた風流人である。一日(いちじつ)、銀一分を包んで、大坂まで近松門左衛門宅を訪(おとな)い、刺を通じて面会を求めた。門左衛門が出迎えたところ、例の一封を贈り、穴の開くほど面貌を見詰めて、もう帰ろうと言う。門左衛門が、何か用があって来たのではないかと不審がると、岸は、浄瑠璃の作者として児女も知らぬ者とてない門左衛門の顔を一遍拝みたいと思ったので、正しく対面できたのだから、他に用はないと言って去った。 また、ある時、連歌の会に大禄の人を招いたが、その人が厠へ行こうとした。案内しようと、岸が鍬を持って庭へ出る。穴を掘りながら、自分が普段使っている所は汚いから、大人を案内するわけにはいかない、これは新しいから清潔だと言って勧めたという。〈『続近世畸人伝』巻之五、449ページ〉

これだけでも、確かに一風変わっている。だが、岸の本領はこの程度ではない。

ある日、郊外へ出て徘徊していると、見事な梅花を発見した。嘆賞に堪えかね、持主の農夫にその梅の木を買いたいと持ちかける。農夫が承知しないのを無理に高値で売約した。赤貧の中から家財道具を売って調えた代金を農夫に渡すと、酒を携えて花の下で賞詠しながら日暮れまで過ごす。しかし、何日経っても木を移す様子がない。農夫が理由を問うと、「我が矮屋に大木を植える余地はない。梅の木はそのままお前の所に置け。」と言う。それなら実が熟したら持って行きますと農夫が言えば、「自分は花を愛でたいのだ。実がほしいのではない。」と笑う。農夫は驚いて、「この木を高値で売ったのは実が多くなるからです。ここに置いたまま実もいらないとなると、代金をいただくわけにいきません。お返しします。花は幾日でもご覧なさい。こちらは損はしませんから。」と言っても、岸は耳を貸さない。他人の花を見ても面白くないからと言って、花の時期には毎年酒を提げて花の下に酔っていた。後に、「玄知が梅」と名付けたという。〈同、448ページ〉

環境保護という名目によって原生林の樹木を買い取る運動がある。それはそれで、立派な志である。こちらは、自分が賞美したい梅を買い取り、そのままに置くという一種のわがままであり、奇行に違いない。にもかかわらず、清々しささえ感じられる。 岸玄知は梅を移そうとはしなかった。しかし、大抵欲しい物は自分の家に置きたくなるものだ。

有馬凉及(ありまりょうきゅう)は、父子兄弟にその名を及ぼして四世に亙る医家である。伊藤仁斎の父から四代を経て交流があった。 初代凉及は後水尾院の御医として、法印を賜わっている。衆医に諮らず薬を調製し、院の御悩をたちまち快復させた名誉もある一方で、碁を打っていて、急の召しに応じなかったため、京都を逐われ、大津に蟄居したこともあった。しかし、程なく召し還されたという。〈『近世畸人伝』巻之五、219ページ〉

凉及には、その狂態によって伝えられる笑話が多いとして、伴は以下の逸事を紹介している。桜の巨木を買って陋屋へ運ばせたのだが……。

一日、嵯峨に住む角倉氏の所へ治療に赴いた帰途、大樹の桜を見出す。購うに甚だ高価であったので、持主から借金をしたうえ、数多くの人足を使って我が家へ運ばせた。ところが、庭に横たえたまではよかったが、植えられる地面がない。人足が弱っていると、「かまわん。そのままにして置け。寝ながら見る桜としよう。」と言ったという。〈同、222ページ〉

この話に付された三熊花顚(みくまかてん)の描いた挿絵を見ると、塀で囲まれた狭小な庭にどでんと桜の大木が横たわっている。何人もの人足が働く中で、植木職人が根を縛った縄を解いているところだ。家の中では凉及が肱を枕に横になって、根の方に頭を向けている。ちょうど桜花を下から見上げるような恰好である。 だが、どうも奇妙だ。桜を横にするだけの余地があるのなら、なぜ縦に植える余裕がないのであろう。植木に詳しい方があったら教えてほしい。

(G)

(47) 『うつほ物語』の七夕 2012/08/02

ご存じのように、七夕や重陽など日本の伝統的な年中行事は、もともと旧暦によって行われていました。ですから、七夕は旧暦では秋の行事になります。

『うつほ物語』の最終巻である楼の上・下巻で、俊蔭の娘や仲忠、いぬ宮は、七夕に音楽を捧げています。俊蔭の娘は、亡父がかつて波斯国から持ち帰った波斯風という七絃琴を、仲忠はりうかく風を、いぬ宮はほそを風を弾きます。するとどうでしょう。奇跡が起こりました。

世に知らぬまで、空に高う響く。よろづの鼓、楽の物の笛、異弾き物、一人してかき合はせたる音して、響き上る。面白きに、聞く人、空に浮かむやうなり。星ども騒ぎて、神鳴らむずるやうにて、閃き騒ぐ。…さまざまに面白き声々のあはれなる音、同じ声にて、命延び、世の栄えを見たまふやうなり。[新編日本古典文学全集③550頁]

あらゆる種類の楽器を合奏したような音で、その演奏の面白さに、聞いている人は空に浮かびあがりそうになり、しかも、寿命が延び、栄耀栄華を見ているようだとあります。俊蔭の娘たちの演奏に、七夕の空が反応しました。

夜もいたう更けぬれば、七日の月、今は入るべきに、光たちまちに明らかになりて、かの楼の上と思しきにあたりて輝く。神遥かに鳴り行きて、月の巡りに星集まるめり。世になう香ばしき風、吹き匂はしたり。…色々の雲、月の巡りに立ち舞ひて、琴の声高く鳴る時は、月、星、雲も騒がしくて、静かに鳴る折は、のどかなり。

以前、勝俣隆先生に教えていただいたのですが、七夕の夜は「上弦の月」で、日没時に天頂にありますが、真夜中には西の地平線上に沈んでしまうそうです。ところが、『うつほ物語』では、夜中に月が輝いています。月の周りに星が集まっているようであり、色とりどりの雲も沸きたっています。勝俣先生は、この場面について次のように仰っています。

本来なら真夜中に沈んでしまうはずの七日の上弦の月が、三人の合奏による天変として、西の山の端から舞い戻り、楼の上に輝いたわけですから、まさのそのことが奇瑞であることになります。そうした本来起こりえないことが起こったので、七夕の弾琴の素晴らしさが称賛されるのだと解釈すべきと存じます。

俊蔭一族の弾琴による天体マジックショーは、七夕の日であったからこそ、読者も余計に「ファンタスティック!」と感嘆したのではないでしょうか。この後、俊蔭の娘の夢に、亡くなった俊蔭が現れます。

「むかしのものの声の、さもあはれにめづらしく聞きはべりつるかな。大将も、御楽の声も、あはれに愛しうなむ。…」

夢の中で、俊蔭は、娘や孫の七絃琴の演奏を聴いて深く心を打たれたと言っています。俊蔭の娘は、父が亡くなってから、せめて夢の中だけでも逢いたいとずっと思い続けてきましたが、今回初めて夢に亡父が現れたと涙します。夢でいいから亡くなった人に逢いたいと思う気持ちは、昔も今も変わりません。俊蔭の娘にとって、生涯忘れることのできない七夕になりました。

今年は、八月二四日が旧暦の七月七日になります。皆さんも、ぜひ夜空を見上げて、牽牛星(彦星)と織女星(織姫星)を探してみてくださいね。

(し)

(46) 近世畸人伝(3)―清廉な医者― 2012/07/22

患者の命より自分の財布を温めることに汲々としている医者を、かつて「医は算術」と言って揶揄した。「医は仁術」をもじったものである。無論、算術にたけた医者ばかりではなく、仁術を施す医者は多かろう。ただし、保健医療という大船に乗っているから、患者のほうがありがたみを感じないようだ。江戸時代には、健康保険制度は存在しない。だから、高価な薬代がかからないように自衛した。「薬石効なく」と言えるのは金持ちだけで、貧乏人は寿命だと思って諦めたのである。

永田徳本(とくほん)は、薬籠を背負って「かひの徳本、一服十六銭」と呼ばわりながら伊豆や武蔵を鬻ぎ歩いた薬売りである。江戸に滞在した折、将軍秀忠が病を得て、典薬の諸医の力をもってしても効果がなかった。ところが、徳本を召して治療に当たらせたところ、たちどころに平癒した。報償として様々な物を下賜したが、一切受け取らず、例の一服十六文の薬代しか受け取らない。その清廉が上聞に達し、何でも願うことがあれば言うがよいと、しきりに命ぜられたため、自分の友人に家のないものがある、これに家をいただきたい旨を徳本が申し上げたところ、ただちに甲斐国山梨郡に金を添えて賜わった。友人にその家を与えた後、徳本は薬を売りながら飄然と姿を消したという。(巻五、223ページ)

「時蕎麦(ときそば)」という落語にある通り、屋台の蕎麦が一杯16文であったから、徳本の薬はいかにも安い。しかし、大抵薬は高価であって、天井を知らないものだ。

太田見良(けんりょう)は、伊予大洲(おおず)の加藤侯に仕えた武士である。学を好み、京都で医術を学んだ。権威に屈することを潔しとしない清白さで知られ、薬物を選ぶのに極上の品を用いても、まったくその値段を気にしない。その理由を問われると、もし薬の時価を知ったら、自然と吝嗇の心が生じ、調剤の折に高価な物を減らすことになる。自分の浅ましさを思えば、薬の価格など問えないと答えた。(巻三、140ページ)

自らの生活が逼迫しているわけではないから、他人に施す余裕が生まれるというわけでもなかろう。ケチな者は、舌を出すのさえ惜しむほどケチだからだ。 それにしても、この二人は恬淡として快い。確かに一種の奇人といってよいかもしれない。

かつて筆者の同僚に、医者がいた。少しく変った男で、夜眠れないという。合宿に同行した時、隣の部屋から電話がかかってきた。「冷蔵庫の電源が入っていませんか。」という悲痛な訴え。隣室のコンプレッサーの音まで気になるのかと、急いで確認したが、冷蔵庫自体存在しなかった。山登りを終えた翌日、たぶん筋肉痛だろうと思い、「足の筋肉が張っていませんか。」と尋ねると、平然とした顔で「いや、大丈夫だよ。筋弛緩剤を打ったから。」だと。仰天した。そんな使い途があったのか。この医者に命を委ねるような事態にならないことを心から願ったことである。

(G)

(45) 身を捨ててこそ…薩埵王子とグスコーブドリ 2012/07/12

法隆寺の玉虫厨子(国宝)には、どのような絵が描かれているか、ご存じですか?厨子中段の須弥座の右側面には「捨身飼虎図(しゃしんしこず)」が描かれていますが、これは仏教経典『金光明経(こんこうみょうきょう)』にある薩埵(さつた)王子の話にもとづいて描かれたものと言われています。

釈迦の前世である薩埵王子は、二人の兄とともに狩りに出かけ、飢えた母虎と七匹の子虎を目にします。薩埵はこの母子虎を可哀相に思い、自分の身を虎の前に投じて、母子虎を飢餓から救ったのでした。玉虫厨子では、薩埵が崖の上で衣を脱いで木にかけている場面、崖の上から身を投じた場面、母子虎に食べられている場面の三場面が同時に描きこまれています。飢えた虎たちが薩埵に食らいつく絵は凄惨だと思われることでしょう。でも、竹林越しに描かれており、また、何よりも薩埵の顔がとても安らかで満ち足りた表情をしていることから、生々しさよりも「薩埵王子の美しさ」が伝わってきます。

「身を捨てて虎に飼(た)べさせた」薩埵王子の話を「捨身飼虎」とも言い、和文化されたものが『三宝絵』(仏教説話集。源為憲著。10世紀末)に収められています。

(薩埵王子は)虎の前に行きて身を任せて臥しぬ。慈悲の力に、虎更に寄りて食はず。また念(おも)はく、「此(こ)の虎は疲れ弱ければ、我れを食ひ難きならむ」と念ひて、起(た)ちて、枯れたる竹を取りて頸(くび)を差して血を出して、また、虎の前に歩み近付く程に、大地震ひ動く。風の波を上ぐるが如し。空の日光無くして諸方暗し。空の中より花を雨(ふ)りて林の間に乱れ落す。飢ゑたる虎、王子の頸の下より血の流るるを見て血をねぶりつつ、肉を喰(は)み骨を残せり。   ※ねぶる…なめる

薩埵王子の二人の兄は、飢えた母子虎に関心を持つものの、何もしないで、その場を立ち去りました。玉虫厨子の研究者・石田尚豊氏は、「観念的に頭で『可哀相』ということと、『可哀相』を実践することとでは、世界が天と地ほどに異なります。薩埵王子だけが飢えた虎の苦悩をまともに受け取り、『可哀相』と感じた慈悲の心を、一大決意のもとに身をもって貫き通したということが、この捨身飼虎図の焦点です。」と仰っています(「玉虫厨子は語る」)。慈悲の心を行動で示した薩埵王子の強い信念には敬服しますね。

さて、宮沢賢治の『グスコーブドリの伝記』(昭和7年)の主人公グスコーブドリも、自分を犠牲にして、東北の人々を冷害による飢饉から救いました。6月になっても毎日寒く、凶作を危惧したグスコーブドリは、カルボナード火山島を人工的に爆発させて気温を上昇させることを思いつきます。その作業を成功させるためには、カルボナード火山島に行った者のうち、最後の一人だけは火山島に残らなくてはなりませんでした。グスコーブドリは一人島に残り…。数日後、イーハトーブは暖かくなり、その年の収穫も普通になり、人々は飢えることなく冬を越すことができたのでした。

薩埵王子もグスコーブドリも自分の命を投げ出すことによって、飢餓に苦しむ者を救いました。これらは極端な話かもしれませんが、一身を投げだす覚悟があって初めて、救われる命もあるのだということを教えてくれます。

※「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ」は、「一身を投げ出す覚悟があってこそ、窮地を脱して物事を成就することができる」の意です。

(し)

(44) 『近世畸人伝』―池大雅―(2) 2012/07/02

愛すべき我らが奇人池大雅の師匠は、柳沢淇園(やなぎさわきえん)という。文学・武術を始め、諸芸十六般に通じ、仏教学まで修めていた。とりわけ画をよくし、人物画が世に名高い。

この人、客を招くのが大好きで、寄食する者は数知れなかったと伝えられる。(『近世畸人伝・続近世畸人伝』―平凡社東洋文庫、151ページ)

ほんのちょっと訪れただけの者でも、数年に亙って帰さないばかりか、博打の罪によって所払いになった者まで、獄吏に賄賂を渡して私邸へ引き取ってしまう。生涯ここに暮らせば、禁獄も同様だと言って、下にも置かない礼を尽し、その博打の腕前を披露させ、その技術の妙を楽しんだという。(同、153ページ)

こんなことを続けたために、親から譲り受けた2千石もの家禄を蕩尽してしまったらしい。池大雅もその蟻地獄に捕われた一人であり、大和へ向った折に、路銀が尽きてしまったため、かねて知っていた柳沢邸を訪れ、寸借を頼んだところが、門を閉じて帰してくれない。すると、柳沢の家臣から主人の奇妙な病気を諫めてくれと頼まれる。大雅が、諫言を聞き入れてくれなければ帰ろうと言うと、柳沢は、諫めにも従わないし、帰しもしないと答え、ますます門を固く閉じて警護してしまった。大雅は、とうとう裏の垣根を越えて逃げ帰ったという。(同、152ページ)

こうなると、もはや奇人というより変人に近い。奇人という点では人後に落ちない大雅も、師匠の奇行にはさすがに閉口したろう。

師弟関係といえば、辰野隆(たつのゆたか)と小林秀雄(こばやしひでお)との間にも面白い話がある。坪内祐三『父系図』(2012年3月、廣済堂出版)から拾って示そう。

東大のソクラテスと称された辰野隆は、明治21年生まれのフランス文学者である。法学部を卒業後仏文科へ再入学した異色の学者で、門下生には小林秀雄、渡辺一夫、三好達治、今日出海など、錚々たる名が連なる。

坪内が引いてくれた弟子小林秀雄の一文「ヴアレリイの事」によれば、小林には本を読む時に「無暗と煙草をすつて頭の毛を挘(むし)る奇妙に執拗な悪癖」があった。それで、1ページごとに煙草の灰と髪の毛が挟まることになる。無論、辰野先生から借りた本にもそれらが残る。こんな明瞭な証拠があるから、読まない本を読んだと言って返せない。辰野は小林から本を受け取ると、パラパラとやって掃除したそうだ。たまたま痕跡が見当たらないと、読まなかったなと言う。家でよく払ってきた奴ですなどと言い訳しても信用してもらえない。「さうなるとこつちも馬鹿々々しいから、勇敢に汚してお返しする事にしてゐた」が、「今でも先生のとこのヴアレリイには全部、先生の払ひのこした私の頭の毛がはさまつてゐる筈である。想へば感謝の念に堪へない。」と師の恩に万感を込めて結んでいる。(161ページ)

小林はヴァレリーの本を読みたくて仕方がなかった。だが、東大の図書館でさえも関東大震災で原書を焼失し、わずかに師辰野の手元に残るだけだったのである。

夏目漱石には、原稿用紙に鼻毛を抜いて立てる奇癖があった。弟子の内田百閒(うちだひゃっけん)は、『道草』の書き潰し原稿をもらい受け、丁寧に植え付けてあった鮮やかな残骸を見つけると、「先生の苦吟の模様を想見して、大事にその毛を蔵つておい」た。「世に遺髪と云ふこともあるので、私はこの毛をおろそかには考へない」というほど師に対する強い思慕の念を吐露してやまない(内田百閒「漱石遺毛」―『私の「漱石」と「龍之介」』ちくま文庫、32ページ)。

鼻毛でも師匠のものならありがたがってくれようが、小林の場合は弟子の悪行だ。大切な本をフケにまみれさせて、よく文句を言わずに許してやったものだと感心する。

因みに、辰野隆『忘れ得ぬ人々』(昭和14年10月、弘文堂書房)は、名著の誉れ高い。こちらにも、東大の恩師上田万年とその知友齋藤緑雨にまつわる逸話が紹介されている。ぜひフランス装(本を開く側の紙を裁断してない装丁。ペーパーナイフなどでページを切り開きながら読む)の古本で味わってもらいたい。

(G)

(43) 『うつほ物語』の老女の恋②(忠こそ巻) 2012/06/22

一条北の方は夫(左大臣・源忠経)を亡くした後、やはり同じく妻を失った右大臣・橘千蔭に懸想をします。一条北の方は五十歳余り、千蔭は三十余歳。親子ほどの年の差がありますね。老女の手練手管に千蔭は陥落し、しぶしぶ一条邸に通うようになり、ずるずると関係を続けますが、しだいに足が遠のいていきます。

さて、千蔭には、亡妻との間に生まれた「忠こそ」という息子がいました。なんと、一条北の方は、この忠こそにも言い寄ったのです。もちろん忠こそはやんわりと断ります。一条北の方は、「われに恥見すること」、恥をかかされたと思って、千蔭・忠こそ父子に復讐を企てるのでした。

千蔭が一条邸に忘れていった大切な石帯(束帯のとき、袍に締める革帯のこと。黒漆革に、身分によって玉・瑪瑙などの石を飾った。)を、博打(「ばくちうち」のこと。)を使って蔵人所に売らせ、まるで忠こそが盗んで売ったかのようにしました。でも、千蔭は息子を信じ、不問に付しました。

一条北の方は、次の復讐を企てます。亡夫の甥を使って、今度は「忠こそが帝に讒言して、父親を陥れようとしている」と、嘘の情報を千蔭の耳に入れます。とうとう千蔭は忠こそを疑い、「私を思ってくれないような噂を聞いたので、お前を最後まで愛しぬくことはできそうもない。」と言うのでした。千蔭から思いもよらない言葉を聞かされた忠こそは、絶望のあまり出家してしまいます。

その後、千蔭は忠こその失踪を知り、一条北の方の計略にまんまと引っかかったことに茫然とするのでした。

もちろん千蔭は一条北の方との縁を絶ちます。千蔭は小野に隠棲し、亡妻と忠こそのために仏事に専念しますが、忠こそには再会できないまま亡くなりました。

気の進まない相手と付き合ったり、大事なもの(石帯)をうっかり交際相手の家に忘れたり、長年一緒に暮らしてきた息子を信じないで、狡猾な人の言うことを信じた結果、千蔭は不幸になったのでした。

さて、一方、一条北の方はどうなったのでしょうか。千蔭のために散財し、すっかり落ちぶれてしまった彼女は、乞食同然になります。忠こそが出家してから約四半世紀後、真言院の阿闍梨(=朝廷から任じられた僧位。)となった忠こそは、偶然、一条北の方と再会します。

老いかがまりたる嫗のかたゐ、市女笠のいたく損はれしを頂きて、顔は墨よりも黒く、足手は針よりも細くて、継ぎの布のわわけたる、鶴脛にて、阿闍梨のまかづるに、手を捧げて、「今日の助けたまへ」と、後に立ちてはひゆく。[新編日本古典文学全集①539頁]

一条北の方は、腰が曲がり、ひどく破れた市女笠(=外出用の女性の笠)をかぶり、顔は墨より黒く、手足は針のように細く、継ぎはぎでぼろぼろになった着物をまとい、脛(はぎ)が鶴のように長く出ていました。「今日一日のお恵みをください」と言って、忠こその後に這いつくばってついてきます。

あれあれ、美しい平安貴族女性とは似ても似つかない「鬼婆」のような恰好になって、目も当てられませんね。人を貶めた者は、いつか自分にもはねかえってくるという、格好の例でしょう。

でも、ご安心あれ。忠こそは、一条北の方の姿を憐れんで、助けてあげました。

父の千蔭はもう生きていません。自分は一条北の方の讒言のために、世を捨てました。忠こそは、長年胸中の炎がさめぬほど苦しい思いをしてきた(「年ごろ胸の炎さめず嘆きわたりつることを」)そうです。それでも、忠こそは、この一条北の方を許したのです。

※讒言(ざんげん)…人をおとしいれるため、事実をまげ、またいつわって(目上の人に)その人を悪く言うこと。

(し)

(42) 『近世畸人伝』―池大雅―(1) 2012/06/12

江戸中期の文人画家・書家として高名な池大雅(いけのたいが)―1723~1776―といっても、弱年の読者には馴染みのない名前であろう。実は本稿の筆写とて、何かの図版に載っていた「十便十宜図」(川端康成の蒐集品として知られる)を見た程度であるから、はなはだ心許ない。では、なぜこの人物を取り上げたかというと、その天然自然ともいうべき奇人ぶりに魅力を感じたからである。

伴蒿蹊(ばんこうけい)『近世畸人伝』(寛政2年―1790―刊)によれば、3歳で書を始め、5歳にしてすでに神童の片鱗を見せている。一日万福寺で堂頭千杲(せんがい)禅師を前に大楷書を披露すると、禅師ばかりか同席した僧らも感服し、詩を賦してこれを賞したという。〈『近世畸人伝・続近世畸人伝』―平凡社東洋文庫、154ページ〉

長じて唐風の山水画を学び始めたころ、扇面に描いた絵を携え、近江・美濃・尾張を廻って売ろうとしたものの、初心を怪しみ、誰も買わない。空しく帰洛しようと瀬田の橋を渡る時、その扇をすべて湖水に投じ、これによって竜王を祭ると言った。その後、短時日のうちに書画の名声が広まったという伝説さえ残している。(同、154ページ)

また、大雅が江戸から奥州へ旅をした帰途、禅寺に世話になった。住持の留守にもかかわらず昼飯を供してくれた礼として偈頌(げしょう、悟りの境地を表す漢詩)を書き残して去る。帰った住持がそれを見てひどく感心し、後を追うが、つかまらないまま、とうとう京都まで来てしまう。偈に記された池無名を頼りに探しまわり、祇園の社に掲げられた蘭亭図に同じ署名を見つける。僧坊に駆け込んで作者の居所を知り、ようやく対面することを得た。だが、大雅を探し当てたら、もう京に用はないと踵を返して奥州へ旅立ったという。(同、159ページ)

これでは単なる偉人伝となってしまう。だが、さすがに伴は池大雅の畸人(奇人に同じ)たるゆえんを洩らしはしない。

「多く人の不意に出る話をいはば」と、履歴を述べた前段の退屈を振り払うように奇談を繰り出す。

大雅が江戸に下った時の話である。知人を頼って某大名の屋敷に宿った。6月18日になり、故郷祇園の社で行なわれる神事御輿洗(みこしあらい)の日である。紙で人形を作り、火を着けて邸内を廻ろうとした時、大名の子息がそれを見たいから持ってこいとの使いがある。しかし、囃子に紛らし、聞こえないふりをして廻っている。何度も使いがやって来て催促するので、今参ろうというその時には、すでに人形を焼き尽してしまった。「これはしたり。だが、これは祇園の神に奉る志であるから、他人に見せてほしいとは神が願っていないはずだ。」と言ったところ、大名の怒りに触れて、その邸から追い出されてしまう。本人は、それももっともだと笑って済ませていた。(同、155ページ)

大雅の行為にまったく悪意はない。相手の事情には関心を示さないというだけだ。その人となりがよく知られる逸話を今一つ紹介しよう。 ある時、難波へ出立するのに、筆を携えるのを忘れて出てしまう。妻の玉瀾が気付き、筆を持って走る。建仁寺の前で追いついて渡すと、大雅は筆を大事そうに押し戴き、「どちら様ですか、よく拾って下さいました。」と言って去る。妻もまた一言も言わずに帰った。(同、154ページ)

自分の妻かどうかくらい分りそうなものだが、これでは落語そのものだ。 夫のとぼけぶりに怒りもせず、平然と対応した妻玉瀾もまた文人画で鳴らした女流画家である。夫が三味線でだみ声を発すれば、妻は筝をかき鳴らして応じたという。まさに「琴瑟相和す」を地で行く夫婦であった。

(G)

(41) 『うつほ物語』桐の巨木②(俊蔭巻)  2012/06/02

清原俊蔭が波斯国の西方で出会った桐の巨木は、阿修羅(あしゅら)が番人となってその木を守っていました。阿修羅は、もちろん人間ではありません。古代インドでは、初め善神でしたが後に悪神となり、絶えずインドラ(仏教では帝釈天)や日・月と闘争を繰り返す悪魔・鬼神の類として知られています。仏教に取り入れられた後は、六道の一つ、あるいは八部衆の一つとされ、仏法の守護神の地位が与えられますが、帝釈天(たいしゃくてん)と争い、闘争を好む一種の鬼神であることに変わりはありません。

阿修羅は、桐の巨木の由来を、俊蔭にこう話しました。

「世の父母、仏になりたまひし日、天稚御子下りまして、三年掘れる谷に、天女、音声楽をして植ゑし木なり。」(お釈迦様が仏におなりになった日、天稚御子が天から下っていらっしゃって、三年かけて掘った谷に、天女が妙なる天上の音楽を奏でて植えた木だ。)[新編日本古典文学全集①27頁]

天稚御子は、日本神話のアメノワカヒコという神に由来します。天女は、忉利天(=須弥山の頂上。帝釈天が住んでいる。)の天女で、仏教に由来します。いろいろな異形(いぎょう)の者たちが登場して面白いですね。

さて、俊蔭がもらい受けた桐の巨木の下の部分は、この様々な異形の者たちによって三十面の七絃琴へと形を変えました。

阿修羅、木をとり出でて、割り木づくる響きに、天稚御子下りましまして、琴三十つくりて上りたまひぬ。かくて、すなはち、音声楽して、天女下りまして、漆ぬり、織女、緒よりすげさせて上りぬ。[新編日本古典文学全集①28頁]

織女の正体は星です。七夕伝説で機(はた)を織ることから、七絃琴の絃を張る作業を担当したのでしょう。

 『竹取物語』の「かぐや姫」は月の都の人でした。かぐや姫も人間ではありません。地球の男性とは結婚しないで、月の世界へと帰ってゆきました。『うつほ物語』は、海の向こうの世界として波斯国という異界を創り出し、異形の者たち――阿修羅(仏教)、天女(仏教)、天稚御子(日本神話)、織女(中国の民間信仰)を登場させたのです。浦島太郎が再び竜宮城に行くことがなかったのと同じように、『うつほ物語』の中で波斯国という異界に行けたのは清原俊蔭ただ一人、しかも一度きりでした。  

(し)

(40) 根岸鎮衛『耳嚢』(5)        2012/05/22

根岸は、御勘定吟味役にあった時分、天明の大噴火を起こした浅間山によって受けた被害からの復興工事を進めるため、各村を巡回している。その折、上州片岡郡池村(多胡(たこ)郡、現在の群馬県高崎市吉井町)に至り、「和銅三年」から始まる石碑を拓本に取って持ち帰った。

この碑文について土地の者に尋ねると、和銅3年-710-、上野国甘楽(かんら)郡、緑埜(みとの)郡の中を分割し、片岡の郡として羊太夫という者に賜わった旨を記したものだという〈巻之二〉。

この碑文から着想を得て、日本列島への羊の伝来をこの頃とする論考を漫画に仕立てた作品がある。星野之宣「沈黙の羊」(『神南火(かんなび)』所収、初出は『ビッグコミック』2003年3月25日号)がそれだ。

星野には、代表作として宗像教授のシリーズがある。古代史特に鉄の伝播を中心とした文化史を専門とする東亜文化大学教授である宗像伝奇(むなかたくまくす)が様々な歴史上の謎に挑むという設定である。単に歴史学や神話学等の論考として面白いだけでない。登場人物の造形と心理描写が的確であり、しかも息もつかせぬストーリー展開であるから、上質な推理小説を読んだ後のような爽快感と余韻に浸ることができる。

その宗像教授のライバルとして登場する女性史研究科忌部神奈(いみべかな)が、教授と丁々発止を演ずるわけだが、次第に両者に隔たりがなくなり、互いに惹かれ合うようになる。『神南火』は、この忌部神奈を主人公とした物語であって、宗像教授の女性版といってよい。

さて、「沈黙の羊」は、忌部が群馬県富岡市にある貫前(ぬきさき)神社を訪れたところから始まる。頭部を殴られ倒れた女性を発見するが、その女性は動物の肩骨を握り、「お父さん」と言ったまま息絶えてしまう。

女性の父は在野の研究家である。例の碑文にある「羊」に基づき、古代に羊が渡来した証拠を見出そうと、家族を放り出して探索に没頭している。女性が幼児のころたまたま見つけたのが例の肩の骨で、太占(ふとまに=古代の占い)の跡さえあった。しかし、発見した場所が特定できないため、考古学資料としては価値がない。さらに新たな証拠を見出さねばならず、父は失踪同然に放浪するのである。

羊太夫なる人物が、銅の採掘や機織りの振興に努めたという伝説が当地に残されているという。根岸の拾った話もそれであろう。

明治以前に羊が持ち込まれた歴史について忌部の披瀝する知識は省略しよう。ともかく、忌部は「多胡」という地名から「胡人(=ペルシア人)」を想定し、人とともに羊と馬が持ち込まれたと想定する。女性を誤って殺した犯人と父との関わり、骨がもたらした家族の悲劇については、ぜひ原典を読んでいただきたい。

問題の碑文に話を戻そう。根岸が転載した文面は次のとおりである(原文は漢字のみ、訓読は根岸による)。

弁官ノ符、上野ノ国片岡郡・緑野郡・甘良郡幷(ならび)ニ三郡ノ内三百戸ヲ成シ羊ニ給ヒ、多胡郡ト成ス。和銅四年三月九日甲寅宣ス。左中弁五位下多治比真人 大政官二品穂積親王 左大臣正二位石上尊 右太臣正二位藤原尊

この銘に対して附せられた、栗本瑞見(くりもとずいけん)による注釈を根岸は併せて載せている。

栗本は奥医師(=将軍や奥向きの侍医)だった。この附記には、文政11年-1828-4月の識があり、御書院番を勤めた美濃部先生と呼ばれる人物に贈ったと記されているが、詳細は分からない。『日本書紀』和銅四年三月の条を援用しつつ栗本はこう断じた。

始(はじめ)テ此(この)国ニ多胡郡ヲ置(おき)タル時、始テ建立セル碑也。其(その)文至(いたっ)テ読(よみ)ガタキニヨリ、土人誤(あやまり)テ羊太夫ノ碑トス。羊ハ半ノ字ノ誤ナラン。三郡ノ内ヲ三百戸ノ郡トナシ給ヒ、半ヲ多胡郡ト成(なす)ト読(よみ)テ其(その)義通ズベシ。

なんと、「羊」は「半」の誤読だというのである。

こう言ってしまったら身も蓋もない。しかし、だからといって、星野の構築したロマンが無意味になったわけでもなかろう。昭和46年に創設された集英社による手塚賞を、星野は昭和50年に受賞した。現在までわずか15名しか入選していない新人賞を獲得した異才である。

小編の筆者も、受賞作「はるかなる朝」をはじめ、彼の作品はいずれも巻を措(お)くあたわずと言ってよいほどの愛読者だ。知的好奇心をくすぐってくれる星野の想像力には常に感服しているのである。

(G)

(39) 『うつほ物語』桐の巨木①(俊蔭巻)  2012/05/12

『うつほ物語』の俊蔭巻には、桐の巨木が登場します。桐の巨木は、この物語の出発点です。

主人公・清原俊蔭が桐の巨木と出会う場面を見てみましょう。波斯国(ペルシャ)に漂着した俊蔭は、観音の助けによって、栴檀の林で七絃琴(=中国の琴。絃が七本ある)を弾く「三人の人」に出会います。その翌年の春、西の方から木を伐り倒す斧の音が聞こえてきて、三年間その音が止みません。しかも、俊蔭の弾く七絃琴の音に調子を合わせるように聞こえてきます。その不思議な音に誘われるように、俊蔭は「この木のあらむところ尋ねて、いかで琴一つ造るばかり得む」と思って旅に出ました。

三年後、ようやく木を尋ねあてます。その木は「頂天につきて険しき山」の上に「千丈の谷の底に根をさして、末は空につき、枝は隣の国にさせる桐の木」でした。千丈の谷底に根を張り、梢は天をつき、枝は隣の国まで延びているという、とても大きな桐の木です。俊蔭は、三等分した巨木の一番下の部分を貰い受けることになりますが、この桐の巨木は、望みを叶えてくれる魔法の木でした。

この木の上中下、上中の品をば大福徳の木なり。一寸をもちてむなしき土を叩くに、一万恒沙の宝をわき出づべき木なり。下の品は、声をもちてなむ、ながき宝となるべき(新編日本古典文学全集①二八頁)

木の上・中の部分は大福徳の木で、その木のほんの一片であっても、それで何もない土を叩くと、一万恒河沙(数えきれないほどの膨大な数)の宝を湧き出させることができる木だそうです。また、木の下の部分は、音の素晴らしさで永遠の宝物になるとあります。非常に多くの福徳をもたらしてくれるこの巨木を、江戸時代の国学者・山岡明阿は「打出の小槌といふ宝物なり」(『二阿鈔』)と言いました。

ところで、望みを叶えてくれる不思議な樹の話は、世界に数多くあります。例えば、『酉陽雑爼』三・貝編にある「憶念樹」は、物が思うままに出てくる樹です。ギリシア・ローマ神話では、ヘルメスが魔法の杖(卜占杖)の持ち主でした。

人間の望みを叶えてくれる魔法の木が本当にあったとしたら、少々怖いような気もいたしますが、『うつほ物語』では、不思議な桐の巨木からつくられた七絃琴が、俊蔭一族を栄えさせてくれることになります。

俊蔭が、桐の巨木の上・中の部分をもらわなかったのはなぜでしょう。「一寸をもちてむなしき土を叩くに、一万恒沙の宝をわき出づべき木」の方が、魅力的に感じられます。そのように考えると、桐の巨木から楽器をつくり、その楽器を弾くことで家が栄えていくといったストーリーは、非常に面白いと言えましょう。『うつほ物語』は、単に宝物を獲得していく物語ではなく、音楽を物語の主題としたのですから。

(し)

(38) 『うつほ物語』の桜 2012/05/02

ご存じのように、平安時代、「花」と言えば「桜」を指すようになりました。『伊勢物語』八二段では、惟喬の親王(文徳天皇の第一皇子。八四四~八九七)や「右の馬の頭なりける人」(=在原業平)らが、桜の花盛りに、渚の院(「院」は貴族の邸宅)に出かけています。

いま狩する交野の渚の家、その院の桜、ことにおもしろし。その木のもとにおりゐて、枝を折りて、かざしにさして、かみ、なか、しも、みな歌よみけり。

渚の院の桜はとても美しく、惟喬の親王のお供をした人たちは、桜の樹の下で、それぞれ歌を詠んでいます。登場人物は男性ですが、桜の枝を折って髪飾りにしたとあり、とても風流ですね。

『うつほ物語』にも、これと似た場面があります。紀伊国(今の和歌山県)、神南備種松の邸宅の一区画「林の院」は、吹上の浜の辺りにありました。

院に、広くおもしろき浜に、花の色を尽くして並み立てる中に、高く清らなるおとど立てり。[新編日本古典文学全集①四〇三頁]

浜辺には、色とりどりに咲いた桜が並び立っています。その中に、高く美しい御殿が立っていました。青い海に並び立つ薄紅色の桜。しかも、「花さそふ風も心すごく吹きて」とあり、花を散らす風が吹き、おびただしい数の桜の花びらが空を舞っている、幻想的で美しい場面です。人々は桜の宴にふさわしく、桜の下襲を着て花見をし、歌を詠みました。

もう一つ、『うつほ物語』の桜で印象的な場面をご紹介しましょう。楼の上巻で、年老いた嵯峨院(七十二歳)は、まだ皇太子になる前(親王であった時)、伯母宮のいた京極邸にたびたび出かけたことを思い出しています。

いと厳めしき森のやうにて、桜の木あり。あはれ、この木見るこそいと恐ろしけれ。むかし十余歳にて、春ごとに来つつ、書(ふみ)見るとて、見困じて下りつつ遊びし。[新編日本古典文学全集③六一七頁]

嵯峨院は、十歳ぐらいの時、春になる度に京極邸の桜の樹に登り、書物(漢籍)を読んでいたそうです。親王さまも、木登りをして楽しんだのだと思うと、思わず笑みがこぼれますね。

でも、時は過ぎ、桜の木は残っていても、伯母宮はすでに他界していますし、嵯峨院も年老いてしまいました。幼い頃の桜の記憶は、人をとても感傷的にさせます。それは、桜が二度と戻ることのない時間の中にあるから、人によっては、今は亡き愛する人との思い出の中に桜が美しく咲いているからでしょう。

皆さんは、どのような桜の思い出をお持ちですか。両親や家族と愛でた桜でしょうか。それとも友人や恋人と一緒に桜の樹の下を歩いたことでしょうか。一人で眺める夜桜も素敵ですね。旅先で出会った桜も、一期一会で忘れがたいものがあるでしょう。桜の花が散るのを残念に思うあなたは、桜をこよなく愛する日本人の遺伝子をしっかり受け継いでいるといえましょう。

(し)

(37) 根岸鎮衛『耳嚢(みみぶくろ)』(4)―2  2012/04/22

幽霊の実在が多くの人々に信じられていた時代だから、次のような滑稽談も成立した。

八丁堀に住む町人が、乳呑児を残して妻に先立たれた。くれぐれも里子に出さないようにと釘を刺されたにもかかわらず、男手一つの甲斐なさ、里子に出して、留守を弟に任せてしまう。妻の遺言を忘れて遊所に通う兄に腹を立てた弟が、自分も夜発(やはつ、街娼)を招き入れたところへ、突然兄が帰宅した。急ぎ夜発を二階へ上げたまま、弟は引き上げてしまう。妻の遺言に背いたことを詫びながら仏壇に灯明を上げていると、二階で物音がする。階下へにゅっと顔を出した夜発を亡妻の幽霊と勘違いした兄は、近所へ知らせに走る。幽霊の噂で借り手のなくなることに頭を抱える家主や地主に、亡妻の執念が残る所へ子を戻して乳母を置くわけにいかないから、里親に養育料を増すのがよい、と提案する者がある。相談がまとまってようやく二階を探ると、真っ白に白粉を塗った異様の女がふてぶてしく寝そべっていた。様子を見に戻った弟から真相が知れ、一同大笑して事なきを得たのだが、養育料の増加が沙汰やみとなったことは言うまでもない。(巻之九、亡妻の遺念を怖れし狂談の事)

前回紹介したとおり、死後に「意念」が残ると信じていたようであるから、心配のあまり真剣に善後策を講じる家主らの姿は滑稽だが、無理もない。 怪しいと思っていても、どこかで信じてしまっているから、その場に直面すれば大慌てとなる。これは何も江戸時代の民衆に限らない。文明開化を迎えてもなお、全く変るところはなかった。明治初期に発行された錦絵新聞にも、幽霊を取り上げた記事が見られるのである。子を残して死んだ母親の霊が夜な夜な現われる、台湾出兵で戦死した義弟の霊が久闊を叙しに来る、冷酷無比の殺人者に亡者が襲いかかる……。 錦絵新聞とは、基となる新聞記事から錦絵を起こし、それに簡単な概要を添えた一枚物の新聞である。現在の写真週刊誌の類と思えばよい。七語調をちりばめた原文のリズムを味わってもらうために、一例をそのまま掲げよう。

年年歳歳相似たる千種(ちぐさ)の花の盛なる葉月(はづき)は、旧暦(もとごよみ)の文月(ふみづき)にて、歳歳年年、同じからぬ亡魂(なきたま)祭る鼠尾花(みそはぎ)の露と消(きえ)にし産婦が思ひは、送り火の焼野(やけの)の雉子(きぎす)、蝋燭立(ろうそくたて)の夜の靍(つる)。跡に残りし最愛児(いとしご)に、ひかれて迷ふ箒木(ははきぎ)の有(ある)か無きかに顕(あら)はれて、さめざめと泣(なき)て云へるやう、汝等(いましら)二人(ふた)りが薄命なる。侘しき爺子(ててご)の手一つに育てらるれば、万(よろづ)の事に不自由がちにぞありぬべし。乳呑(ちのみ)の妹(いも)は吾儕(わたし)が伴育(ともなひそだ)てあげん、と抱きしめし姿は、仏壇(たな)の土器(ほうろく)の香の煙と消失(きえうせ)ぬ。嗟(ああ)、愛着(あいじゃく)の妄念は脱離せずんばあるべからず。文明開化の今日に斯(かかる)譚(はなし)は無き事なれば、虚説を伝ふる戒(いましめ)とす。 小説の作者 転々堂鈍々記 (東京日々新聞 百一号、明治7年9月)

末尾に附された「小説」とは「つまらない話」というほどの謙辞で、現在のノベルを指すわけではない。なお、「作者」という言い方に奇異を覚えるかもしれない。実は、この記事の出所となる元記事は存在しない。たぶん転々堂鈍々の創作であろうから、まさしく「作者」に違いない。 「文明開化の今日にかかる譚はなきことなれば」と近代人ぶって転々堂は断るが、大衆の求めたのは、相変らずこの手のものであった。従って、幽霊話そのものが記事になるくらいだから、幽霊を信じる大衆の心情を逆手に取った次のような詐欺事件ともなれば、何を恥じることもない、歴とした新聞記事であった。

武州秩父郡薄村の農民某は、病気で妻を失った後、悲しみに沈んだまま引き籠っていた。ある夜、枕元に亡妻の面影が朦朧と映って消える。翌日菩提所に香花を手向け、夜を待っていると、再び妻が現われ、生前大切にしていた髪飾りや小袖が惜しく、また夫の身を案じて妄執に惹かれたのだと訴えたため、欲しいといった品々を枕元に置いた。この話を聞いた友人が不審に思い、確かめるため夫の家に泊る。夜半に現われた妻が今度は金を無心したため、友人が捕えてみると、隣家の女房が幽霊に化けて金品を詐取しようとしていたのだった。(同上 九百十一号b、明治8年2月)

これは、「東京日々新聞」(明治8年1月19日付)の「江湖叢談」に掲載された記事を要約して再構成したものである。その元記事によると、二十余年前にもこれと同じ騙りが上州高崎の北にある福島村でもあったという。それだけならいいが、「元来秩父は例の三十三所の観音を始め、仏寺多くして、往古より僧徒の妄誕に迷い居る愚民多き僻地なれば、彼の輪廻報応の説などに欺かるる事すくなからず」と愚民扱いしたうえ、「不開化の風俗なり。総(す)べて世に亡魂の事など云ひ伝ふるは、斯(かか)る類のうまく行(ゆき)しが多きなるべし」と、自分だけは開化の先兵であるかのごとく大衆を見下した姿勢まで垣間見せてくれる。 開化期の操觚者(そうこしゃ)が陋習(ろうしゅう)だといくら断罪しても、『耳嚢』の時代そのままである。さすがに現在では、一部のスポーツ誌以外、まともな新聞が取り上げることはなくなった。だが、忘れたころに心霊写真などが復活し、稲川淳二の怪談に耳を傾けているのを見ると、民衆の興味の対象は頑固なほど不変だとしかいいようがない。

(G)

(36) 根岸鎮衛『耳嚢(みみぶくろ)』(4)―1  2012/04/12

根岸は、聞き集めた雑談の真偽や虚実について、あからさまに論評することはない。「数多き中にはいつはりの言葉もありぬべけれど、かかる人の偽りは知らず、唯(ただ)聞きし事を有りのままにしるせり。」と序文に記したとおり、耳にしたままを集録する姿勢を保った。ただ、同趣の話題を通覧すれば、それに対する根岸の捉え方が自ずと看取されるから面白い。 例として、幽霊に関する聞き書きを取り上げてみよう。「遊魂をまのあたりに見し事」(巻之五)、「幽鬼其(その)証を留めし事」(巻之八)などからは、事実認定を優先しようとする奉行らしい視点が伺われる。一方、「幽霊なしとも極め難き事」(巻之二)、「幽霊なきとも申し難き事」(巻之五)などでは、タイトルからして懐疑派から一歩踏み出す危うさが見られる。その一方で、夜中に怪しい白装束を切りつけたら五位鷺(ごいさぎ)だったので、煮て食ったという巷説(巻之七「幽霊を煮て喰ひし事」)を紹介する口吻からは、一種の合理化にほっとしたような気息が感じられて微笑ましい。 さて、『耳嚢』中には、幽霊・亡魂が17体(?)程登場する。知己と会って対話を交わしたのだが、すでにその人は死んでいたという、現在でも耳にしそうな話もあるが、その大半は、根岸のいう「意念」が残る奇談に尽きてしまう。これらの話は、聞いたままを記したもので、評言は附されていない。

鵜殿式部という人の内儀の下で目を懸けて召し使っていた下女が病気のため、暇を与えたところ、しばらく過ぎてから、式部の母の宅へ病気が小康を得ている由を伝えに訪れた。下女の顔色がすぐれないのを心配し、老母が十分養生するよういたわると、下女は、土産の団子を置いて相応の挨拶をした後、座を立って退く。顔色の悪い下女を助けて帰らせようと家内の朋輩に行方を尋ねたが、誰も知らない。白い団子の並んだ重箱だけが残っていた。下女の宿へ問い合わせると、2・3日前に死んだという。(巻之四、下女の幽霊主家へ来りし事)

この下女のように、生前の厚誼・親切・恩恵などを謝しに現われるほか、遺児や夫に対する愛執捨てがたく、死後になお姿を見せる幽霊もある。

聾啞(ろうあ)の子を残して妻子に先立たれた染物屋は、生活にも窮したため、篤実な夫婦に株式や家財一切を預け、子の養育を頼んだ。隠居した染物屋に夫婦は孝心を尽くし、預った子を実子のように可愛がっていたが、隠居の死に続いて妻が亡くなってしまう。後妻に入った女も、この子を労わり育てていた。ある夜、後妻が一人で寝ている枕元に、この世の者とも思われない女が立ち現われる。次の夜もその姿を目にした後妻は、恐ろしさのあまり夫に暇を乞う。夫が呼んだ市女(いちこ)の口から、この家の事情を委細知らせたいという亡妻の言葉が伝えられる。幼子を預かるに至った一部始終を語り終え、その養育と家を大切に守ることを頼んで、霊は消え失せた。幽魂の信実に感じ入った夫が、施餓鬼の法事を営むと、夢に成仏の礼を述べに現われたという。

「この一段、談義僧の咄(はなし)らしけれど、至ってこの頃の事にて相違なき事なりと、ある人かたりぬ。」と根岸は結んでいる。確かに、談義僧が俗事を巧みな法話に仕立てた語りという趣も感じられるから、かなり潤色が加わってもいよう。 これが逆に怨念を主体とすれば、小泉八雲「破約」(『日本雑録』-1901年刊-所収)に見られるような凄惨な結末を迎える形式を生む。 決して再婚しないと臨終の妻に誓った夫が、家の断絶を避けるため新妻を迎える。ところが、夫が宿直の晩、前妻の幽霊が現われ、新妻の首をもぎ取って殺してしまうという話だ。 上田秋成を粉本とする、こうした猟奇的な方向にこそ小説家の食指は動きやすいだろうと想像してしまう。だが、そんな死後の復讐劇は『耳嚢』には見られない。それも当然だ。第一、殺人事件となれば、奉行の仕事に直接関わる。やたらに捜査資料を流用することは許されない。だから、始めから事件性を帯びた話柄は排除したものであろう。

(G)

(35) 根岸鎮衛『耳嚢(みみぶくろ)』(3)-2  2012/04/02

今一つは樹木にまつわる奇談である。

文化8年-1811-に発生した芝の大火によって市ヶ谷へ引き移ることを余儀なくされた能勢某の屋敷には、火災を免れた山の上に松の木が一本あった。伐採するのに忍びえず、隣家に引き取ってもらうことにした。ところが、移植のために根を切り回すと、一夜のうちに元通り土に埋まっている。困り果てた人夫も、切り倒すよりほかないと言う。これを聞いた能勢が松に向かい、「他処へ移るのは辛いだろうから、貰い手を見つけたのだ。動かないのなら伐られても仕方あるまい。だが、それでは無慚であるから、明日は快く移ってもらいたい。」と説諭したところ、翌日不思議に難なく移植できたという。(巻之九「非情といへ共松樹不思議の事」)

これもまた類話が民間に伝えられている。特に、『遠野物語』の話者佐々木喜善の『東奥異聞』(平凡社版『世界教養全集21』-昭和36年-)などによって、万人の知るところとなった。その一例を引用しよう。

岩手県上閉伊郡(かみへいぐん)栗橋村字古里(ふるさと)という所に一のマツの木あり、年々枝葉繁伸してついに付近の耕地を蔽い日光をさえぎることおびただしかった。その大きさははるかに笛吹峠からも和山(わやま)峠からも見えるほどであった。その木の持主の某惜しい樹木だが耕作物の邪魔には見替えられぬとて、伐り始めたがその日は木の十分の一をも伐ること能わずに夜になって家に帰った。そして翌朝いってみると木の伐り屑がみな元のように元木に付着して切り目がくわっているので伐りまた伐りすること、三十日余になったが、何日も同じことである。その男もほとほと困(こう)じ果てていると、ある夜夢に一人の老翁現われて告げていうことには、かの木の伐り屑を毎夕がた焼き捨てれば成就するだろうという。それからは毎夕切り屑を焼き捨ててついに伐り倒したが、その木が倒れて対こうの川向いの山までも枝梢は打ち靡いた。(『東奥異聞』「巨樹の翁の話」二)

以下、この巨木の幹を使って丸木舟を造る。しかし、重すぎて使用に堪えないため、うち置かれたまま腐ってしまう、というように別の話へと展開するが、本筋から離れるので省略したい。ともかく、佐々木の目にした古写本『東奥古伝』には、景行天皇60年-130-に遡る同型の伝説を付してあるという。明確に年代を記して史実めかしたところなど、いかにも怪しげな代物ではあるものの、上記のとおり江戸でも発生したわけであるから、大樹のあるところ、古今東西を問わず、類話が存在していて不思議はない。 この話では、巨木を伐り倒すに、伐り屑を焼き捨てるという簡便な解決法が示されている。他の話では、木の精がその方法を教えてくれることになっているものもある。神秘性があるといえば、その点だけで、木屑を焼くこと自体は呪(まじな)いでも非合理でもない。佐々木によれば、これと似た方法がかつて現実に行なわれていたようである。

いまでこそ種々な道具、大鋸(のこぎり)や発破(はっぱ)などが発見されて、どんな巨木でも難なく伐り倒すことができるが、昔は斧一梃でかかったもんだ。化けるような、そんな樹木でなくとも七日や十日には伐れなかったものだが、こういうときには焼伐りといって、夜は木の根付の幹を焼き、昼は斧で伐ると、あんがい速かったものだと。(同上)

これは、佐々木が老樵夫から聞いた話として紹介したものであるが、おそらく、この種の奇談の淵源は案外単純で、巨樹の伐採に難渋させられた職人の苦労話に基づいたものではなかろうかと思う。

(G)

(34) 根岸鎮衛『耳嚢(みみぶくろ)』(3)-1  2012/03/22

『耳嚢』には、現在も地方に残る口碑と共通する話も拾ってくれている。その一つ「神隠し」にまつわる奇談をまず紹介しよう。

寛政8年-1796-の盆14日のこと、下谷(したや)広徳寺前に住む大工の息子が、名人大工の拵(こしら)えた寺の門を見物に葛西まで出かけたまま、行方不明となった。驚いた両親が近隣の者とともに鐘や太鼓で尋ねたものの、見つからない。ところが、隣町の者が江の島へ参詣した折、弁天の社に朦朧としている息子を発見した。不思議なことは、この息子の叔父も20歳前に失踪したきり、ついに戻らないという。(巻之五「神隠しといふ類ひある事」)

文中、行方知れずとなった者を探し求めるのに、鐘や太鼓を打ち鳴らしたとある。昔は日暮れ時に姿が見えなくなる子供が多かった。さすがに現代人には馴染みが薄くなったが、迷子になった子供の捜索に鳴り物を用いたのである。柳田國男『山の人生』(初出大正14年1月~8月、アサヒグラフ)によれば、その鳴り物は、捜索対象に向けたものではなく、攫(さら)って行った天狗などから奪還するために発したものである。だから、関西では鐘や太鼓を打つとともに、「かやせ(=返せ)、もどせ」と叫んでいた。 柳田の同書には、ふいに姿を消した10歳ほどの少年を捜しあぐねているうちに、どしんと何物か落ちたような音がしたため、天井裏へ上がると、そこに倒れていたという明治40年ごろの例も挙げられているから、この種の神隠しは、つい近頃まで日常的な出来事であったと思われる。 上記の息子は、江戸から離れた江の島で発見された例であるが、次の話では、二十年を経てから帰って来た。

寛延-1748~51-から宝暦-1751~64-にかけての頃、近江八幡に松前屋市兵衛という富商があった。妻を迎えてしばらくして、行方知れずとなってしまう。金に糸目をつけずに捜索したが、とうとう見つからない。仕方なく、失踪当日を命日とし、別の婿を入れて跡を継がせた。 失踪の当夜、用便に立った市兵衛は、灯火を持った下女を待たせたまま、姿が見えなくなっている。その後、20年過ぎたある日、厠(かわや)から人を呼ぶ声がするため、行ってみると、市兵衛が失踪した当時の衣服のまま坐っていたのである。空腹を訴える市兵衛に食事を与えると、着ていた衣服が見る間に塵埃となって散り失せたという。(巻之五「弐十年を経て帰りし者のこと」)

よくできた話である。自家に出入りしていた近江八幡出身の眼科医から実際に見たと聞いた根岸は、「妻も後夫もおかしき突合(つきあい)ならん」と茶化して一笑した。実は、夫が失踪し、妻が再婚する、そこへ前夫が帰還するという筋立てには、先行例が存在する。例えば、井原西鶴作と伝える『万(よろず)の文反故(ふみほうご)』(元禄9年-1696-刊)には、京都から奥州路へ商売に出かけた夫が洪水によって死んだと聞き、百か日後に夫の弟を婿に迎えたところ、その数日後に前夫が生還するという話がある。また、同じ西鶴の『懐硯(ふところすずり)』(貞享4年-1687-成立)にも、夫失踪1年後に妻が別の男を婿としたが、婚礼の翌日に前夫が帰還するという同型の類話を載せている。 ついでにこの二つの話の結末を言うと、前者では妻を同じくした兄弟は、ともに高野・熊野へ参詣に赴く山中で討ち死にし、妻も行方をくらましてしまう。後者はもっと悲惨で、前夫は、新夫と以前から犬猿の仲だったため、妻とともに新夫を刺殺し、自刃して果ててしまうのである。 ひょっとすると、この医師は、以上のような筋書きをどこかで仕入れており、それに神隠しを組み合わせて創作したのかもしれない。

(G)

(33) 根岸鎮衛『耳嚢(みみぶくろ)』(2)  2012/03/13

思わず耳を欹(そばだ)てるような興味深い噂話ばかりを、公務の隙を縫うようにして10巻も手録した根岸鎮衛とはどんな人物であったのか。

『耳嚢』には、志賀理斎による「耳嚢副言(みみぶくろそえごと)」「追加」、さらに吉見儀助「耳のあか」が附されている。志賀理斎は記録読み(史料等の講義・講釈をする者)として月に5・6回も根岸家を訪れ、親交が深かった。また、吉見は勘定組頭として奉行根岸に接した者である。いずれも生前の根岸をよく知っており、その人となりがよく知られる逸話を語ったものだ。根岸自身は「他人に見すべき事は堅く禁じぬれば」と序に記すとおり、門外不出のまま没したが、人物評まで添えられているところを見ると、誰かが出版の計画を立てていたのかもしれない。

今、志賀と吉見の逸話に基づき、根岸の人物像を紹介しよう。 根岸鎮衛は、もと安生(あんじょう)姓で、元文2年-1737-生まれ。22歳の時に根岸家の養子となって遺跡を継いだ。御家人とはいえ、わずか150俵の微禄に過ぎない。御勘定を振り出しに、5年後には幕府評定所留役、明和5年-1768-御勘定組頭、安永5年-1776-同吟味役、天明4年-1784-佐渡奉行、同7年御勘定奉行(ここで5百石に加増)、同年肥前守叙任、寛政10年-1798-町奉行となり、文化12年-1815-まで在任した。この年6月に俸禄1000石に至ったが、半年後に没している。

僅々150俵から1000石まで異数の出世をしたものだから、親類・縁者やゆかりの者どもが引き立ててくれるよう、しきりに頼みに来た。根岸は「心得たり」と返事をするだけで、一向に推挙しない。「自分は天恵によって意想外の身の上となった。どうしてそれが親類・縁者まで及ぶものか。彼らも奉公に精勤すれば、おのずとチャンスは巡ってくるはずだ。俺の知ったことではない。」と言って、情実人事は決して行わなかった。 人事の下手な某国の首相と違って、必ず適材を得たのも、偏頗の私情を排したからだと吉見は言う。根岸は、常に周囲に響くような大声で話し、ひそひそ話を好まない。「小声で話すのは慎みがあるように見えるが、そうではない。下劣な話題だからか、人を害して自分を利する悪事を企んでいるからか、多くは他聞を憚るからそうするのだ。」という無私の姿勢を貫いていたからである。ただ、晩年には老齢から耳が遠くなり、さらに大声になった由。 その性、豪放にして磊落、蓬頭垢衣とまで言わないが、辺幅を飾らない、およそ奉行らしくない奉行だったようだ。

ある冬の朝、出勤の折に頭巾の用意がない。そこで妻女のお高祖(こそ)頭巾を頭に巻き、そのまま出仕した。また役人同士連れだって登城した時、下乗(げじょう)橋の辺りで大きな鼻クソを掘り出し、橋の欄干に乗る擬宝珠(ぎぼし)にすりつけて通った。自家が火事になった時も、便所に入っていて、家が焼けるのもかまわず用を足してから悠然と出て来たという。火事はいくらなんでも些事だとはいえないが、小事に拘泥しないこうした行動を、志賀は「傍若無人」と目を細めながら評している。 無論、町奉行としても有能であった。

ある年、津波によって流された大船が永代橋を破損した。橋守から船主へ損害賠償の訴訟が起こされた時、天災では仕方がなかろうと根岸が諭したものの、橋守は承知しない。しつこく訴え出るため、「それでは、船主から橋の修復費用を出させよう。だが、船が破損したのは橋があったからで、船の修復には橋主から出さねばなるまい。」と裁断した。ところが、船の修繕費用のほうがはるかに上回るので、橋守から示談を申し入れたという。

奉行は、刑事・民事のあらゆる事件を裁かなければならない。町役の長を勤める者に挟み箱を持たせてもらいたいという訴えが名主らから出されたことがある。挟み箱は、衣服などを入れて従者に運ばせる蓋つきの箱であるが、官職を有する武士、大名、御殿医など、限られた階級に許されたステータスシンボルである。複雑な格式に従う必要がある上、名主・大屋と誰が見ても分かるようなヘアスタイルに変えねばならない。それを承知で持ちたいというなら許可しよう。ここは熟慮したほうがよい、と才弁を揮って申し渡したところ、名主らは驚いて取り下げたという。ここで普通の奉行なら、「町人の分際で不届きだ」と大喝するところだ。根岸は、こんな些細なことで咎めだてはしない。襟度の広さが違う。別件のところで、板倉伊賀守の面影が偲ばれると志賀は称えている。 他人の著書に附した人物紹介に不面目なことは書かない。だが、吉見は以下のような逸話を落しはしなかった。

日本橋附近の川を浚い上げる普請(=土木工事)が行なわれた時、人夫として町火消人足が当てられた。そこで、人足の頭である老人夫を白洲へ呼び出すと、日頃の精勤を誉め上げてから、仕事を一任する旨申し伝える。こう言っておけば、懸命に励み、速やかに落成するだろうと踏んだわけである。老人夫は感涙を流して退出した。ところが、大雨が続き、大水が出てしまう。かの老人夫は責任感から持ち場を離れず、誤って溺死した。驚いた根岸は、遺族に鄭重な弔慰金を与え、「奉行たる者、一言を発するにも慎まねばならん。自分が過重な責任感を負わせたせいで、命を失わせてしまった。」とひどく後悔したという。

こんな一面を残してくれたから、墓碑に刻まれた事蹟とは違う、真実の人物像が髣髴するのである。

(G)

(32) 根岸鎮衛『耳嚢(みみぶくろ)』(1)  2012/02/25

老人が餅を喉に詰めて死んだという記事が年初の三面を飾らない年はない。もしそんな場面に遭遇したら、どうすればよいか。根岸鎮衛(ねぎしやすもり)『耳嚢』(天明2年-1782-~文化11年-1814-)に対処法を教えてもらおう。小児が餅を喉に詰めた場合を紹介しているが、老人でも同じことだ。以下、長谷川強校注『耳嚢 上・中・下』(岩波文庫)から拾って示そう。

それは、鶏のとさかの血を取って飲ませるとよい。そうすれば、胃に収まるか吐き出すかする。根岸の同僚が自分の子の難儀をこの方法で逃れたという。〈巻之四〉

ほんとかね、と首を傾げたくなる。いや、そういえば、醤油を飲ませる方法を昔田舎で聞いたことを思い出した。醤油ならどの家庭にもあろうが、今時、鶏のとさかを手に入れようとしたら、容易なことではない。直ちに救急車を呼ぶことをお勧めする。

根岸は勘定奉行や南町奉行を勤めたから、一日中坐っていることが多い。そのためか、痔疾に悩んだようで、雑談の中で仲間の言う怪しげな呪(まじな)いにさえ耳を傾けている。

胡瓜を月の数だけ用意する。裏の白い紙に姓名と花押を記し、河童大明神を宛名とした書状を添えて川へ流す。さすれば快気を得る。〈巻之四〉

聞いた根岸は、重職にある者が安易に姓名を記すのはまずかろうと一笑に付したが、痔の病に耐えきれず寺に香花を備えて平癒祈願した者、吉原の妓女が用いた薬草、独自の妙薬によって痔疾の療治を行なう老婆の話などに並々ならぬ関心を寄せているから、相当に苦しんだらしい。

『耳嚢』所載の話は雑多で多岐に亙る。このエッセイでも以前に紹介した大岡越前の逸話もあれば、怪談や艶笑譚、ほろりとさせる人情話もある。狐や狸などが人を化かすばかりでなく報恩する話、下級人民の意外な教養に驚く話など、10巻1000項目にも及ぶ。いずれも直接間接に耳にした話を書き留めたもので、どれを読んでも面白い。上記に続いて、呪いに関わる眉唾ものの情報をいくつか紹介しよう。

虫歯の痛みに悩む方には、次の処方が朗報だ。

韮の実(種のことか?)を焼いた煙を管に通し、痛みのある箇所をいぶす。また、瓦を焼いて銅の椀へ入れ、韮の実を置いて湯をかけると、煙が立つ。その煙で耳を蒸すと、耳から白い物が出て来る。それが虫歯の元になる虫だ。〈巻之二〉

おいおい、人を担ぐのも大概にしてくれ。歯はいいから鼻へ行こう。突然垂れてきた鼻血に困ることは誰だってあるから、きっと役に立つ方法が示されているかもしれない。

青鵐(あおじ、アトリ科の鳥)の腹を裂いて、人参を一匁(もんめ)入れて黒焼きにした物を呑むか鼻の穴に付ける。〈巻之五〉

えっ、「あおじ」って何ですか? たとえネットで注文しても届くのは明日以降だろうしなあ。なになに、もしくは、鼻血の滴り落ちた所へこの黒焼きを振りかければたちどころに止まるって? アオジが手に入らなければどうしようもないじゃないか。 だが、さすがは情報通の根岸先生、もう少しましな方法を紹介してくれている。

鼻血が左から出たら、自分の左の睾丸を握り、右なら右を握る。両方なら両方を握ればよい。〈巻之四〉

なるほど、これなら面倒な準備はいらない。だが、女性の場合はどうするか。心配ご無用。乳房を握って呪えば妙なる効果あり。ただし、人前で堂々と披露しにくいのが難点だ。

(G)

(31) 本居宣長(2) 2012/02/02

「蛍雪の功」を出したついでに、宣長が槍玉に挙げた、『蒙求』にある「丙吉牛喘(へいきつぎゅうせん)」の話を紹介しよう。

ある春の日に外出した宰相丙吉は、天子が通る道で喧嘩をして死傷者まで出ている情況を見ても、そこを通り過ぎる。続いて、まだ夏でもないのに牛が舌を出して喘ぐ姿を目撃すると、牛の持ち主に牛の様子を詳しく尋ねた。丙吉の行動について部下がその理由を問うと、丙吉は「喧嘩や殺傷事件は長安令や京兆尹の職務である。丞相(=宰相)としては彼らの仕事を評価すればよい。喧嘩のような小事は直接関与することではない。だから無視した。今は春で、さほど暑いはずはないのに牛が喘いでいるのは、陰陽の調和が崩れたためで、異常が起こる徴候だ。陰陽を調和するのが自分の任務であるから、このことについて質問したのだ。」と答えた。部下は彼の答えに畏まって感服したという。

牛が喘いでいるところを宰相丙吉が見かけるところから引用した宣長は、「こはいとをこがましきこと也」と断じた。暑い時分でなくとも、事情によって牛が喘ぐことだってあるだろう。それほど陰陽の調和を言うのなら、常時心にかけていなければならないはずだ。たまたま道すがらこの牛の有様を見て覚ったというのは、いかにもおかしい。もしこの牛の喘ぐ姿を見なかったなら、知らないままだったとでも言うのか、と詰め寄り、「されば、こは、まことに思ひて言へるにはあらで、人にいみじきことに思はせむとての、作り事にこそありけれ。」と斬り込む。そして、すぐさま返す刀で「もしまことにしか心得たらんには、いふかひなき痴(し)れ者なるを、よにいみじきことに記(しる)し伝へたるも、いとをこなり。」と、吐き捨てるように伝記者まで斬り捨ててしまった(八の巻「もろこしの国に丙吉といひし人の事」)。

このように、中国の故事に好んで取り上げられる孝行・勧学・廉直・倹素・廉潔・敏智・果断などを説いた道徳的な訓戒を宣長はまるっきり信用しない。むしろ、ことあるごとにむきになってそれを批判して止まるところを知らないほどだ。果てには「すべて漢国(からくに)などは、よろづの事、実(まこと)はあしきがゆゑに、それをおほひ隠さむとてこそ、さまざまに飾り作るにはありけれ。」(四の巻「世の人かざりにはからるるたとひ」)とまで言い、現在なら国際問題にまで発展しそうな危険な言論を発していた。 さらに宣長の言うところを見よう。上に紹介した丙吉に続いて、『史記』「魯周公世家」にある周公旦の逸話が挙げられている。

周公旦という聖人が、魯国へ赴く子を戒めるのに、「我一タビ沐スルニ三タビ髪ヲ握リ、一タビ飯(めし)クフニ三タビ哺(ほ)ヲ吐(はき)テ、起(たち)テ以テ七ヲ待ツ、猶(なほ)天下ノ賢人ヲ失ハムコトヲ恐ル」(宣長の訓読による)と言った。天下の士が訪れた時には、シャンプーをしている手を三度中断し、一度の食事中に三度飯を吐き出して迎えた。礼を失して天下の賢人を得る機会を逃したくないからだ。お前も魯国に行ったならば、決して驕り高ぶらず、礼を重んぜよと諭したのだった。

これに対しても、「もしまことに然したりけむには、これも世の人にいみじきことに思はせむための、はかりこと也。」(八の巻「周公旦がくひたる飯を吐出して賢人に逢ひたりといへる事」)と宣長は決めつけ、いかに賢人を求めているからといって、口に入れた飯を呑み込む間を待てないはずはない。出迎えに歩きながらでも飲み下すことは簡単だ。それをことさら吐き出して人に見せるとは、とんでもない、と言うのだが、ここまでくると、漢文を習いたての生意気な学生が、未熟な論理を振り回して、些細な難点を鬼の首でも取ったかのように言いふらす稚気さえ感じられよう。宣長が最初に学んだのは儒学である。およそ漢籍に疎いはずはなく、現在の学者だって及びもつかないほどの素養と読解力とを具えていたことは間違いない。

だが、本人はいたって本気なのである。宣長は、このような「漢意(からごころ)」と称する中国思想を批判したばかりではない。仏教思想にまでその矛先は及ぶ。例えば、兼好法師『徒然草』さえも、その例外となることはなかった。

「花は盛りに、月は隈(くま)なきをのみ見るものかは。」(徒然草・137段)という禁欲的な美学を「人の心に逆(さか)ひたる、後の世のさかしら心の、つくり風流(みやび)にして、まことのみやびごころにはあらず。」と指摘する。また、「長くとも、四十(よそぢ)に足らぬ程にて死なんこそ、めやすかるべけれ。」(同・七)を引いて、仏教に諂(へつら)う考えで、言葉ではそう言っても、心の中で誰がそう思うか、と口を尖らしている。

要するに、中国思想も仏教思想も不自然だというのだ。世にある人々は、恋人に逢えぬことを嘆き、心にかなわぬことを悲しみ憂える。早く死ぬことを願わず、命を惜しまない者はない。先生と仰がれる知識人、上人と敬われる法師などが、月や花は賞翫しても、いい女を見て目もくれないで通り過ぎるなんてことが本心から行なわれているとは思えない。このような自然に生まれる心情に逆らって抑圧することは、外国の習慣に迎合したへそ曲りのやることで、虚飾としか言いようがないのだと主張した。これが宣長の思想の根本にあったのである。

(G)

(30) 本居宣長(1) 2012/01/25

3月は卒業式のシーズンだ。式歌として必ずといってよいほど歌われる「蛍の光」の原曲がスコットランド民謡“Auld Lang Syne”であることは、よく知られている。この旧友との再会を喜ぶ歌に稲垣千頴(いながきちかい)が詞を付けたものが、明治14年-1881-『小学唱歌集初編』に「蛍」というタイトルで掲載された。当初は式歌というわけでなく、「おぼろ月夜」「春の小川」「冬景色」などと同列の唱歌であった。

現在は1・2番までしか歌われない。その理由は、3・4番の歌詞を読めば直ちに了解されよう。3番は「筑紫の極み、陸(みち)の奥、海山遠く、隔つとも、その真心は、隔て無く、一つに尽くせ、国の為。」であるから、国のために粉骨砕身する臣民の意気を感じていると、4番に至り、「千島の奥も、沖縄も、八洲(やしま)の内の、護(まも)りなり、至らん国に、勲(いさを)しく、努めよ我が背(せ)、恙無(つつがな)く。」と来て、おやおや、万葉時代に防人(さきもり)として辺境の地へ赴いた夫に擬して、出征する夫を送り出す妻の歌だったかとようやく知られる。

「われは海の子」(明治43年-1910-)も、7番「いで大船を乗(のり)出して 我は拾はん海の富。いで軍艦に乗(のり)組みて 我は護(まも)らん海の国。」という軍国調の歌詞により、すべてが歌われることはほとんどない。

「蛍の光」に話を戻そう。この詞が以下の故事「蛍雪の功」に拠ったことは、これまた誰もが知るところであろう。

中国晋代(265~419年)の車胤(しゃいん)は貧しくて灯火の油が買えなかったため、夏は蛍を集めて薄い練り絹の袋に入れ、その光で読書した(『晋書(しんじょ)』車胤伝)。また、同時代の学者孫康(そんこう)は、冬に窓から入る雪明かりを頼りに文字を追った(『初学記』二に引く『宋斉語(そうせいご)』)という。

勤倹力行や刻苦精励を美徳として讃える明治期の小学読本や唱歌に好んで繰り返し用いられた故事である。佐々木信綱の詞による「夏は来(き)ぬ」(明治29年-1896-)にも、3番に「橘の薫(かを)る軒端(のきば)の 窓近く 蛍飛び交(か)ひ おこたり諌(いさ)むる 夏は来ぬ」とあるとおり、蛍は、怠け者を叱咤してくれる存在でもあった。

このいかにも道徳臭芬々たる話に対して、江戸時代の国学者、本居宣長(1730~1801)は、中国人の名誉欲に駆られた作り話であるとしている。寛政5年-1793-に起稿し、没するまで書き続けた学術的随筆『玉勝間(たまがつま)』(寛政7年-1795-~文化9年-1812-刊)によって、その理由を原文のまま示そう(適宜漢字を宛て、漢字を仮名にした)。

その故は、もし油をえ得ずは、夜々(よるよる)は、近隣りなどの家にものして、そのともし火の光を乞ひ借りても、書は読むべし。たとひその明かり心に任せず、はつはつなりとも、雪蛍には、こよなくまさりたるべし。また、年のうちに、雪蛍のあるは、しばしの程なるに、それがなき程は、夜は書読までありけるにや、いとをかし。〈十二の巻「雪蛍をあつめて書よみけるもろこしのふること」〉

いくら貧乏で油が買えないからといって、蛍を集めたり、雪に反射する月明かりに頼ったりして読書したなど、とうてい信じられない。本当に書を読みたいのなら、近所の灯火を借りることもできる。第一、蛍や雪のない季節には、夜に読書をしなかったというのか、と宣長は嘲笑している。

「蛍雪の功」は、唐代の類書(多くの書物から抜粋し、利用しやすいように分類編集したもの)『蒙求(もうぎゅう)』に「孫康映雪(そんこうえいせつ)」「車胤聚蛍(しゃいんしゅうけい)」という四字句にまとめられ、幼童用の教科書として用いられたことも相俟って、人口に膾炙するに至った。平安時代にはすでに日本へ伝わっている。

どうせ教条主義の押し付けだから、荒唐無稽で大袈裟なことを言うのは仕方がない、などという寛容な態度を宣長は決して許さない。真正面から受け止め、現実的で常識的な思考によってその嘘を暴こうとする。そして、その思想そのものを排除しようと努めるのである。

(G)

(29) 新井白石(2) 2012/01/13

遠江の国篠原の浦に、紀伊の国船津村の船が難破した。近隣の者どもが集まって船を打ち壊し、積荷を掠め取っていく。生き残った船頭が脇差を抜いて、盗人の一人を傷つけた。

この事件について、評定所の議論では、積荷を盗んだ者はあまりに多いため、いちいち捕えて罪に問うわけにいかない。しかし、船頭の方は、実際には盗まれていない金を奪われたと偽りを訴えている。これは首を刎ねるべきだと言うのであった。

諮問を受けた白石はこう具申する。

いくら数が多くても、盗みを働いた者を許すわけにはいかない。判例に従って首謀者は死罪に処し、その時盗みに加担した者の住む浦には、家ごとに罰金を課す。その金をもって被害に遭った船頭への補償とすればよい。船頭が金を盗まれたと主張したのは、積荷の行方は捜索してはくれないだろうが、金なら放ってはおかれまいと判断したからであろう。下賤の者がこのように思量することを深く咎める必要はない。第一、物を盗んだ方と盗まれた方と、どちらに罪があるというのだ。

白石の起草したこの建議書は、将軍家宣死去の後採用されている。

また、越後の国村上領、85村の百姓4116人が訴訟に及んだことがあった。その前年、松平右京太夫輝貞が村上の城を賜った時、三嶋・蒲原等の郡4万石を擁する在所の百姓らが、それまで私領として分離されていた村上をも御料(=幕府の所領)に組み入れてもらいたいという旨を訴えたのである。それが聞き入れられないと見るや、代官の命令にも従わず、年貢も納めないばかりか、それを売り払ってしまったという風聞まで加わっていた。

今この事件の詳細な経緯は省略する。『折たく柴の記』(中)によって、この事件に白石がどう対処したのかを紹介するに止めよう。

勘定奉行から回ってきた文書には、死罪、追放、禁獄、田畑・屋敷の没収等を含む厳罰をもって臨むつもりであることを記した代官所の注進状が添えてあった。そのなかには、年貢米を売り払ってしまったという風聞を真に受けた記述さえあったため、白石は、翌日直ちに封書を献じている。その概要は以下のとおり。

そもそも天下無告の人民は、奉行所以外のどこへ訴えればいいというのか。それなのに、最初の下知に従わないからといって、しかも風聞の説にまで躍らされ、反逆罪を適用するとは、人民の父母たる幕府役人のすべきことではない。もし、本当に謀反の意思があるのなら、年貢米を売って兵糧まで失うような真似はすまい。百姓は、村上の領主に帰属したいと願っているだけだ。お上に背こうというのでなく、堪えられない事情があるから訴えているのであろうから、むしろ、その事情にこそ耳を傾けるべきである。

こうして、温柔な役人による取調べが行われると、果たして大庄屋・小庄屋の不法が告発されるに至った。一昨年、代官が80日間滞在した折、その用度費用として950両もの大金を村民に負担させたことを始め、およそ申し開きのできない積年の悪事が次々に露見したのである。結果、百姓らの訴えが受け入れられたことは言うまでもない。

当時、死罪を適用せねばならない重大犯罪は、奉行所だけで裁許することはできず、必ず老中の判断を仰ぐことになっていた。白石のもとには、こうした難事件がいくつも寄せられたことであろう。自伝中に取り上げられたものを見ただけでも、人民の不利益にならない処断が必要だと繰り返し主張する白石の公正な姿勢が十分に伝わってくる。白石の事蹟の一つとして挙げた公正な裁判とは、これらの事例を指す。一般に、8代将軍吉宗の代に「公事方御定書(くじがたおさだめがき)」が制定され、公平な裁判が行われるようになったとされる。だが、それは白石が先鞭をつけたものだった。圭角鋭い白石に圧倒された老中も、この功は捨て置けず、次代へ引き継ぐとともに、制度上の整備に資してくれたのかもしれない。もし白石が奉行職にあったとすれば、確実に名奉行の声名をほしいままにしていただろう。だが、ついに白石が人民からの称賛を浴びることはなかった。

一方の大岡越前守忠相は、将軍吉宗の信任厚く、江戸町奉行を20年余に亙って勤め上げた能吏である。行政官僚として抜群の才を発揮したことは確かだが、裁判官としての業績はほとんど残っていない。博文館版『大岡政談』の解説(尾佐竹猛(おさだけたけき)執筆)によれば、大岡の裁いた事件は、「白子屋阿熊(しらこやおくま)」一件だけだという。大岡政談随一と喧伝される「天一坊」でさえ、関東郡代伊奈半左衛門の手で審理された案件に基づいた創作であった。

幾多の名裁判がすべて大岡へ吸収され、講談を通じて人口に膾炙したのに対して、白石の政談は自伝による他はない。『折たく柴の記』は、江戸時代を通じて写本で伝えられるばかりで、一部の具眼の士しか目にしなかった。それが、明治14年以降に刊本が出版されてから、ようやく自叙伝文学の白眉として『福翁自伝』と並称されるに至るのである。

(G)

(28) 冬来りなば春遠からじ 2011/01/06

冬ながら 空より花の 散りくるは 雲のあなたは 春にやあるらむ(『古今和歌集』冬歌・清原深養父)[冬でありながら空から花が降ってくる。雲の向こうは、春なのではないだろうか。]

この歌は、詞書に「雪の降りけるをよみける(雪が降っているのを見て詠んだ歌)」とあり、雪を花に見立てた歌です。現実には寒い冬なのですが、雪の花が降ってくる空を眺め、雲の上は春なのではないかと想像しているのです。とても美しい歌ですね。

雪を花に見立てた歌は古来よりあります。

わが屋前(やど)の 冬木の上に 降る雪を 梅の花かと うち見つるかも(『万葉集』巻8・巨勢宿奈麻呂)

その反対に、花を雪に見立てる歌も多く詠まれて来ました。

わが園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも(『万葉集』巻5・大伴旅人)

さて、冒頭の清原深養父の歌ですが、歌の解釈からは少々飛躍しますが、冬であっても、空の彼方では着々と次の季節、春の準備をしているのだ、と想像が膨らみます。

絵本『葉っぱのフレディ―いのちの旅―』(レオ・バスカーリア作、みらいなな訳、童話社)からも、同じようなことを教えられます。葉っぱのフレディは死を恐れ、いずれ死んでしまう自分の一生にはどういう意味があるのか、と思います。親友のダニエルがいなくなった次の朝、とうとうフレディも木から離れ、雪の上に舞い落ちます。その時、初めて木の全体の姿を知ったのでした。絵本には、「フレディは知らなかったのですが…」とあり、

冬が終わると春が来て 雪はとけ水になり 枯れ葉のフレディは その水にまじり 土に溶けこんで 木を育てる力になるのです。”いのち”は土や根や木の中の 目にみえないところで 新しい葉っぱを生み出そうと 準備をしています。大自然の設計図は 寸分の狂いもなく”いのち”を変化させつづけているのです。

「今を生きよ」「一瞬一瞬を大切に」という言葉をよく耳にしますが、深養父の歌やフレディから、今、目の前のことに一生懸命取り組むこと、そして折々に合った過ごし方をすることは、(自分が理解していなくても)ちゃんと次の準備をしているということ、自分の養分になったり何かの役に立ったりしているのだ、ということを教えられました。

「冬来りなば 春遠からじ」――これはイギリスの詩人シェリーの『西風に寄する歌』の一節「If winter comes, can spring be far behind ?」に由来するとか。

先人の言葉(文学)から学ぶことは本当にたくさんあります。今年も本との素敵な出会いがありますように。

(し)

(27) 『うつほ物語』の正月 2011/12/29

ある年の正月、朱雀帝の妃、仁寿殿の女御が、娘婿の仲忠に対して詠んだ歌があります。

今日のごと わが思ふ人と まとゐして いく世の春を ともに待ち出でむ[新編日本古典文学全集②578頁]

「まとゐ」は団らんの意です。今日のように、私が大切に思っている人と団らんし、末永く春を一緒に迎えたいものです、と仁寿殿の女御は願っています。平安貴族もお正月には一族が集い、新年の挨拶をしました。

毎年、お正月には大切に思っている人と会い、一緒に春を迎えたい、という気持ち。時代や身分が異なっても、そして『うつほ物語』が架空の物語であるということも飛び越えて、家族を思う気持ちに、皆さんも共感されることでしょう。

「誰とどこでどのような時間を過ごしてゆくか」、「自分が何をしてゆくか、どんなことに多く時間を使ってゆくか」ということを、しみじみと考えた一年でした。

大切な人が誰もいない、というあなた。諦めないで、身近な人と根気よく人間関係を築いていきませんか。いつか、きっと見つかりますよ。

今年もあとわずかとなりました。来年が穏やかで幸せな年でありますように。

(し)

(26) 新井白石(1)―2 (25)の続き 2011/12/24

さて、新井白石は大儒(=儒学の大学者)として名高い。正徳の治それ自体、儒教の根本思想である「仁」を施すことを目的としていた。だが、忠だの孝だのと頭ごなしに説教する教条主義者とは違う。現実に起こる複雑な事態と儒教倫理とに白石がどのように折り合いをつけたのか、その一例を自伝『折たく柴の記』(下)によって見よう。

信濃の国松城(=現松代)出身の男が江戸で商いをしていた。そこへ妻の兄がやってきて兄と妻の郷里である河越(=現川越)へと連れ出す。しばらくして、再び兄が訪れ、男は故郷へ商売に行ったから、その間実家で待つようにと言い、妹である妻を伴って帰る。

何日待っても帰ってこない夫の身を案じていると、付近を流れる川に死体が浮いたと聞く。妻は何とかして死者の身元を確かめたいと思い、父や兄に相談するが全く耳を貸さない。翌日名主に頼み込み、死体を引き上げて確認すると、果たしてわが夫であった。

役人が捜査に乗り出し、父と兄に事情を聴取すると、返答に疑わしい点がある。そのため直ちに家宅捜索を行い、婿の衣類等の証拠品を発見する。父と兄は言い逃れができず、二人で婿を殺害し、川へ沈めたことを白状した。

さて、ここで刑罰を蒙る者はだれだろうか。婿を殺害した父と兄だということは言うまでもなかろう。実は、それだけではない。この時代には、父の犯した罪を子が告発した場合、その子は獄舎に繋がれるのは当然として、時には死罪に処せられることもあったのである。父母に孝を尽くす儒教倫理にもとるというわけだ。だが、娘が父の殺人を告発したこの事件は、過去の判例が存在しなかったらしい。裁可を求められた老中からの建議書には、論語や刑法典などを根拠として、「父の悪を訴へしはその罪死に当れり」とまで断じていたという。

これに対して、白石は直ちに反論した。

主君と父と夫は、いずれも敬い仕えるのに差はない。女子が嫁した後は、父のため喪に服する期間が異なる。嫁した後は夫に従うのが道理だからだ。父と夫の両方を天として仰ぐことはできない。だから、自分の父が夫を殺したことを告発したからといって、不忠や不孝とはならないはずだ。まして、この娘の場合、死体の身元を確認したところ夫と分かり、役人の捜査によって父と兄の犯行と判明したのである。初めから父と兄との犯行を知っていて告発したのではない。従って、この娘が罪に問われる理由はない。

だいたい以上のような判定について、条理を尽くして詳述している。概要でも文庫本3ページ余りに亙るのだから、実際はもっと長い文書であったろう。

もちろんこれが石頭連中にすんなり通るはずはない。禁獄(=禁錮)一年の後、奴婢の身分に落とす、父兄の犯罪を知って訴えたなら死罪、知らなかったら奴(=やっこ、女性だけに適用された刑罰で、本籍を除き希望者に奴婢として下げ渡す)とする、などの断案が評定所から上程された。

そこで白石は、父や夫を失って生活の手立てをなくした者が僧や尼となることは、しばしば見られるところだから、この娘を尼寺へ送って受戒させ、父と夫の財産をその寺に寄進することで飢渇を防ぐのがよい。そうすれば、律法を損なうこともなく、あたら節婦を失わないで済むと再度建言したところ、その通りに執行された。この娘は、自ら尼になることを願い出て鎌倉の尼寺へ赴いたという。実に明晰で柔軟な頭脳だというほかない。

(G)

(25) 新井白石(1)―1 2011/12/19

大岡越前守忠相と正徳の治を断行した儒学者新井白石とは、生きた時代がやや前後するものの、ある面では連続すると言ってよい。白石辞任の後、大岡が大活躍するのである。両者の立場や職務が異なるのに、連続するとはどういうことかについては後述することにして、まず、新井白石の略歴を紹介しよう。

白石は、大岡に先んずる29年前(明暦3年―1657-)に生れている。2度の浪人を経て仕えた甲府藩主徳川綱豊が6代将軍(「家宣」と改名)に就任したため、幕政を補佐するに至った。ただし、侍講(=将軍の教育係)という立場上、政策に容喙(ようかい)するわけにいかない。そこで、甲府藩時代の同僚間部詮房(まなべあきふさ)が御側衆(=おそばしゅう、将軍に侍し、老中の代役を勤める旗本)として家宣に近侍したため、それを媒介として、様々な政治改革を行った。

だが、老中などの幕閣からは煙たがられていたようである。歯に衣着せぬ直言を始め、根回しをせずに自身の建言を通そうとする直截的な方法が災いし、「鬼」と恐れられた。要するに瞬間湯沸器である。そもそも、政治的権威が将軍家宣のみに依拠していたから、門閥を中心とする守旧派の抵抗は頑強だった。

それでも、金銀貨幣の改鋳、大赦による罪人の釈放、悪名高い「生類憐れみの令」の廃止、贈収賄によって腐敗した政治の改革、公正な裁判などによって、短期間に一定の成果を上げている。

ところが、夭折した7代将軍家継の後を8代将軍吉宗が襲うや、白石の事蹟はほとんど覆されてしまう。そして、失意のまま身を引いた晩年は、幕府から与えられた江戸の辺境に隠棲しながら、『西洋紀聞』や『折たく柴の記』など多数の著作の執筆に専念した。

一方、大岡忠相の活躍するのは家継の時代以降である。享保元年(1716)普請奉行、翌年直ちに江戸町奉行へと昇格した。吉宗が将軍職に就いたのは、享保元年8月のことで、白石や詮房はこの時解任されている。【続く】

(G)

(24) 『うつほ物語』と樹下人物図②―樹下美人図―  2011/12/12

日本史の授業で習うと思いますが、正倉院の「鳥毛立女屏風(とりげりつじょのびょうぶ)」(8世紀・日本製)には、樹の下に、唐風の豊満な女性が立っている姿が描かれています。(屏風は6扇あり、屏風1扇につき、樹下に立っている女性と樹下の石に座っている女性がそれぞれ描かれています。)

以前、(17)でお話しした「樹下人物図」と言えますが、樹の下に女性が配置されていることから、「樹下美人図」と呼ばれています。樹下美人図のルーツは、イランやインドにあるそうです。日本には、シルクロードを通って、主に中国からもたらされました。

この図柄を、言葉(短歌)で表現したのが大伴家持(おおとものやかもち)です。

春の苑 紅(くれなゐ)にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つ少女(をとめ)[『万葉集』巻19・4139]

この歌は、天平勝宝2年(750)に、越中国(今の富山県)で詠まれたものですが、実際に越中の女性を詠んだというよりは、樹下美人図の歌化であるとされています。春の夕暮れ、広大な庭園の桃の樹の下に立つ少女。空も桃の花も女性の頬も桃色に染まっていて、とても美しい光景が目に浮かびますね。

さて、鳥毛立女屏風のような樹下美人図は、平安時代に見かけることはほとんどないと言ってよいでしょう。平安貴族女性が立つ姿は、品がないとされていました。「いざり歩き」がよしとされたのです。

奈良絵本(室町後期~江戸時代中期の挿絵入り彩色写本)などの『うつほ物語』で、俊蔭の娘が立っている絵はほとんどありません。京都の北山で、俊蔭の娘が杉の大木のうつほ(空洞)に住んでいた場面も、十二単を着て坐し、琴を弾いている姿で描かれています。『うつほ物語』を絵にしたもので、女性が立っているものは、天女と子どもと身分の低い女性、それに親しい間柄の男女です。

座って琴を弾く図柄は「樹下弾琴図」ですから、樹の下に人物を配置する点では、「樹下美人図」と同じです。でも、中国やインド、ペルシャで多く描かれた、樹の下に立つ女性の姿は、平安時代、貴族女性にとって、日常でそのようなシチュエーションもなく、どうやら平安貴族女性には馴染まなかったようです。

※「鳥毛立女屏風」は、宮内庁の正倉院のHPで見ることができます(「正倉院宝物検索」でお探しください)。奈良絵本の『うつほ物語』は、京都大学電子図書館(京都大学附属図書館蔵「奈良絵本 宇津保物語」 一般貴重書・86855・04-30/ウ/01貴)で見ることができます。ぜひ、ご覧ください。

(し)

(23) 『うつほ物語』と交易  2011/12/3

(21)で青磁についてお話ししましたが、青磁のように海外からもたらされたものを「唐物(からもの)」と呼んでいます。  『うつほ物語』には唐物がたくさん登場しますが、それらの唐物は交易によって得られたものです。『うつほ物語』に描かれている、宮中の蔵人所(=校書殿の西廂にあり、図書・器物・銭貨・衣服などを納める倉がある所)の唐物を見てみましょう。

蔵人所にも、すべて唐土の人の来ることに、唐物の交易したまひて、上り来るごとには、綾、錦、になくめづらしき物は、この唐櫃に選り入れ、香もすぐれたるは、これに選り入れつつ、[内侍のかみ巻・新全集②274頁]

かの蔵人所の十掛には、綾、錦、花文綾、いろいろの香は色を尽くして、麝香、沈、丁子、麝香も沈も、唐人の度ごとに選り置かせたまへる、[内侍のかみ巻・新全集②275頁]

唐の使節が来るごとに唐物の交易をしていたとあり、来朝のたびごとに唐綾、唐錦、花文綾(=唐花文様を織り出した綾)、麝香、沈香、丁子香など、珍しい品々が献上されたそうです。それらの唐物が、蔵人所の唐櫃(=4本または6本の脚のある、大形の木箱。ふたがついていて、衣服・調度品などを収めた。)にたくさんあったことが分かります。

唐物は、朝廷にのみ蓄えられたのではありません。役人(貴族)は、私用としても、唐物を求めました。(21)の繰り返しになりますが、滋野真菅が使用していた「秘色の杯」は、彼が太宰大弐であった頃、交易で得たものと解釈されています。

中でも注目されるのが、故式部卿宮の娘である中の君が、必要な物を唐の交易船の商人から入手していたことです。

唐人の来たる頃にて、用ずるものせむとしければ、かかるものどもあれば、ありしやうに入れて持たまへり。(唐の商人がやってきた頃で、必要な物を買いたいと思っていたが、兼雅から数々の食料や衣料が贈られてきたので、兼雅が以前贈った金は使わずにそのままとっておかれた、という意)[蔵開下巻・新全集②571頁]

疎遠になっていた藤原兼雅が、中の君の困窮ぶりを見て、生活用品を贈ったことから、唐の商人から必要な物を買う必要がなくなったという場面です。それにしても、中の君は高級志向ですね。必要な物なら国産品で間に合いそうなものなのに、唐の商人から何を買っていたのでしょうか?

物語では、交易で唐物を入手することが宮家や貴族の日常生活に普通に出てきます。舶来品(唐物)への憧れは、『うつほ物語』でも例外ではありません。

【お知らせ】河添房江・皆川雅樹編『アジア遊学 唐物と東アジア』(勉誠出版 2011年11月)を読むと、唐物の研究の最先端が分かります。高校生の皆さんにはちょっと難しいかもしれませんが、ぜひ手にとってみてくださいね。

(し)

(22) 「三方一両損」―2 (21)の続き  2011/11/27

さて、この話の元になった『板倉政要』巻第七「聖人公事の捌(さば)き」では、貧民が金子三分を拾い、所司代へ届け出る。札を立てて落とし主を求めると、即日町人が申し出て来た。しかし、その町人は、その程度の金なら不便を感じないから、拾った者にやってほしいと訴える。拾った方は無論固辞して受け取らない。板倉殿は、双方の心底を察し、自ら三分を添えると、双方へ三分ずつ与えて落着した、となっている。

だが、二三度読み返して、この話はどうも変だと感じた。拾った者が金子を届け出るのはよいとして、落とし主がわざわざ名乗り出たにも関わらず、拾った者に与えてくれというところが、いかにもわざとらしい。即日奉行所へ出向いたからには、自分にとって必要な金であったはずだ。不要不急の金なら、わざわざ名乗り出ることもない。そのままにしておけば、拾った者の手に入るであろう。

ただ、白洲にうずくまる貧民を憐れに思ったから、咄嗟に判断したとも考えられよう。だが、その場合にも、謝金さえ払ってやれば、相手の顔を立てることにもなり、円満に事は済む。意地を張って一切要らないというのは、別に意図があったとしか思えない。

これと同じ疑問から発したかどうか知らないが、『本朝桜陰比事』(巻三-四「落し手有り、拾ひ手有り」)では、落し主と拾い主とが結託して仕組んだ狂言だったと予想外の方向へ展開している。当初三方一両損の裁定を下したのは奉行(固有名を出さず、「御前」としている)でなく、家老であった。報告を受けて疑念を抱いた奉行が再び両人を呼び戻し、厳しく問い詰めると、すべて拾い主のたくらんだことだと白状したというのである。

もし、そうだとすると、奉行所から一両を詐取するために仕組んだことになるのだが、こんな方法が通用したものだろうか。いや、実は、江戸時代には、孝子・節婦はもとより、善行を施した者や正直者に対して、幕府から褒賞金が与えられたのである。だから、それを目当てにした詐術であった可能性はなくもないし、もしばれても、所払い(追放)程度の軽罪で済んだ。

この点、落語では、「宵越しの金は持たない」というくらい金離れのよさを自負する江戸っ子の気質を強調するように話を構成し直した。それに伴って、江戸っ子の本領がよく見られる話として、この「三方一両損」は引かれることが多い。しかしながら、本来は板倉政談から来ている京都の話だった。「江戸っ子」なる言葉が文献上に初見されるのは、明和8年(1771)だそうである。江戸開府以来170年余、ようやく江戸っ子が定着し始めた。それまでは、どこの国の出身であるか歴然とした者ばかりだったのだ。文化東漸という。無から有が生れるはずはない。江戸っ子の人心や気性などもあるいは東漸したのかもしれない。

(G)

(22) 「三方一両損」―1 2011/11/22

大岡政談といえば、子供の養育権をめぐって生みの母と育ての母が争い、決着がつかないため、奉行が両者に子供の手を引かせ、引き寄せた方に与えるという裁決がある。人情裁きであるから、手を引かれて痛がる子供がかわいそうで、自分の手を放してしまった育ての親の方に奉行は子供を委ねることになる。

『醒酔笑』所載の板倉政談には猫の所有権を裁定する話があるが、これと直接関係はない。むしろ、中国宋代に成立した『棠陰比事(とういんひじ)』にまで遡る。日本へは、早くも鎌倉時代に舶載されていた。

要するに、『棠陰比事』から材を得た『板倉政要』が元禄以前に広く流布し、さらにこの両者を参考にしながら西鶴筆とされる『本朝桜陰比事』(元禄2年-1689-初版)が上梓されたのである。

大岡忠相が41歳という若さで江戸町奉行に就いたのは、享保2年(1717)であるから、大岡政談は、これらの文献を下敷きにずっと後世になって創作されたものと知られる。

大岡は、裁判官というよりも行政官として極めて有能な人物であったらしく、晩年に至り、72歳で一万石の大名へと昇進している。板倉を初めとするすべての手柄がこの名声に集中してしまったというわけだ。 創作とはいえ、大岡政談はなかなか面白い。ここで、落語や講談によって巷間に伝わる「三方一両損」の話を紹介しよう。その概略は以下のとおりである。

江戸白壁町の左官金太郎が三両入りの財布を拾う。印形(いんぎょう)と書付から神田堅大工町に住む大工吉五郎の持ち物と分かり、早速届けに行くと、吉五郎は、印形と書付は受け取るが、落とした金はもう自分のものでないから、受け取れないと言う。返す、要らないの押し問答から喧嘩に発展し、大家が仲裁に入る。奉行大岡越前へ訴えることでひとまず金太郎は帰った。

ところが、事情を聞いた金太郎の大家は、自分の顔が立たないと言って、こちらからも奉行へ訴え出る。白洲(しらす)でも両者は譲らない。そこで奉行は、両名の清廉を褒め、三両を越前が預り、改めてそれぞれに二両ずつ遣わすと裁定した。拾った金太郎と落とした吉五郎は、三両のうち二両を受け取って、一両の損、越前は一両足したので、やはり一両の損。三方一両の損で収まるという名裁きであった。

落語では、これに加えて、両名にお膳がふるまわれる。鯛の塩焼きに大いに食欲をそそられた二人に対して、越前が「双方あまり空腹だからといえ、たんと食すなよ。」とたしなめると、「おおかあ(=大岡)食わねえ、たった一膳(=越前)。」と応じる。落語らしい下げだが、これは明らかに付け足りに違いない。【続く】

(G)

(21) 『うつほ物語』の「秘色」から―青磁の魅力―  2011/11/14

『うつほ物語』には、「秘色(ひそく)の杯(つき)」(藤原の君巻)というものが登場します。

ぬしものまゐる。台二よろひ、秘色の杯ども。娘ども、朱の台、金の杯とりてまうのぼる。男ども、朱の台、金椀してもの食ふ。[新全集①・184頁]

「秘色」は、河添房江氏の調査・研究によると、中国の越州窯で作られた青磁(せいじ)の高級品をさすそうです(『光源氏が愛した王朝ブランド品』角川選書・2008年)。青磁は、鉄分を含む釉薬(うわぐすり)をかけて青緑色に発色させた磁器のことです。「秘色」は、神秘的あるいは特別な色の青磁ということになります。

『うつほ物語』の「秘色の杯」は、滋野真菅(しげののますげ)という人物の持ち物ですが、彼が太宰大弐をしていた頃に、唐との交易によって得た高級輸入食器という設定になっています。秘色青磁は、『源氏物語』でも末摘花の使用する食器として登場しますが(「御台、秘色やうの唐土のものなれど」)、越州窯の青磁が廃れたことで、十一世紀以降、輸入量も急速に減り、流行後れの品になっていったそうです。

しかし、青磁そのものがなくなることはなく、中国各地で作り続けられます。この青磁ですが、平安時代の人々が憧れただけではありません。皆さんのよく知っている夏目漱石の『草枕』の中にも登場します。『草枕』では、青磁の器に青い練羊羹をのせた様子を美しいとする場面があります。

菓子皿のなかを見ると、立派な羊羹が並んでいる。余は凡ての菓子のうちで尤も羊羹が好だ。別段食いたくはないが、あの肌合いが滑らかに、緻密に、しかも半透明に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ。ことに青味を帯びた煉上げ方は、玉と蝋石の雑種の様で、甚だ見て心持ちがいい。のみならず青磁の皿に盛られた青い煉羊羹は、青磁のなかから今生れた様につやつやして、思わず手を出して撫でて見たくなる。(『草枕』新潮文庫)

夏目は、青磁の皿に羊羹を盛った様子に美しさを感じていたようですね。この青磁は、中国産の青磁であることが、この後に続く会話によって知られます。

「これは支那ですか」 / 「何ですか」と相手はまるで青磁を眼中に置いていない。/ 「どうも支那らしい」と皿を上げて底を眺めて見た。

ちなみに、実際に、羊羹を青磁に盛った写真を「とぐりのぶろぐ」(戸栗美術館の公式ブログ・2011年5月15日の「夏目漱石と青磁」)で見ることができます。

さて、寺田寅彦の「青磁のモンタージュ」(昭和6年12月)では、青磁は「緑色の憂愁」のシンボルであり、「女性的なセンチメンタリズムのにおいがある」としています。そして、夏目漱石の青磁好きに触れた上で、自分の考える青磁の美しさは、そのモンタージュ次第だと述べています(ここでのモンタージュは、器とそれに入れる物等の組み合わせのこと)。

青磁の皿にまっかなまぐろのさしみとまっ白なおろし大根を盛ったモンタージュはちょっと美しいものの一つである。いきのよいさしみの光沢はどこか陶器の光沢と相通ずるものがある。逆に言えば陶器の肌の感触には生きた肉の感じに似たものがある。ある意味において陶器の翫賞はエロチシズムの一変形であるのかもしれない。[『寺田寅彦随筆集』第三巻・岩波書店]

青磁の徳利にすすきと桔梗でも生けると実にさびしい秋の感覚がにじんだ。あまりにさびしすぎて困るかもしれない。

青磁の香炉に赤楽の香合のモンタージュもちょっと美しいものだと思う。秋の空を背景とした柿もみじを見るような感じがする。

青磁はその色とつやの美しさから、いつの時代にも文人から愛好されたようです。高価な輸入品を簡単に求めることはできませんが、博物館で愛でることができます。皆さんも、青磁の器にどんなものを盛ったら美しいか、想像してみてくださいね。

(し)

(20) 板倉政談(2)-2 (19)の続き 2011/10/29 

これが大岡政談となると、一層その筆に磨きがかかってくる。「後藤半四郎一件」中に余談として載せられた逸話を紹介しよう。

江戸神田鎌倉河岸に、豊島屋という居酒屋があった。愛想よく、しかも酒は負けてくれるので、繁盛この上ない。ある日、この豊島屋へ六十余りの老人が一人入ってきた。独酌で二合、代金を払って店を千鳥足で出たはいいが、しばらく行ってから血眼になって引き返してきた。店へ戻ると、先ほど座っていたあたりをうろうろと何か探し回る。老人が、20両入りの大事な財布を落としてしまったが、ここで拾った人はないか、と涙をこぼしながら訴えても、居合わせた客は一向知らないと言う。あまりしつこく探し回るため、店の者は盗人か詐欺師だろうと思い、夢でも見たのか、20両どころか2両だって持っていそうもない格好しやがって、と散々に罵る。その金には仔細があるのだ、と老人が言っても耳を貸さず、とうとう殴りつけて追い払ってしまう。

店の向かいでその一部始終を見ていた駕籠舁(かごか)きが、老人を助けて介抱しながら、木綿の財布らしき物を店の若い者が拾って隠したのだと告げる。老人は、妻が三年越しの大病を患ったため、困窮の余り、娘を吉原へ年季奉公に売り渡したその代金だ、せめて憂さ晴らしにと一杯やったのだが、この始末、こうなったら、飢え死にするしかない、と涙ながらに説明する。気の毒に思った駕籠舁きは自分が証人になるからと言って、奉行所へ訴え出ることを勧めた。

奉行は、事情聴取を受けた二人を留め置き、早速豊島屋の主人を召喚する。豊島屋は当日留守をして事情を知らない。奉行は、駕籠舁きに財布の形状を質すと、それは盗品としてすでに届出がある、お前らは結託して20両をせしめようとしたのだ、と決め付け、二人を拘引した。一方、豊島屋へは、盗品を拾ったまま隠匿したら、厳重に処罰する、十分に店を探すように、と厳しく言い渡す。果たして店では財布を拾った若者がいた。早速奉行所へ差し出すと、牢へ入れておいた二人を白洲(=裁きの場)へ呼び出し、老人の落とした財布であることを確認する。盗人と聞いていた豊島屋は驚く。奉行は、落し物を探せと言ったら、そのまま隠匿される可能性が高い、だから盗品だと言ったのだ、と説明しながら、二人の縛めを解いてやった。〈尾佐竹猛校訂『大岡政談』―昭和4年、博文館〉

奉行の頓知に舌を巻きながら冷や汗を流していた豊島屋にはまだ仕事が残っていた。奉行は、拾った金を届け出なかったのは監督不行き届きであるから、老人の娘を吉原から請け出し、年季分だけお前の店で預るように、もし娘に異変が起きたら、お前の責任だ、と命ずるのである。しかし、娘は生き物だからどうなるか分からない。お咎めも嫌だから、請け出した後は親元へ引き渡すがよかろうというので、その旨奉行所へ願い出て裁許される。豊島屋は衣類にいくばくかの金子を添えて娘を老人の許へ送ってやった。

誠に孝心の余慶(よけい)報い来て、苦界(くがい)を遁(のが)れ、駕籠舁きの実意を以て、この事早速裁許に相成り、その上大岡殿の当意即妙七衛門娘の悦(よろこ)び、譬(たと)ふるにものなしと、この頃この儀専(もっぱ)ら評しけるとかや。

悪を懲らし、赤貧洗うがごとき無辜の民を救うという、だれもが望む社会正義に貫かれた痛快さが、この話の末尾に付された作者の言葉からも伺えよう。

(G)

(19) 板倉政談(2)-1 2011/10/23

板倉勝重・重宗・重矩の三代に亙る奉行職が残した政談(裁判説話)を集成したものが『板倉政要』である。17世紀後半の成立とされ、相当数の流布本が作られたことから、当時の人々の間で人気の高い読み物だったのであろう。一般に史料に編入されるが、後の通俗小説のさきがけをなす文芸書と言っていい。現在、活字で読もうと思っても、まだ容易には手に入らない。ここでは、熊倉功夫氏の翻刻本文に拠った。

板倉政談から大岡政談までを通じて共通する思想は、人情味と頓知であろう(大岡政談にはさらに探偵趣味が加わる)。思いがけない機知をもって裁くことにより、人情に掉さすことになる。否、人情を重んじるがゆえに、機知を働かせて解決すると言ったほうがいいか。民衆受けを狙えば、この二つの要素は欠かせない。

さて、人情味の溢れる裁きについては、一部前回紹介した。今回は、頓知の例を取り上げよう。

都に住む有徳人(=金持ち)の娘が同業者仲間の男と婚約したところで、父が病死した。母は娘に対する愛着が甚だしく、婚約を解消しようとする。しかし、男のほうは承知しない。所司代へ訴え出た時、娘は15歳、男は35歳であった。すでに媒酌人を立てて成立した約束であるから、違約はできないのだが、母は引き下がらない。娘はまだ幼い、婚約した男は年かさだ、せめて男の半分の年数であれば、似合いといえるのだが、このままでは娘がかわいそうだ、と言って、婚約解消を直訴した。伊賀守は、娘の年齢が夫の半分なら文句ないのだな、と念を押し、母の異議のないことを確認した上で、町年寄どもを立ち合わせて、夫の半分の年齢なら嫁取りを許可する旨の証文を調えさせた。

その後5年を経て、伊賀守が再び関係者を呼び出す。夫は40歳、娘は20歳になった。伊賀守は、今や母娘の望むとおりになったのだから、早々に祝言を調えよ、それがしも二度の媒酌に当ったわけだから、祝いに酒樽を送ってやる、と言って笑った。〈巻第七「妻女公事捌之事(さいじょくじさばきのこと)」〉

無論、単なる算数の問題であるし、そこへ思い至らぬ母は愚かだと言ってしまえばそれまでだが、板倉の判断は、婚約者と母娘との両方を立てる無策の良策に違いない。末尾にある「もっともの御捌(おさば)きと感じけるとかや」という評言は、だれも傷つけない結末を導くその頓知に感じ入ったものだ。【続く】

(G)

(18) 『うつほ物語』と「天の食」(俊蔭巻) 2011/10/17

清原俊蔭が、二十三年にも及ぶ波斯国(ペルシャ)の生活で、何を食べていたかは、物語にはほとんど描かれていません。食事の詳細など、平安貴族の物語にとって必要のないことだったのかもしれません。

ただ、「花の露、紅葉の雫をなめてあり経る」[新編日本古典文学全集①22頁]とあるので、露や雫によって命を繋いだことは確かです。江戸時代の国学者・山岡明阿は、この部分に「仙家の趣にいへり」という注釈をつけています。俊蔭の波斯国での生活を、仙人の生活と捉えているのです。

露を食とする仙人の話は、藐姑射山の寓話によって知られます。中国の『荘子』では、藐姑射の山に天下る神人は、五穀を断ち、風を吸い込み、露を飲んで生きていたそうです。風も露も仙人の食べ物でした。

「草木の露」が人を生かしたという話もあります。同じく中国の『洞冥記』では、東方朔が吉雲国にある玄・黄・青の露を瑠璃の盤に入れて漢の武帝に献上したところ、これを嘗めた者は皆若々しくなり、若返ったそうです。この露は草樹から生じたものであり、草花のエキスを含んだ露というのは、最高の不老長寿食でした。

ところで、俊蔭は「三人の人」と別れた後、「七人の人」と出会います。この「七人の人」は、俊蔭に七絃琴の秘曲を教えてくれますが、彼らの母は、忉利天(=須弥山の頂上にある天。帝釈天が住む。)の天女だそうです。昔、「いささかなる犯し」のために、母は天に、子は「中なるところ(=仏国土と人間界の中間)」にと離れ離れになりました。「七人の人」は、母乳のかわりに「花の露を供養と受け、紅葉の露を乳房となめつつ」生きてきたと言います[①34頁]。「七人の人」や俊蔭が命を繋いだ花・紅葉の露は、天が授けてくれた母乳、すなわち「天の食」であったと考えられます。

「天の食」で思い起こされるのが、宮沢賢治の「永訣の朝」です。

おまへがたべるこのふたわんのゆきに わたくしはいまこころからいのる どうかこれが兜率(とそつ)の天の食(じき)に変つて やがてはおまへとみんなとに 聖(きよ)い資糧(かて)をもたらすことを わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

「どうかこれが兜率の天の食に変つて」は、初版テキストでは「どうかこれが天上のアイスクリームとなって」でした。雪のように白いアイスクリームもよいのですが、「兜率の天の食」の方が、死んでゆく妹トシに対する祈りの表現としてはぴったりです。

実は、『うつほ物語』の「七人の人」は、昔、「兜率天の内院の衆生」でした。兜率天は、遠い将来、この世に下って衆生(=生きとし生けるもの)を救うと信じられている弥勒菩薩の浄土です。

衆生である賢治もトシも、死を迎える場にあって、きっと清らかで美しい「あめゆじゅ(霙)」に救われたことでしょう。いずれ、この「あめゆじゅ」が、生きとし生けるものすべてに命を与えてくれるような「天の食」になることを賢治は願ったのです。

兜率天からもたらされる「聖き資糧」、「天の食」は、『うつほ物語』では、忉利天からもたらされる「天の食」でした。

付記 このエッセイは、「蓮華の花園と天女の乳房」(『九十九段』41号 聖徳大学短期大学部総合文化学科 2009年3月)の前半部分を抜粋し、新たに書き加えたものです。

(し)

(17) 『うつほ物語』と樹下人物図①(俊蔭巻) 2011/10/10

『うつほ物語』俊蔭巻で、波斯国(ペルシャ)に漂着した俊蔭が最初に出会ったのは、「三人の人」でした。

清く涼しき林の栴檀のかげに、虎の皮を敷きて、三人の人並びゐて、琴(きん)を弾き遊ぶところ[新編日本古典文学全集①22頁]

「三人の人」は、栴檀の樹の下で、中国の七絃琴を弾いていました。「三人の人」は人間ではなく、仙人だと考えられています。栴檀は白檀の別名で、インドなどに産する香樹です。異国情緒たっぷりですね。

この場面とそっくりな絵があることをご存じですか?正倉院宝物(北倉)の「金銀平文琴」(開元二三年・七三五年、長さ一一四・五センチ、唐で制作)です。金銀平文琴は桐製で、表裏には金銀の平文(=漆塗りの一つ)で様々な文様が施されています。琴の表面の首部には四角形の枠の中に、樹下で三人の仙人が毛皮の上に座り、酒饌(=酒と食物)を囲んで、七絃琴や阮咸(=弦楽器の一つ)を弾いたり、角杯を傾けたりしている図が施されています。このように、樹の下に人がいる図柄を「樹下人物図」と言っています。

『うつほ物語』俊蔭巻の、「三人の人」が樹下で七絃琴を弾く場面と金銀平文琴の図柄とがよく似ていることを、最初に気づいたのは川口久雄氏です(「洞窟の貴女―原型『宇津保物語』の発想」『東洋文庫・東洋学講座報告』一九七三年一〇月)。

残念ながらこの金銀平文琴自体は、嵯峨天皇の時代、弘仁五年(八一四)に、『東大寺献物帳』に記載されている「銀平文琴」が出蔵され、その代替品として同八年(八一七)に納められたもので、『うつほ物語』の作者が実際に目にすることはありませんでした。でも、同じ文様を持つ七絃琴や樹下人物図が当時存在し、知識人に知られていたのでしょう。

正倉院の「金銀山水八卦背八角鏡」には、仙境で仙人が七絃琴を弾き、鳥がその音に聞き入っている図が配されています。菅原道真(八四五~九〇三)の遺品「高士弾琴鏡」(唐時代または平安時代、九世紀、大坂・道明寺天満宮)には、竹林を背景に七絃琴を弾く人物が配されています。『うつほ物語』の栴檀の樹下の「三人の人」は、このような樹下人物図を和文化したものと考えられます。

俊蔭は、この「三人の人」から七絃琴の曲を教えてもらいました。そうです。仙人が琴の先生だったわけです。どんな素敵な曲を習ったかについては、いずれお話ししたいと思います。

  皆さんも、樹の下で楽器を演奏する絵をぜひ探してみてくださいね。

(し)

(16) 板倉政談(1) 2011/09/30

『醒酔笑』は笑話集であるが、なぜか板倉政談を10話採録してある。板倉政談とは、板倉伊賀守勝重(かつしげ)(1545~1624)の名裁き説話を指す。家康に重用された板倉は、駿府の町奉行を経て江戸町奉行となり、家康が天下を治めるようになってからは、京都所司代として治安維持に辣腕を揮ったという。

『醒酔笑』に見られる板倉政談は、相続、所有権、窃盗などの訴訟を扱う、今でいう民事裁判である。例えば、次のような人情味溢れるお裁きが板倉の真骨頂であった。

慶長7年7月7日に、背中に笈をかけた人夫ふうの男が、痩せて皮膚が黒ずみ、竹の杖にすがって京の町を通りかかる。地獄の罪人が歩いているようだ。男は、瓜を売る店に立ち寄り、腹の虫を治めるため、瓜を買おうとする。一本二文だが、腰には一文しかぶら下がってない。「盆の功徳と思って、一文で売ってくれないか。」と頼み込むと、店主は「一文はその分にしてやろう。」と言って瓜をくれた。しかし、瓜にかぶりついてから、腰を確かめると、銭は落ちて縄だけが残っている。男は慈悲を乞うて懇願するが、もとから邪慳な店主は、食い逃げだと決め付け、直ちに町の人を呼び集めて板倉殿へ訴え出た。

板倉殿はそれぞれの訴えを聞いた後、「事実を糺明するから、まずこの男を店主に預ける。食事を与え、町の者が番をするように。」と命じて帰した。「たった一文のために下らぬことを言い立てて、手間をかけさせることだ。」と町の者たちはぶつぶつ言いながら、男を一間(ひとま)に押し込めて、食事を与えた。

6日、7日と経過したが、板倉殿からは音沙汰がない。そこでめいめい参上して審議を督促すると、「忙しくて忘れておった。今は盂蘭盆、盗んだのは瓜一本だけ。この程度の裁許はさっさとすればいいのだが、瓜売りの性根があまり邪慳だから、わざと延引したのだ。飢えた者を助けるのが道義に違いないのに、弱者を捕らえて来て、銭一文ごときで首を刎ねろとは何事だ。施しをさせるためにこの期間は養わせたのである。急いで行ってその男を許してつかわせ。」と命じたので、同席していた者はみな頭を垂れて感涙に咽んだ。〈巻之四、8話〉

この他、実父の死後、育ての母と伯父とで継嗣の養育権を争う話から猫の所有権を裁く話まである。次に紹介する話は、現在なら当然不慮の事故死として扱われ、裁判に至るはずもなかろうが、その言い渡しが振るっている。短い文章だから、原文のまま示そう。

綾小路にて、板がへし(注1)する日、家主の女房屋根にあがりしが、いかが踏みはづして、落ちたり。となりの女房その下にゐあはせ、頭の上へころびかかれば、首の骨ちがひて死にけり。その女の夫、理不尽に、「わざと殺さんとて落ちたるものなり。是非こらへまじき。」と言ひ、所司代へ出づる。伊賀守殿、「余儀なき存分(注2)なるまま、幸ひ手本(注3)あり。右家主の妻をわが女の居たりし処に置きて、そちの、屋根にあがり、最前のごとく落ちかかりて、にくしと思ふ相手の女を殺せ。」とあれば、言葉もなく帰りつることよ。〈12話〉

やがて、勝重の息子周防守重宗(しげむね)、重宗の弟重昌の子内膳正重矩(しげのり)の事蹟を併せて『板倉政要』がまとめられる。巷間よく知られた大岡越前守忠相(ただすけ)を主人公とした人情政談は、この『板倉政要』や中国の『棠陰比事(とういんひじ)』、西鶴の著作とされる『本朝桜陰比事(ほんちょうおういんひじ)』、あるいは講談などから材を拾って作り上げたフィクションである。

(注1)板屋根の葺き替え。 (注2)やむをえない考え。 (注3)判例。この事件が後の手本となるという意。

(G)

(15) 『うつほ物語』の螢①(祭の使巻) 2011/09/26

『うつほ物語』には、苦学生、藤原李英(すえふさ)という人物が登場します。彼は、勧学院(=大学別曹の一つ)の西の曹司に住み、周囲から貧窮の身を蔑まれながらも、一心不乱に勉強しました。

夏は螢を涼しき袋に多く入れて、書の上に置いてまどろまず、まいて日など白くなれば、窓に向かひて光の見ゆる限り読み、冬は雪をまろがして、そが光に当てて眼のうぐるまで学問をし、[新編日本古典文学全集①487頁]

「夏は螢を生絹(すずし)の薄い袋にたくさん入れて、それを本の上に置いて夜も眠らずに読み、…冬は雪を丸めて、その光で目が引っこむほど勉強した」とあります。

私は雪国で育ちましたので、夜、電気がなくても、雪明りでトイレに行けましたが、さすがに本を読むとなると、目が悪くなりそうです。それに、たくさんの螢をかき集めたとしても、袋に入れたら、果たして本が読めるほど明るいのでしょうか。

実は、これは、中国の車胤(しゃいん)・孫康の「螢雪(けいせつ)」の故事を踏まえています。二人とも貧乏で明かりのための油も買えなかったので、車胤は「夏月は則ち練嚢に数十の螢火を盛りて以て書を照らし」(『晋書』)、孫康は「常に雪に映じて書を読む」(『蒙求』)と、猛勉強をし、ついには高官になったそうです。

唱歌「螢の光」の「螢の光 窓の雪 書読む月日 重ねつつ」は、この螢雪の故事から来ています。今回は、螢に注目してみましょう。佐々木信綱作詞の唱歌「夏は来ぬ」に、「橘の薫る のきばの窓近く 螢飛びかい おこたり諫むる 夏は来ぬ」とあります。これも車胤の故事を踏まえたものです。昔の人は螢を見て、車胤が螢の光で勉強したことを思い出したのです。

たくさんの螢といえば、宮本輝さんの『螢川』(新潮文庫)が思い起こされます。昭和三〇年代の富山が舞台ですが、「いたち川」は四月に大雪が降ると、初夏に大量の螢が見られるということで、主人公の竜夫は銀蔵や栄子、母とともに螢を見にいきます。はたして螢の大群が彼らの眼前に現われました。

螢の大群は、滝壺の底に寂寞と舞う微生物の屍のように、はかりしれない沈黙と死臭を孕んで光の澱(おり)と化し、天空へ天空へと光彩をぼかしながら冷たい火の粉状になって舞いあがっていた。

螢は数条の波のようにゆるやかに動いていた。震えるように発光したかと思うと、力尽きるように萎えていく。そのいつ果てるともない点滅の繰り返しが何万何十万と身を寄せ合って、いま切なく侘しい一塊の生命を形づくっていた。

私はいたち川で螢の大群を目にすることがありませんでしたので、いたち川の螢はほとんど印象に残っていませんが、近所の川の螢なら鮮明に覚えています。三歳の頃、土手はまだセメントで固められていなくて、四季折々の野の花が咲いていました。夏、螢が飛び交う様はとても幻想的で、たくさんの蛍が確かに私の身体を覆ってくれました。

蛍そのものをあまり見かけなくなりましたが、現代は電気のおかげで、夜も本が読めます。老若男女問わず、「眼のうぐるまで」勉強したいものです。

(し)

(14) 『うつほ物語』の唐菓子(吹上上巻) 2011/09/16

『うつほ物語』には様々な食べ物が登場します。吹上・上巻を見ると、三月三日の節供に、神南備種松が客人に対して「唐果物(からくだもの)」や「餅」を用意しています。

「唐果物」とは果物ではなく、加工したお菓子「唐菓子(からがし・とうがし・からくだもの)」のことで、奈良・平安時代に中国から伝来しました。その多くは、米や麦を原料とする粉を練って様々な形にし、油で揚げたものです。当時、砂糖はまだないので、今のドーナッツやクッキーほど甘くはないでしょう。

さて、三月三日と言えば「ひな祭り」の日ですが、雛人形を飾るようになったのは江戸時代からです。ですから、『うつほ物語』には雛人形を飾る場面はありません。その日は、曲水の宴(注)をして楽しんだようです。『うつほ物語』のこの場面が曲水の宴であったかどうかは分かりませんが、宴会で唐果物が供されました。

唐果物(からくだもの)の花、いと殊(こと)なり。梅、紅梅、柳、桜、一折敷、藤、躑躅(つつじ)、山吹、一折敷、さては緑の松、五葉、すみひろ、一折敷、その花の色、春の枝に咲きたるに劣らず。[新編日本古典文学全集①391頁]

梅、紅梅、桜、藤、山吹など、いろいろな花の形に作った唐果物が本当に美しいとあります。梅、紅梅、柳、桜を一つの折敷(=へぎを折りめぐらして作った四角な盆。食器などを載せるのに用いる。)に盛っていて、それら唐果物の花の色は、「本物の春の枝に咲いた花にも劣らないほど美しい」とあるので、食紅などで色をつけてあったのでしょうか。

平安時代の『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』には、「八種唐菓子」として、梅枝(ばいし)、桃枝(とうし)、餲餬(かっこ)、桂心(けいしん)、黏臍(てんせい)、饆饠(ひちら)、[食+追]子(ついし)、団喜(だんき)の名を載せています。『集古図』で「梅枝」や「桃枝」の形を見ると、確かに枝の形をしていますが、あまり美味しそうには見えません。

『うつほ物語』の花の形をした唐果物は、綺麗に盛りつけられていて、見た目が美しいですね。しかも、四季折々の花の唐果物を作ったようですから、和菓子のルーツと言えましょう。

以前、「中国文明展」(2000年・横浜美術館)で、花型・葉型の「点心」(=小麦粉製のお菓子)(新彊ウイグル自治区トルファン市アスターナ出土・中国歴史博物館蔵)を見ました。小麦粉をこねて型押しをした後に焼いたクッキーみたいなお菓子で、唐の人々に好まれたとか。新彊では死者に供えるために埋葬されたのが、乾燥地帯でしかもドライ菓子であったため、型崩れすることもなく、そのまま残ったようです。花の真ん中にはフルーツをのせたとも言われています。唐果物のルーツでしょう。

『うつほ物語』でも、中国の点心を真似て、花の形の唐果物を登場させたのでしょう。当時、実際にそのような唐果物があったのかどうか。作者の創作でしょうか。それにしても、日本の花の象徴とされる「桜」の形の唐果物を作るなんて、平安人はとても風流ですね。

(注)曲水の宴…古代の年中行事の一つ。陰暦三月上巳(後に三日)に、曲水(=庭園をまがり流れる水)に臨んで、上流から流される杯が自分の前を過ぎないうちに詩歌を作り、杯をとりあげ酒を飲み、また次へ流す遊び。

(し)

(13) うつけ者を笑う  2011/09/09

前回に続いて『醒酔笑』巻之二「躻(うつけ)」から笑話をいくつか。

ある家の主人が銭を庭に埋めて隠す時、「必ず、他の人の目には蛇に見えて、自分が見る時だけ銭になれよ。」と言うのを、こっそり家人が聞いていた。家人は銭を掘り出し、代わりに蛇を入れて置く。後になって例の主人が掘ってみると、蛇が出てくる。「おいおい、俺だ。見忘れたか。」と何度も名乗っていた。〈10話〉

道中、向こうから来る者を見ると、数珠を首にかけ、大きな檜笠をかぶって歩いて来た。間抜けな男がこれを見て、感動の余り手を打って問う。「そなたがかぶっている笠は随分大きいが、どうやってその数珠を首にかけられたのかね。」「いやこれは、まず数珠を首にかけてから笠をかぶったのですよ。」とゆきずりの男が答えれば、「とにかく尋ねてみなければ分からないものだ。」と間抜けな男。〈22話〉

少し頭の足りない男が、人に向かって、「俺は日本一の発明を考え付いたぞ。」と自慢する。「一体何だ。」と問うと、「それはだな、臼で米を搗(つ)くのを見ると、下へ下がる杵(きね)は勿論役に立つが、上へ上がる杵が無駄働きではないか。どうせなら、上にも臼を逆様に吊り下げて、米を入れて搗いたら、両方で精米されるから、杵の上げ下げが無駄になるまいと思いついたのだ。」と男が言い終わらないうちに、「では、吊り下げた臼にどうやって米を入れるのだ。」と問い返すと、「ほんとだ。そこまでは考えなかったな。」〈28話〉

これらは、いずれも頭のネジが一本足りない者の言動を笑い者にする話だ。この手の笑話を聞く者は、自分がそれと同じ仲間にならないとは限らないのに、なぜか自分はバカでないと思っているから安心して笑える。こういう話に余分な解説をしたらつまらない。ただ、次の話となると、ちょっと考えないとその可笑しさが分からないかもしれない。原文のまま紹介しよう。

さるかしこき人、数寄(注1)に行き、路地(注2)へ入りたれば、植ゑたる竹の先を包みたるが何本もあり。つくづく見て、「あら奇特(きどく)や、奇特や。」と感ずる。相客(あひきゃく)不審に思ひ、「何事やらん。」と問うたれば、「そのことよ。あれほど長い竹の先へかかる梯子(はしご)のあったが不思議ぢゃ。」〈25話〉

さる高名な俳優が時代劇に出演していた。撮影所へ入ると、そのつどチョンマゲの鬘をつけるためにかなりの時間を費やす。そこで俳優がしみじみ言うには、「昔の人は大変だなあ。毎日こうしなけりゃならないんだから。」

え? どこが可笑しいのかって? 弱ったな。何を笑うかでその人が分かるという。ゆめご油断召さるな。

(注1)茶道。茶の湯 (注2)茶室の手前に、待合や腰掛などを設けてある庭園。

(G)

(12) 『うつほ物語』海洋冒険と楽園①(俊蔭巻) 2011/09/03

清原俊蔭は遣唐使に選ばれ、唐に向けて船出しますが、途中難破し、波斯国に漂着します。

唐土に至らむとするほどに、あたの風吹きて、三つある船二つはそこなはれぬ。多くの人沈みぬる中に、俊蔭が船は、波斯国に放たれぬ。(新編日本古典文学全集①21頁)

見知らぬ浜辺に打ち上げられた時、俊蔭以外、誰もいませんでした。遣唐使船に乗っていた人たちは、皆、藻屑と消えたのです。千一夜物語の「船乗りシンドバードの物語」も、俊蔭の物語とよく似た、海洋冒険譚(「譚」は物語の意)です。シンドバードは七回も旅に出かけますが、必ず航海の途中難破して見知らぬ島に流れ着き、最後はシンドバードただ独りになります。

海上には夜が落ち、私は身の破滅とただひとり取り残されたことがもう疑いないものになった。(第292夜「第一の航海」)

漂流譚では、最終的に主人公だけが生き残るという設定にすると、面白いですね。読者も主人公になったつもりで、スリリングな体験が出来るからです。

さて、俊蔭は波斯国を旅します。日本では見られないような楽園が存在しました。驚くことに、「山の地は瑠璃なり」とあります。大地がなんと瑠璃でできているのです。この瑠璃はガラスでしょうか?それともラピスラズリでしょうか?どちらにしても高価で綺麗ですね。シンドバードが旅した楽園も、地面がダイヤモンドでできていました。

この谷は、全部ダイヤモンドを含む岩石でできているのを認めた。(第二の航海)

この際「木々はどうやって育つのだろう」なんて、野暮なことは考えないことにしましょう。シンドバードは七回にも及ぶ航海で、その都度、不思議な島に漂着します。恐ろしい体験をたくさんしていますが、ここでは楽園のような場所だけご紹介しましょう。

果樹に蔽われ、清らかなよい水の湧く泉の流れている野原(第一の航海)

果物は木々に満ち、甘露の泉がいくらもあった。(第二の航海)

淡水の小川の両岸には、ルビーの石だの、色とりどりの宝玉だの、さまざまな形の宝石だの、貴金属類だのがばらまかれていた。…しかもこうした宝石類すべては、そこらの河床の小石の数ほどもあった。…(第六の航海)

その他に、シンドバードが廻った島々では、沈香、樟脳、薫香、白檀、伽羅木といったものが存在し、シンドバードはそれらを高価なお土産として故郷のバグダードに持ち帰っています。あらあら、平安時代の貴族たちが求めたブランド品と同じですね。

さて、世界文学には、他にもたくさんの楽園が登場します。皆さんは、どんな楽園がいいですか。試験がなくて、お金に不自由しなくて、イケメンの男性ばかりいるところがいいですって?うーん、何だか夢がありませんね。もっとスケールの大きい楽園を想像(創造)してみませんか。素敵な冒険譚が書けますよ。

(し)

(11) 夫を殴る妻  2011/08/25

家庭内暴力と言えば、夫から妻へ、子供から両親・祖父母へというのが通り相場だった。ところが、近年、妻が夫に暴力を振るう事件が時折新聞ダネになる。

男の暴力は昔から変わらない。だが、女とて黙ってはいなかった。近世初頭に編纂された笑話集『醒酔笑(せいすいしょう)』(安楽庵策伝著)には、平気で夫を殴りつける妻が登場する。

夜半(やはん)のころ、隣にいさかふ声しける。何事にやと、夫婦(めをと)ながら起きて聞き居たれば、男のいたづら(=浮気)よりおこりたる悋気(りんき)(=嫉妬)いさかひの、修羅をたつるなり。聞き居たる女房、何の理も非もなく、夫のあたまを続け張りにはりけり。夫、「これはなんといふ狂乱ぞ」といへば、「この後も、あの隣のいたづら男のやうに、身を持つなといふ事よ」と。迷惑の。(鈴木棠三編『醒酔笑』下・巻之六-岩波文庫)

末尾の「迷惑の」は、困ったことだという意。後日起こるべき嫉妬の意趣を今返されたのではたまらない。この他にも、浮気が原因でなくても、夫を棒で叩く妻が出てくる。貞淑なる節婦なんぞどこを探しても見当たらない。

だからというわけでもなかろうが、次の話のような恐妻家が現われる(巻之二)。

やや頭の弱そうな男どもが集まって、女房恐いと愚痴をこぼす。一人が進み出て言う。「おれの女房は、裁縫上手で所帯持ちがよい。見目麗しく愛敬たっぷり。文句の付けようがないくらいだが、何しろ短気で、すぐに手を上げるのだ。月に一度や二度ではすまない。ほとほと疲れたよ。」

もう一人が出て、「そうそう、おれの女房もケチは付けられないが、何かと言うとおれの頭に杖をくらわせる。もううんざりだ。」

これを聞いていた一人が、「女房に叩かれるなんて、日本一の馬鹿者だ。それにしてもお前たちは間抜けだな。」と笑う。先の二人がむっとして、「女房に叩かれずにすむ方法があるとでも言うのか。」と詰め寄ると、「おおよ、秘訣があるわさ。知っている者はあるまい。草履(ぞうり)をはかずにさっさと逃げることだな。」と答えた。

いつの世も夫婦の仲は変わらない。今の世の男どもだって、暴力こそ少ないかもしれないが、大半はこうした同情に堪えない有様であろう。

恐妻家は万国共通だ。中国の笑話を紹介して、この項を閉じよう。

 人民解放軍の隊長が兵士100人を前に演説をぶつ。「世間には恐妻家などという臆病者がいるそうだ。解放軍の士気に関わる。女房が恐いという者は、正直に右へ出ろ。」と命じると、99人までが右へ一歩出た。ただ一人残った兵士の手を取り、隊長が「お前こそ解放軍の誇りだ。」と感激していると、その男は恥ずかしそうに、「いえ、他人と同じことをするなと、いつも女房に言われてますんで。」と答えた。

(G)

(10) 『うつほ物語』親子の別れ(俊蔭巻)  2011/08/19

『うつほ物語』の主人公・清原俊蔭は、清原王と皇女との間に生まれた「一人っ子」でした。俊蔭は幼い頃より聡明であったために、16歳の時、遣唐使に選ばれます。たくさんの人の中から選ばれたのですから、息子の栄誉を親は喜ぶはずと思いがちですが、俊蔭の父と母は外国に出かけてゆく息子との別れをとても悲しみます。

想像してみてください。当時は電話のない時代です。しかも、船が難破することも多かったですし、遣唐使として唐に派遣され、二度と日本に戻ってこなかった人も多いのです。今の時代の「中国に留学」とは全く事情が違います。

 さて、俊蔭の父と母が嘆き悲しむ場面を見てみましょう。

 父母、眼だに二つありと思ふほどに、(父や母は、大切な眼でさえ二つあるのに、この子はたった一人しかいないと思っているうちに、)[新編日本古典文学全集①20頁]

 「眼だに二つあり」…おもしろい表現を使いますね。『土佐日記』にも「眼もこそ二つあれ。ただ一つある鏡を奉る」(二月五日)とあるので、当時よく使われていた言葉かもしれません。

 朝に見て夕のおそなはるほどだに、紅の涙を落とすに、(朝、俊蔭の顔を見て、夕方帰りが遅くなったというのでさえ、紅の涙を落として心配し悲しむほどなのに、)[新編日本古典文学全集①21頁]

 「紅の涙」とは「血の涙」のことで、血が出るほど激しく泣くさまを言うことから、強い悲しみの表現です。

 三人の人、額を集へて、涙を落として、出で立ちて、つひに船に乗りぬ。(父母俊蔭の三人が、それぞれ額を寄せ合って涙を流し、別れを嘆き悲しんだが、俊蔭は出発し、とうとう船に乗った。)

 話はそれますが、『万葉集(まんようしゅう)』に遣唐使の母の歌が載っています。

旅人の 宿りせむ野に 霜降らば 我が子羽(は)ぐくめ天(あめ)の鶴群(たづむら)(巻9・1791)

 「旅人(息子)が宿りするであろう野に霜が降りたら、わが子を羽でつつんでやっておくれ。大空の鶴の群れよ。」…母の子を思う気持ちがひしひしと伝わってきますね。どの時代であっても、たとえ名誉の旅立ちであっても、子どもとの別れは悲しいものです。

俊蔭が23年後、日本に戻ってきた時には、すでに父と母は亡くなっていました。亡くなるその日まで、父と母は、毎日、息子の帰りを待っていたことでしょう。

(9) 『うつほ物語』源仲頼の妻 2011/08/10

今回は、源仲頼の妻をご紹介しましょう。源仲頼は天下に名高い色好みでしたが、宮内卿在原忠保(ありわらのただやす)の娘の婿になります。忠保の家は貧乏でしたが、娘が大変美人だったので、仲頼は熱心に通うようになりました。結婚後も浮気一つせず、妻を愛したとあります(嵯峨の院巻)。仲頼は、妻に次のような言葉を発しています。

「この世に経む限りは、さらにもいはず、後の世にもかかる仲に生まれ返らむ」 (この世に生きている限りは言うまでもなく、来世にもこのように愛し合った仲で生まれかわろう。)[新編日本古典文学全集①357頁]

そうそう、かつて「今度生まれ変わったら一緒になろうね」と言って、別れた大物アイドルがいましたね。仲頼夫妻はどうでしょうか。

忠保の娘と蜜月の日々を過ごすこと五、六年。ある日、仲頼はあて宮という姫君を垣間見た瞬間、恋に落ちてしまいます。あて宮は、「あたり光り輝くやうなる中に、天女下りたるやうなる人あり(あたりも光り輝くような中に、天女が天下ったかのような美しい女性がいる)」[新編日本古典文学全集①358頁]と描写されています。恋に落ちるのに理由なんてありませんが、あて宮は忠保の娘のさらに上をゆく美人だったのです。

あて宮に心を奪われた仲頼は、帰宅後も思い悩み、寝込んでしまいます。これまで美しい、愛しいと思っていた妻のことはどうでもよくなってしまいました。こんな時、女はすぐにわかりますね。「夫は自分のために苦しんでいるのではない。この涙も別の女のためだ…」

その後、残念ながら、あて宮が入内したので(東宮妃となったので)、仲頼は絶望のあまり出家し、水尾という所に籠ってしまいました(あて宮巻)。失恋が原因で世捨て人になってしまうあたり、ちょっと過激ですね。

相思相愛の仲であっても、ある日突然、どちらか一方が、雷に打たれたように、新しい相手と恋に落ちることがあります。たとえ、その恋がいつか破たんしても、かつて付き合った相手は自分のところに戻ってこないと考えた方がよいかもしれません。戻って来たとして、果たして嬉しいでしょうか?

後日、東宮となった子とともに参内する(内裏に帰参する)あて宮の盛大華麗な行列を、じっと見つめる母娘がいました。仲頼の妻とその母です(国譲下巻)。

妻の母「わが婿殿を破滅させた方(=あて宮)の、めでたいご運勢でいらっしゃること…。このような幸運の持ち主(天皇妃となり、東宮の母となったあて宮)に懸想なさった婿殿は、何とも畏れ多いことです。」

妻「あの人がもし山に籠らなかったら、今頃は大臣にもなっていたでしょうね…。」

仲頼の妻は、あて宮を見て複雑な気持ちになりますが、恨んで仕返しをするということはありません。あて宮を見て、ただただ悲しくなり、自分の運命の拙さを嘆いたのでした。「かつてあんなに愛し合った夫とは、この世でもあの世でももう他人」と考えると切なくなるので、この夫婦生活にも何か学ぶことはあったのだと思いたいですね。

(し)

(8) 窮極の屁理屈 2011/08/03

年末の煤(すす)払いに用いる笹竹を旦那寺からタダでせしめ、使った後も屋根の押さえや箒の柄にする。年に一度の据え風呂を立てるにも、五月の粽(ちまき)の殻、盆の蓮の枯れ葉を捨てずに置いて焚きつけにする。塵一つ無駄にしない。

こんなケチを息子に持った母親だから、一枚も二枚も上手(うわて)を行く。

大晦日の風呂焚きに下駄の片方を火にくべている。十八で伊勢屋へ嫁入りした時に履いて来た物だから、もう53年になる。死ぬまで一足で済ませようとしたのに、野良犬に片方をくわえられて失ってしまった。それを是非なく煙にすることをひどく悔み、何度も愚痴ったあげく、ようやく竈に放り込む。

今一つ未練らしく、涙ながらに嘆く。「明日で一周年になるが、惜しいことをした。」もらい湯に入っていた近所の医者が問う。「元日にどなたか亡くなったのかね。」

老母答えて曰く、「人が死んだくらいで、こんなに悲しみはしません。去年妹がくれたお年玉を恵方棚へ上げて置いたのに、その晩盗まれました。」と。

老母は、その金惜しさに、山伏を頼んで祈禱してもらったこと、しかし、手品師のようなからくりに騙され、初穂料百二十文(もん)を失ったことを医者に告白し、損の上に損を重ねたと、さらに大声を上げて泣く。家の者には、盗みの疑いをかけられてはたまらないと、身の潔白を神仏に祈請する者さえ出る始末だ。

そうして、屋根裏の煤を払っていると、棟木(むなぎ)の間から包みが一つ現れた。老母のお年玉に違いない。周囲は鼠のせいにするが、老母は頭の黒い鼠の仕業だと畳を叩いて喚く。風呂から上がった医者が、鼠が荷物を引いて住処を移したという故実を紹介してなだめようとしても、自分の目で見ないことは信用できないと言って納得しない。

致し方なく、医者が鼠使いを連れて来た。恋文を届けろと鼠に命じると、相手の袖口へポトリ。銭を投げて餅を買ってこいと言えば、銭を置いて餅をくわえて戻る。

さすがに老母は、包み金を引いたのが鼠だったとしぶしぶ認めたものの、こんな盗み心のある鼠を飼っていた息子が悪い、一年遊ばせておいた分の利息をもらおうと言って、一割半(15%)をその晩受け取り、安心して正月を迎えたというのである。

この話の出典『世間胸算用(せけんむねさんよう)』(1692年刊)は、前回に続いて井原西鶴の作品と伝えられている。老母に翻弄される周囲の人のよさと、落ちに用いた屁理屈の徹底ぶりに食指が動いたのだろう、坂口安吾は、少年向けの翻案小説「屋根裏の犯人―『鼠の文づかい』より―」(1953年、『キング』第29巻第2号)の題材とした。

ところで、鼠使いを雇ったのは医者だが、その費用はどうしたのだろう。現代の常識から見れば、事実の証明を行うための実費は老母に課せられてもおかしくない。

  坂口は、その点を次のように合理化した。山伏に騙されたという事実を医者が解明してやったという設定にし、その藪蛇(やぶへび)に逆上した老母を償うため、「実物を見せられないこともないが、お金がかかるな。伊勢屋さんがお金のかかることをする筈はなし。乗りかかった舟だ。まア、仕方がない。では実物を連れてきて御隠居を納得させてあげるから、暫時まちなさい」と言って、自ら負担した。何とも気のいい医者である。

(G)

(7) 『うつほ物語』に登場する娯楽①(吹上上巻) 2011/07/28

『うつほ物語』の登場人物の一人である「源仲頼」(みなもとのなかより)は、藤原仲忠らと吹上の地(現在の和歌山県)を訪れます。吹上に神南備種松(かんなびのたねまつ)という大富豪がいると聞いて、会ってみたくなったからです。

仲頼は、種松からお土産の一つとして「白銀の旅籠馬」をもらいましたが、都に戻ると、それを源正頼にプレゼントしています。

白銀の旅籠馬ども、腹に人入れて、歩ませて引き出でたり。 [新編日本古典文学全集①四二七頁]

白銀の馬、旅籠負ほせながら、中に人入れて歩ませて御覧ぜさす。おとど(=正頼)、旅籠馬を、いと興ありと御覧じて、… [新編日本古典文学全集①四三四頁]

 「旅籠」とは旅行用の容器のことで、それを銀で鋳造した馬に背負わせていたようです。しかも、この銀製の馬には空洞があり、人が入れるようになっています。とても大きな作り物ですね。獅子舞の獅子頭のような被り物や着ぐるみを想像してみるとわかりやすいでしょう。

実際に、源正頼は、「白銀の旅籠馬」に人を入れて、娘婿や孫たちにホース・ショーを見せています。

さて、人が入って動く作り物の動物は、中国の「百戯」(=物真似・曲芸・歌舞・幻術・手品等のような芸)にあります。平楽観(=中国・洛陽の西にあった宮殿の名。後漢・明帝の造営)の百戯では、百尋もある作り物の巨獣「蔓延」が仮装の熊・虎と闘ったり、作り物の白象が歩きながら子を生んだり、巨大な海魚が眼前で姿を変じて龍に化けたともあります(張平子「西京賦」)。作り物の動物たちが動く光景は、『うつほ物語』の旅籠馬と重なりますね。

『うつほ物語』の馬は銀製です。馬の中に人が何人入るかわかりませんが、銀製の馬は重たいに違いありません。しかも、このホース・ショーを楽しんだのは旧暦の四月ですから初夏です。

昨年の九月、職場に千葉県のマスコットキャラクター「チーバくん」がやってきましたが、着ぐるみの中の人は、きっと暑かったことでしょう。

  銀製の旅籠馬の中の人は汗だくのはず…。銀は汗に弱いから、すぐに黒ずんだり曇ったりしたのではないでしょうか。そうは言っても、シルバーへの憧れは今も昔も同じ。物語の中では、最高級の着ぐるみだったのです。

(し)

(6) 『うつほ物語』の天人①(俊蔭巻) 2011/07/21

『うつほ物語』は、清原俊蔭(きよはらのとしかげ)の一族の物語です。以前、藤原仲忠を物語の主人公として紹介しましたが、正確には、俊蔭・俊蔭の娘・仲忠・いぬ宮の四代にわたる、秘曲伝授の物語です。

 さて、物語は、俊蔭が遣唐使として唐に渡る途中、船が難破し、波斯国(=ペルシャ)に漂着するところから始まります。俊蔭は二十三年もの間、波斯国で過ごすことになりますが、そこで異形(いぎょう)の者たちに出会います。波斯国の西方で出会った「七人の人」も、実は人間ではありません。お母さんは「忉利天(とうりてん。須弥山の頂上で、帝釈天の住む城がある)の天女」ですから、「七人の人」は天人です。

この「七人の人」の第一番目の天人は、年齢が三十歳ぐらいとあります。

歳三十ばかりにてあり。 [新編日本古典文学全集①31頁]

えっ?天人にも年齢があるんですね。『竹取物語』では、かぐや姫の故郷である「月の都」の人は、永遠に年をとらないとあります。

「かの都の人は、いとけうらに、老いをせずなむ。…」(あの月の都の人は、とても清らかで美しく、歳をとらないのです。)

なるほど、天人もいろいろあるんですね。平均寿命が今より短い平安時代は、四十歳から長寿のお祝いをしていたので、三十歳だと働き盛りの壮年をイメージしたらよいでしょうか。

この「七人の人」たちは、俊蔭が日本に持ち帰る琴(きん。七絃の琴)に自分の手首の血を滴らせて、琴の名前を書きつけています。

かの国まで持て帰るべき琴には、をのがたぶさの血をさしあやして、琴の名を書きつく。 [新編日本古典文学全集①38頁]

ええっ?天人にも血が流れているんですか?そういえば、手塚治の『火の鳥』も、火の鳥の血を飲むと不死になれるという設定でしたね。

 「血も涙もない」という言葉がありますが、やっぱり天人も、あったかい血が流れていた方がいいのかなぁ…。

(し)

(5) 『うつほ物語』老女の恋①(忠こそ巻) 2011/07/14

『うつほ物語』の忠こそ巻には、「一条北の方」が登場します。もとは、左大臣「源忠経」の妻でしたが未亡人となり、同じく伴侶を亡くした右大臣「橘千蔭」に言い寄ります。一条北の方は五十余歳、千蔭は三十余歳です。そう、これは、いわゆる「老女の恋の物語」です。

一条北の方があまりにも熱心にアプローチするものだから、千蔭は気が進まないけれど、付き合うようになります。

交際期間中のことはいずれお話しいたしますが、この一条北の方は千蔭とその息子に対してとんでもないことをしてしまいます。当然、待っていたのは破局でした。

一条北の方は千蔭と別れたくありません。だから、イチかバチかの賭けに出ました。今までもらった恋文をすべて千蔭に返します。

沈(=沈香で作った箱)の箱一具にとり集めて入れて、大殿(=千蔭)に奉れたまふとて、よろづの悲しげなることを書き集め、… [新編日本古典文学全集①245頁]

一条北の方「せめていただいたお手紙だけでも、千蔭様の形見と思っておりましたが、私はもう長くないと思われますので、生きている間にお返しいたします」。

この気持ち、わかりますか?老女は必死で愛を取り戻したくて、もらった手紙を突き返すことで、男の気を引こうとしたのです。千蔭に愛が少しでも残っていれば、驚いて、一条北の方を訪ねたことでしょう。

でも、千蔭は、もう「一条」という言葉も耳にしたくなかったし、女の顔も見たくありませんでした。だから、これ幸いと、一条北の方からもらった手紙をすべて送り返したのでした。

白銀の透箱(=すかしのある飾り箱)二つに、この北の方の御文ども、浅茅つけたりしよりはじめて、返したてまつれたまふ。北の方、心細きこと限りなし。 [新編日本古典文学全集①246頁]

もうおわかりですね。千蔭の書いた手紙は沈の箱「一つ」に収まったのに対し、一条北の方のは透箱「二つ」もありました。一条北の方は、千蔭の倍、手紙を送っていたことになります(箱の大きさは不問といたしましょう)。

このお話からわかること。別れの予感があっても、男性からもらったものを返してはいけません。「別れ」が決定的になります。ましてや、もらったメールを厭味ったらしく、「あの時こう言ってくれたよね」と、もう一度送り返したとしたら、相手は逃げていくこと確実です。

  それに、女性はちょっとしたことでもメールを送りがちですが、男性からの返信があまりないようでしたら、今後のことを考えた方がよいかも…しれませんね。

(し)

(4) ドケチの奥義  2011/07/09

「おーい、棚の修理をするから、大家(おおや)んとこへ行って、金槌(かなづち)を借りて来い。」

 言い付けられた者が、手ぶらで戻ってくる。

「どうしたい。」

「へえ、釘でも打たれたら、頭が減るってんで、貸さねえんです。」

「ちぇ、ケチな野郎だ。しようがねえ、家(うち)のを使おう。」

このくらいなら笑って済ませられよう。だが、井原西鶴作と伝えられる『日本永代蔵(にっぽんえいたいぐら)』(元禄元年―1688―刊)に登場する藤屋市兵衛はケタが違う(巻二「世界の借家大将(かしやだいしょう)」)。

藤市のケチぶりは骨の髄まで徹していた。汚れの目立たない皮足袋(たび)に雪踏(せった)を履き、決して道を走り回らない。草履の底が減るからだ。出かけた野道では薬草となる草を見つけて帰る。けつまずいた所で、火打ち石を拾う。ただで起き上がるものか。

もちろん、この男ただのケチではない。情報を得るのに敏速で、小判や銭の両替相場をいち早く把握し、綿・塩・酒などの先物取引にも通暁していた。だから、一代で大福長者といわれるほどの財を成したのだ。

何しろ考え方が合理的だから、無駄がない。どの商家でも年末となれば、自家で餅をつく。ところが、藤市はデリバリーにする。だいたい年末の多忙な時に餅つきなんぞに人手は割けない。年に一遍しか使わない道具を持っておくのも煩わしいというわけだ。

  歳暮も押し迫った28日、餅屋がつきたてを運んでくる。呼べども藤市知らぬ顔でソロバンを弾く。じれた餅屋が若い手代(てだい)と交渉する。二時間ほど過ぎてから、手代に問うと、目方どおりに受け取って帰したという答え。藤市、「この家に奉公する程にもなき者ぞ、温(ぬく)もりのさめぬを請けとりしことよ。」と言って、再び秤にかければびっくり仰天。湯気を立てている餅と冷めた後では重さが違うのだ。手代は食いもしない餅に口あんぐりだったとか。

(G)

(3) 『うつほ物語』の「うつほ」①(俊蔭巻)  2011/07/03

 『うつほ物語』の主人公・仲忠はもちろん貴族ですが、生活が苦しくなった時、京都の北山(架空の場所)で、母と「うつほ住み」を体験します。

 「うつほ」とは(木の)空洞のことです。仲忠は、四本の杉の大木が上方で重なり合い、根元が空洞になっているところを住まいとしたのです。『うつほ物語』というタイトルは、この杉のうつほで、しばらくの間、母子が暮らしたことに由来します。

いみじういかめしき杉の木の四つ、物を合はせたるやうに立てるが、大きなる屋のほどにあき合ひてある

 『竹取物語』のかぐや姫も、竹筒の中にいましたね。竹のうつほは、聖なる場所。そこに籠ることで、かぐや姫は竹の生命力を身につけたのかも…。

ところで、杉のうつほをご覧になったことはありますか?うつほは屋久杉(縄文杉)など、古くて大きな木に見られます。あまり人が住めるようには思えませんが、暗くぽっかりとあいた穴は不思議な感じがして、なぜか惹きつけられます。

 富山県魚津市には、「洞杉」と呼ばれる、天然杉の古木が群生しているところがあります。木の幹が空洞になっている杉のあることから「洞杉」と呼ばれるようになったそうです。幹のうつほには樹神が宿っていそうです。洞杉に「なんのせ、いっぺん来てみられ」。(富山弁)

(し)

・新編日本古典文学全集『うつほ物語①』(小学館)76頁

(2) 『うつほ物語』子どもの玩具①(蔵開下巻)  2011/06/28

『うつほ物語』の主人公「藤原仲忠」は、ある時、まだ幼い東宮(=皇太子の敬称)に贈り物をします。平安時代の皇室や貴族の玩具にはどのようなものがあったのか、見てみましょう。

右大将(=仲忠)は東宮の若宮に、をかしき弄びもの、参りもの調ぜさせたまひ、雛の糸毛、黄金造りの車、色々に調じて、人乗せ、黄金の黄牛(あめうし)懸けて、破子(わりご)ども、白銀、黄金調じて、入れものいとをかしくして、駒に人乗せなどして設けたまへり。

これらは、雛遊び(人形遊び)用の作り物です。雛用の糸毛車(=屋形を様々な色糸で飾った牛車)や黄金作りの車は様々な色で飾られ、人形を乗せてあります。しかも、その牛車には、黄金作りの黄牛(=毛があめ色の上等な牛)が懸けてあります。また、白銀や黄金で作った破子(=食物を入れる容器)などには、とても面白い物を入れてあります。駒(=小さい馬)に人形を乗せたものもあります。

黄金製なんて、ずいぶん豪華ですね。人形もいくつもありそう…。破子に入っていた面白い物って何でしょう?これらの玩具は皆、仲忠が東宮のために、特別に作らせた玩具なのです。

 昔、リカちゃん人形なら持っていましたけど、病気になったから買ってもらえた唯一の人形でした。   

(し)

・新編日本古典文学全集『うつほ物語②』(小学館)581頁

(1) 『うつほ物語』桜に書きつけた歌(春日詣巻) 2011/06/23

『うつほ物語』(平安時代の長編物語)の主要登場人物の一人である「忠こそ」は、「あて宮」という美しい姫君を垣間見て、彼女を好きになります。あて宮が、父・源正頼や一族とともに春日大社に参詣した折のことでした。

忠こそは、あて宮に恋するあまり、散り落ちる桜の花びらに、爪もとから血を滴らせて、歌を書きつけます。

憂き世とて 入りぬる山を ありながら いかにせよとか 今もわびしき

そして、その花びらをあて宮がいる所の後ろのほうに、押して張りつけて立ち去ったのでした。

自分の血で歌を書きつけた行為にまず驚きますし、あの小さな桜の花びらに一字一字書きつけたのでしょうか。それとも一枚の花びらに三十一文字を書きつけたのでしょうか。

もし、あなたがあて宮だったらどうでしょう。舞い落ちる桜の花びらに歌を書きつけることはとても風流だけど、血を滴らせたものだとなると…。もらってもあまり嬉しくないかもしれません。

 でも、忠こそは、本当にあて宮に強く心を惹かれたのですね。

(し)

・室城秀之編『うつほ物語』(角川ソフィア文庫)79頁

【おまけ】『伊勢物語』第24段には、ある女が自分の指の血で岩に歌を書きつけて絶命する場面があります。

Editor: 山下 伸夫
Updated Date: 2016-05-19 15:25:16